第012話 カランコ・四
スマホを握っていることに気づいて、佐知は指をゆるめた。
ポケットの外から触れているだけなのに、画面の角が手のひらに当たっている気がする。撮るつもりはなかった。さっきから何度も、そういうことにしている。
やえはハルエの出した古いメニューを見ていた。
紙は、カウンターの上で少し反っている。端のほうが日焼けして、中央だけが昔の色を残していた。クリームソーダの絵は、壁のものよりさらに雑だった。緑の丸が二つ重なって、その上に赤い丸が乗っている。
「メニュー、増えた」
やえが言った。
「増えてない。出しただけ」
ハルエは、カウンターの内側で段ボールを片づけている。
「出土」
「店だからね、ここ」
「遺跡感あります」
「うれしくないね」
ハルエの声は平たい。怒っていないことが、だんだん分かってくる。怒っていないのに、近寄りすぎると手の甲を軽く払われそうな距離がある。
やえは、またスマホを持ち上げた。
佐知は反射的に口を開きかけた。
今度は言わなかった。
やえの画面に、古いメニューが入る。斜め。少しだけ手前に、カウンターの水滴。奥に、白いカップの丸い縁。さっきよりは見える。けれど、やっぱり端が切れている。
カシャ。
やえは画面を見て、うなずいた。
「はい、出土記録」
「記録って言うほどじゃない」
佐知は言ってしまってから、また余計だったと思った。
やえは気にした様子もなく、スマホを下げる。
「阿久津さん、記録に厳しい」
「厳しくない」
「やさしい記録ってあります?」
「知らない」
「じゃあ、普通の記録」
普通。
さっき自分が使った言葉が、店の中を回って戻ってきた気がした。
佐知はカウンターの上の麦茶を見た。水滴はもう丸くない。底の周りに薄く広がって、木目の溝へ逃げている。
やえもそれを見る。
「それ、阿久津さんの二本目ですか」
「違う」
「違うんだ」
「余ったから」
言ってから、佐知は息を止めた。
余る、という言い方は変だった。買ったばかりで、まだ誰にも渡していないものは余らない。余るには、いったん必要だったことを認めないといけない。
やえは、その変さを拾わなかった。
「もらっていいやつですか」
「別に」
「別に、は飲めます?」
「飲める」
「便利」
やえが笑った。
その言い方を聞いた瞬間、佐知はついさっきの外階段を思い出した。屋上の熱が背中から剥がれて、やえが先に歩き出した階段だ。
別に、は歩けます?
歩ける。
便利。
同じやりとりを、別の場所でもう一度している。
佐知は麦茶を持ち上げた。ぬるくなったペットボトルは、さっきより軽い気がした。渡すだけなのに、指が少し滑る。
やえが両手で受け取る。
「どうも。余り、いただきます」
「余りって言わないで」
「言ったの阿久津さんです」
「そうだけど」
やえはキャップを開ける前に、麦茶をカウンターの上へ置いた。
佐知は嫌な予感がした。
やえはスマホを構える。
「撮るの」
「撮ります」
「飲み物を」
「飲む前の飲み物です」
「意味ある?」
「飲んだら、なくなるので」
やえはそれだけ言って、麦茶にスマホを向けた。
カシャ。
画面には、麦茶のペットボトルが斜めに写っていた。透明なテープが中途半端に浮いている。奥に古いメニューの端。横に佐知の水。手前にはカウンターの水滴が、ぼやけた丸になって入っている。
佐知は呆れた。
呆れた、ということにした。
「それも撮るんだ」
「もらったので」
「もらったら撮るの」
「撮れるときは」
やえは画面を確認して、少しだけ満足そうにした。
それがまた、佐知には引っかかった。
そんな写真でいいのか、と言いかける。
言わない。
言うと、また「ちゃんとしてないと、だめですか」と返ってくる気がした。その返事に、佐知はまだ勝てない。
やえは麦茶のキャップを開けた。
ペコッ、と小さく鳴る。
佐知はその音を聞いて、さっき自分がガラスの前で立てた音を思い出した。あの音でハルエが顔を上げた。あの音がなければ、佐知はまだ外にいたかもしれない。
麦茶が、やえの喉を通る。
やえは一口飲んで、肩の力を抜いた。
「ぬるい」
「文句あるなら返して」
「もう減りました」
「減ったら返せないの」
「減ったものは、減ったものなので」
やえはそう言って、また麦茶を飲んだ。
減ったものは、減ったもの。
なくなるものは、なくなるもの。
分かっているみたいな言い方だった。分かっているから平気、という顔にも見えた。分かっていないから、そう言っているようにも見えた。
佐知には、どちらか分からない。
ハルエが、店の奥へ回った。
「椅子、一個下ろすよ」
「座るんですか」
やえが聞いた。
「座らない。乗せっぱなしだと、脚の跡がつく」
「もうついてそう」
「ついてるから、増やさない」
ハルエは四人掛けのテーブルへ近づき、逆さまに乗った椅子の脚をつかんだ。佐知は思わず手を出した。
「持ちます」
「じゃあ、そっち」
許可が早い。
佐知は椅子の背を持った。木の縁は思ったよりざらついている。昔は丸かったところが、何度も当たって、少し平らになっていた。
二人で椅子を下ろす。
床に脚がつくと、ぎし、と鳴った。
カランコではない。
カシャでもない。
古い木が、古い木のまま鳴る音だった。
ハルエは椅子を軽く揺らした。
「まだ座れる」
「座っていいですか」
やえが言った。
「壊したら弁償」
「解体予定なのに」
「壊す予定と、壊していいは違う」
ハルエはまた平たい声で言った。
やえは椅子には座らず、横から写真を撮った。
カシャ。
佐知は、今度は画面を覗かなかった。
覗かなくても、たぶん斜めだ。光も足りない。椅子の脚が一本切れているかもしれない。そう思う自分が、少し嫌だった。
椅子は窓際に置かれた。
外の光が、ガラス戸の汚れを通って床に落ちている。椅子の脚の影は、まっすぐではなかった。少し歪んで、床の傷に引っかかりながら伸びていた。
佐知は、その影を見た。
撮りたい、と思った。
今度は、思った。
椅子だけではない。椅子の影。古い床。水滴の跡が残ったカウンター。麦茶を持つやえの手。カップの白。ハルエのタオル。鈴の下の小さな錆。
全部を一枚に入れたいわけではなかった。
ただ、椅子と影だけでよかった。
佐知はスマホを出した。
画面が明るくなる。
自分の指が、少し震えている。大きくはない。見ようとしなければ分からないくらいの小ささだった。
カメラを開く。
画面に、椅子が入った。
その瞬間、店の中の音が少し遠くなった。やえが麦茶を飲む音。ハルエが段ボールを引きずる音。外を通る車の音。全部、画面の外へ寄った。
椅子は、思ったより暗く写った。
佐知は一歩だけ横へ動いた。
影の線が変わる。
もう一歩、動こうとしてやめた。
ちゃんとしようとすると、また戻れなくなる気がした。
でも、雑に押すこともできない。
画面の中で、椅子は黙っていた。
ハルエが言った通り、建物は黙っているだけなのかもしれない。椅子も、床も、カップも、何も言わない。何も言わないものを、佐知は勝手に見て、勝手に迷っている。
シャッターの白い丸に、親指が近づく。
押さなかった。
押さないまま、数秒だけ画面を見ていた。
やえも、ハルエも、何も言わなかった。
それが少しだけ助かった。
佐知はスマホを下ろした。
画面の中の椅子が消える。
撮らなかった。
けれど、閉じるまでの間だけ、椅子はちゃんと画面の中にあった。




