第014話 ブレブレノブ・二
「阿久津さん」
やえが言った。
佐知は、鈴の写真から目を離せなかった。
暗い。ブレている。斜め。余白が多い。なのに、音はある。
そう思ったところで、やえの指が画面の端を軽く叩いた。
「今、下手だなって思いました?」
佐知は顔を上げた。
「思ってない」
返事が早すぎた。
やえは、あ、と小さく言った。
「思いましたね」
「思ってない」
「二回言うと、だいたい思ってます」
「その決めつけ、雑」
「雑判定です」
やえはスマホを少し引いた。画面の中の鈴が遠くなる。佐知は、遠くなった鈴をまだ目で追っていた。
ハルエはカウンターの奥で、紙袋をたたんでいる。ぱん、と平たい音がした。聞いているのかいないのか分からない顔で、袋の角を合わせている。
「別に、下手だなとは思ってない」
佐知は言い直した。
「じゃあ、なんですか」
「暗いな、とは思った」
「それ、下手の親戚では」
「違う」
「いとこくらい?」
「違うって」
やえは笑った。
佐知は笑えなかった。暗いな、ブレてるな、とは思った。斜めだな、とも思った。もっと寄ればいいのに、露出を上げればいいのに、手ぶれを抑えればいいのに、と思った。
それをまとめると、下手だな、になる。
なるのが嫌だった。
「でも、これ、鈴って分かるでしょ」
やえが画面をもう一度向ける。
小さな鈴。
背景は暗い。
上の錆は、ぼやけている。
でも、分かる。
「分かる」
「じゃあ、撮れてます」
「分かればいいの」
「分からないよりは」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題ですか」
やえは本当に聞いている顔をした。
佐知は言葉に詰まった。
どういう問題なのか、自分でも分からない。ただ、画面の中のものが雑に扱われている気がした。鈴でも、椅子でも、溶けたアイスでも、靴でも。せっかく写すなら、もう少しどうにかしたほうがいい。
けれど、どうにかしたいと思うほど、大事だと認めることになる。
それも嫌だった。
「見にくい」
佐知は短く言った。
「見にくい写真は、存在してはいけない」
「そんなこと言ってない」
「今の、言ってないけど顔が言いました」
「顔は喋らない」
「阿久津さんの顔、結構喋りますよ」
やえは画面を戻し、さっきの靴の写真を出した。佐知のスニーカー。片方だけ。影に半分入って、靴ひもがほどけかけている。
「これも、下手ですか」
「勝手に撮ったやつでしょ」
「はい」
「まずそこ」
「下手かどうかでお願いします」
「お願いします、じゃない」
佐知は画面を見た。
靴の白いゴム。コンクリートのひび。ほどけたひも。右上の空き。
下手だ。
でも、嫌いではない。
その二つが同時に出てきて、佐知は困った。
「……右上が空きすぎ」
「採点始まった」
「してない」
「右上、減点」
「減点って言ってない」
「でも減りました」
やえは画面の右上を指で隠した。
「これでどうですか」
「指が邪魔」
「指、参加型なのに」
「参加させないで」
やえは指を外した。画面が元に戻る。佐知の靴は、また右上に空きがあるまま置かれた。
佐知は口を結んだ。
自分の中に、採点表みたいなものが勝手に出てくる。構図、ピント、明るさ、余白。そんな表を出すつもりはないのに、画面を見ると列が並ぶ。
昔からそうだったわけではない。
見て、変だと思って、面白いと思って、撮る。
それだけで済んでいた時期があった。
いつから、こうなったのか。
佐知は、水のペットボトルを手に取った。もう冷たくない。飲んでも、喉の奥にぬるさだけが残る。
「阿久津さんって」
やえが言った。
「何」
「写真、やってました?」
佐知はキャップを閉め損ねた。
ペットボトルの口が、指の下で少し鳴る。ペコ、と小さくへこんだ音がした。
「やってない」
「今の間、長かったです」
「やってない」
「じゃあ、見る専門」
「専門じゃない」
「でも、見るの上手そうです」
「上手いとかない」
「ありますよ。見てる人の顔、あります」
やえは、佐知の顔をじっと見た。
見られるのは苦手だった。カメラを向けられるより、まだましなはずなのに、今は同じくらい落ち着かない。
「やめて」
「何を」
「見るの」
「今まで私の写真、めちゃくちゃ見てたのに」
「写真でしょ」
「私のスマホです」
「屁理屈」
やえは肩をすくめた。
「阿久津さん、自分が見る側だと強いですね」
「強くない」
「強いです。すごい厳しい」
「厳しくない」
「椅子に負けた人とは思えない」
「負けてない」
「引き分け?」
「勝負してない」
佐知は水をカウンターに置いた。底に残っていた水滴が、また木目へ広がる。ハルエがちらりとそれを見たが、何も言わなかった。
やえは靴の写真を閉じずに、スマホを胸の前に持っていた。
「下手でも、残ってますよ」
その言い方は、さっきまでより少しだけ平らだった。
佐知は画面を見た。
自分の靴が、そこにある。
右上が空いている。影が中途半端。ひもがほどけている。撮った本人はたぶん何も考えていない。少なくとも、佐知が考えるほどは考えていない。
でも、残っている。
佐知が撮らなかった椅子は残っていない。
それを比べるのはずるい。ずるいのに、比べてしまう。
「残ればいいってものでもない」
佐知は言った。
「残らないよりは?」
「分からない」
「分からないって言えるんですね」
やえが少し驚いた顔をした。
「言える」
「便利」
「何でも便利にしないで」
「便利なものは便利なので」
やえは麦茶を一口飲んだ。ぬるい、と顔に少しだけ出る。それでも飲む。減ったものは、減ったものなので、という声が佐知の中に戻った。
ハルエが、たたんだ紙袋を棚の端に置いた。
「写真なんて、見たい人が見るもんでしょ」
急に言われて、佐知はハルエを見た。
「私に聞かれても困りますけど」
「聞いてないよ。紙袋に言った」
「紙袋」
やえが笑う。
ハルエは笑わず、別の紙袋を手に取った。
「店の写真もね、昔はあったけど。だいたい誰かの頭が切れてる」
「参加型ですか」
「邪魔型」
やえは「それは新しい」と言った。
佐知は、ハルエの言葉を追いかけた。
誰かの頭が切れている写真。
昔の店。
それを、下手な写真だと思うのか。懐かしい写真だと思うのか。残っている写真だと思うのか。
判断が、うまく立たなかった。
「阿久津さん」
やえがまた呼ぶ。
「何」
「今、すごい顔してます」
「してない」
「してます」
「どんな」
やえは少し考えた。
考える顔が、意外に真面目だった。ふざける前の、ほんの一瞬だけの真面目さ。佐知はその横顔を見た。
撮りたい、と思った。
思って、すぐに目をそらした。
やえはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、口を開いた。
「写真部の幽霊みたいな顔」
佐知の指が、ペットボトルのラベルを強く押した。
薄いラベルが、ぐしゃりと小さく鳴った。
「何それ」
声は、思ったより低かった。
やえは、少しだけ目を丸くした。
その顔を見て、佐知は自分が反応したことに気づいた。




