第013話 ブレブレノブ・一
佐知がスマホを下ろすと、やえが麦茶のキャップを閉めた。
ペットボトルの中で、残った麦茶がゆっくり揺れる。茶色い水面が、店の薄暗さを小さく映していた。
「撮らないんですね」
やえが言った。
責める声ではなかった。
前にも聞いた言い方だった。けれど、今回は少しだけ違って聞こえた。屋上の夕方に言われたときより、軽い。軽いぶん、逃げ場が少ない。
「撮らない」
佐知はスマホをポケットにしまった。
しまったあとで、さっきまで画面に椅子があったことだけが手の中に残った。写真はない。けれど、画面に入れた感触はある。そういうものを、何と呼べばいいのか分からない。
「じゃあ、見る側ですね」
「何を」
「資料」
「資料?」
やえはカウンターに麦茶を置き、スマホを両手で持った。画面を何度か指で払う。写真の小さな四角が、ずらずらと並んだ。
「やえ資料集です」
「見たくない」
「まだ何も見せてないのに」
「名前でだいたい分かる」
「じゃあ、だいたい見たことになります」
「ならない」
やえは笑って、佐知のほうへ画面を向けた。
佐知は見ないつもりで、見た。
最初に見えたのは、溶けたアイスだった。
紙のカップの縁に、白いものがだらりと垂れている。たぶんバニラ。下には屋上のコンクリートが写っている。影が斜めに入って、肝心のアイスの半分が暗い。ピントは、カップではなく奥のフェンスに合っていた。
「これ、前の」
「初登場アイスです」
「初登場って」
「消えましたけど」
やえは画面を少し動かす。
次の写真は、錆びたフェンスだった。網目の一部が大きく歪んでいる。夕方の光が入りすぎて、右側が白く飛んでいた。左下に、やえの指らしい赤いものが入っている。
その次は、給水塔の脚。
その次は、屋上の排水口。
その次は、空の桃の紙パック。
どれも斜めだった。
どれも、何かが少し足りない。近すぎる。遠すぎる。切れている。光が強い。暗い。ブレている。撮りたいものが画面のどこにあるのか、一瞬考えないと分からない。
佐知は、口を閉じた。
閉じていないと、何か言いそうだった。
「いっぱいあるね」
かろうじて出した言葉は、感想というより、棚の数を数えたみたいなものだった。
「はい。容量を圧迫しています」
「消せば」
「ひどい」
「圧迫してるなら」
「圧迫してるものにも生活があります」
「ないよ」
「あります。スマホ内生活」
やえはそう言って、また画面を動かした。
次に出てきた写真で、佐知は少し息を止めた。
靴だった。
自分のスニーカーのつま先。
屋上のコンクリートの上に、片方だけ写っている。白かったはずのゴムの部分が少し汚れている。影が斜めに伸びていて、靴ひもが一本だけほどけかけていた。
「これ」
「阿久津さんの足です」
「勝手に撮ったの」
「足だけです」
「そういう問題じゃない」
「顔は撮ってません」
やえは悪びれない。
悪びれない顔をされると、怒る場所を見失う。佐知は画面から目を離そうとして、離せなかった。
靴の写真は、下手だった。
でも、自分の靴がこんなふうに見えていたのか、と思った。
片方だけ影に入っている。もう片方は写っていない。持ち主が画面の外へ逃げたみたいに見える。靴ひもの先が、コンクリートの小さなひびに重なっていた。
撮るなら、もう少し下から。
靴だけでなく、足首の影も入れたほうがいい。
画面の右上が空きすぎている。
でも、ひもの先とひびの重なりは悪くない。
悪くない、と思ってしまった。
「阿久津さん?」
やえの声で、佐知はまばたきした。
「何」
「足に感動しました?」
「してない」
「足だけの人、足に厳しい」
「その呼び方やめて」
「じゃあ、靴の人」
「悪化してる」
やえはまた笑った。
佐知は笑わないまま、画面の中の靴を見る。自分の足なのに、自分のものではないみたいだった。撮った人が違うだけで、見え方がずれる。
ずれたまま、残っている。
やえは次の写真へ進めた。
喫茶ポニーのメニュー。
麦茶。
さっき下ろした椅子。
椅子の写真は、佐知が思った通り斜めだった。脚が一本切れている。窓の汚れにピントが合っていて、椅子の背は少し甘い。床の影は良かった。影だけなら、少しだけ良かった。
佐知は、また言葉を飲み込んだ。
「全部、残すんだ」
「全部ではないです」
「消すのもあるの」
「間違えて連写した床とか」
「これは?」
佐知は椅子の写真を指さした。
やえは画面を見た。
「残します」
「ブレてる」
「ブレてますね」
「脚、切れてる」
「切れてます」
「ピント、窓」
「窓も参加型」
「何でも参加させないで」
やえは、ふふ、と息だけで笑った。
佐知は自分の言い方が、さっきより少し強くなっていることに気づいた。気づいて、口を閉じる。
ハルエはカウンターの奥で、古い布を畳んでいた。二人の会話を聞いているのかいないのか分からない。たまに鍵の束が、じゃら、と鳴る。
やえは画面をさらに送った。
そこには、ガラス戸の鈴が写っていた。
小さな鈴。上のほうに少しだけ錆。背景はほとんど真っ黒で、鈴だけがぼんやり光っている。暗すぎる。ブレている。けれど、カランコと鳴った音の場所だと分かった。
佐知は、指先を握った。
音は写真に写らない。
写らないはずなのに、見た瞬間に鳴った。
それが少し悔しかった。
「これ、いつ撮ったの」
「さっきです」
「いつ」
「阿久津さんが椅子とにらめっこしてるとき」
「にらめっこしてない」
「してました。椅子、たぶん負けました」
佐知は返事をしなかった。
自分が椅子を画面に入れて、押せずにいた間に、やえは鈴を撮っていた。音の出どころを、雑に、暗く、ブレたまま残していた。
その素早さが、腹立たしい。
うらやましい、とは思いたくなかった。
「阿久津さんも、さっき撮ればよかったのに」
やえが言った。
軽い声だった。
佐知は画面を見たまま、口の中で言葉を選んだ。
撮ればよかった。
そう言われても、撮れなかったものは撮れない。今さら戻せない。椅子はまだそこにあるけれど、さっきの数秒はもうない。画面に入っていた椅子は、写真にならないまま消えた。
「別に」
佐知は言った。
自分でも、弱い返事だと思った。
やえはスマホを引っ込めなかった。画面には、まだ鈴の写真が残っている。
佐知の目は、勝手にそこを見ていた。
暗い。
ブレている。
余白が多い。
もっと寄ったほうがいい。
露出を上げたほうがいい。
斜めを直したほうがいい。
でも、音はある。
佐知の中で、点数のつかないものに、点数がつき始めた。




