第011話 カランコ・三
足音は、階段の途中で一度止まった。
それから、二段飛ばしみたいな軽さでまた近づいてきた。
「あれ」
入口の外から、やえの声がした。
佐知は麦茶を見た。
カウンターの上に置いたままの二本は、さっきよりぬるくなっている。透明なテープの端が、水滴で少し浮いていた。
「阿久津さんが捕獲されてる」
「されてない」
「展示ですか」
「違う」
やえは、開いたガラス戸から中を覗いた。外の明るさを背負っているせいで、顔の細かいところは見えない。白いTシャツの肩と、トートバッグの斜めの線だけが先に目に入った。
「入っていいですか」
「聞くようになったんだ」
ハルエが、段ボールの中からソーサーを取り出しながら言った。
「大人なので」
「高校生でしょ」
「ほぼ大人です」
「ほぼは便利だね」
「かなり」
やえは靴のまま店内に入った。鈴が鳴る。
カランコ。
やえはその音に少しだけ顔を上げた。
「まだ鳴る」
「鳴るよ。壊れてないから」
ハルエは、当然みたいに言った。
やえは店の中を見回した。佐知がさっき時間をかけて見ていたものを、やえは順番を飛ばして見た。逆さまの椅子。カウンターの傷。土だけの鉢。古いメニュー。白いカップ。水滴のついたペットボトル。
視線が、麦茶で一度止まる。
佐知は、何も言われる前に水のほうを手に取った。
「二本」
やえが言った。
「暑かったから」
「暑いと二本になる」
「なる」
「勉強になります」
やえはそれ以上追わなかった。追わない代わりに、スマホを取り出した。
画面を開く動きが早い。
ためらいがない。
佐知がポケットの外側をなぞって、戻して、また思い出していたものを、やえは指一本で済ませる。
「うわ、メニュー」
やえは奥の棚へ近づいた。
「触るなよ」
ハルエが言った。
「撮るだけです」
「撮るだけなら、まあ」
「撮るだけって、すごい許可ですね」
「すごくはない」
やえは手書きのメニューにスマホを向けた。
緑のクリームソーダ。
赤い丸。
白い雲みたいなアイス。
佐知が少し前まで、画面の中に入れたらどう見えるのか考えていたものだった。
やえのスマホが、すぐ鳴った。
カシャ。
画面の中のメニューは、斜めだった。棚の端も入っている。上のほうに、やえの指の影がかかっている。店の外の光がラミネートに反射して、肝心の「クリームソーダ」の文字が白く飛んでいた。
佐知は、見ないふりをした。
見ないふりをしたのに、全部見えた。
もう少し下がればいい。
角度を変えればいい。
光を避ければいい。
指をどければいい。
そういう言葉が、勝手に頭の中で並んだ。並んでから、佐知は水を飲んだ。喉を通る水は、もう冷たくない。
「それ、撮れてるの」
言わないつもりだった。
でも言った。
やえは画面を見て、首をかしげた。
「撮れてます」
「文字、飛んでる」
「飛んでますね」
「指、入ってる」
「指もいました」
「いました、じゃなくて」
やえは、画面を拡大した。指の影を見て、少し笑った。
「参加型です」
「メニューが見えない」
「見えてますよ。だいたい」
「だいたいでいいの」
佐知の声が、自分で思っていたより硬くなった。
やえは、その硬さに気づいた顔をした。けれど、すぐには返さなかった。スマホを胸の前に持ったまま、佐知ではなくメニューを見ている。
店内が、少し静かになった。
外では車が通った。ガラス戸が細かく震える。カウンターの上のスプーンが、段ボールの中で小さく触れ合った。
ハルエは二人を見比べなかった。見比べないまま、欠けたソーサーを布で拭いている。
「阿久津さんは」
やえが言った。
「なに」
「ちゃんと見えるように撮る派ですか」
派。
その言い方が軽すぎて、佐知は返事に詰まった。
ちゃんと見えるように。
ちゃんと光を読む。
ちゃんと構図を決める。
ちゃんと、何を撮ったのか分かるようにする。
そうしないと、撮ったものが失礼になる気がしていた。物にも、人にも、その時間にも。けれど、それを口に出すと大げさだった。大げさな人になるのは嫌だった。
「普通、そうでしょ」
佐知は短く言った。
「普通」
やえは、また繰り返した。
佐知は水のキャップを閉めた。最後まで締めたつもりなのに、少しだけ戻った。手が濡れているせいで滑る。
「撮るなら、ちゃんと撮ったほうがいい」
言ってから、胸の奥が一段下がった。
誰の声だろう。
自分の声のはずなのに、少し遠い。
やえはスマホを下ろした。
「ちゃんとしてないと、だめですか」
「だめっていうか」
「だめではないけど、嫌?」
佐知は答えなかった。
嫌、ではない。
そう言えば嘘になる。
下手だな、とは思った。もったいない、とも思った。せっかく残すなら、もう少しましに残せばいいのにと思った。
その全部が、口に出すとひどい。
やえは、もう一度メニューにスマホを向けた。
今度は少しだけ下がった。指も画面の外へ逃がした。けれど、反射はまだ残っている。棚の影も斜めに入っている。
カシャ。
やえは画面を見た。
「ちょっとちゃんとした」
「ちょっと」
「阿久津さん監修です」
「してない」
「厳しい監修」
「してないって」
やえは笑った。軽く笑っただけだった。
佐知は笑えなかった。
自分が何に腹を立てているのか、うまく掴めなかった。やえの写真が雑だから。雑なのに平気そうだから。平気そうに見えるから。自分が撮れないものを、やえが簡単に画面へ入れるから。
どれも当たっていて、どれも少し違った。
ハルエが、布を置いた。
「見えないなら、また見に来れば」
佐知とやえが、同時にハルエを見た。
ハルエは古いカップを一つ持ち上げ、縁に残った水滴を親指で拭った。
「まあ、壊したあとじゃ無理だけど」
やえの顔から、笑いが少し抜けた。
ほんの少しだった。
佐知は、それを見てしまった。
やえはすぐにスマホを下げ、メニューではなくカップを撮った。
カシャ。
今度はもっと雑だった。画面の端に、カウンターの水滴と、佐知の置いた麦茶の底が入っていた。
佐知は何も言わなかった。
言ったら、自分のほうが何かを落としそうだった。
「壊すって、ほんとに九月なんですか」
やえが聞いた。
ハルエはカップを置いた。
「紙にはそう書いてあるね」
「紙、けっこう嘘つきますよ」
「人も嘘つくから、どっこいでしょ」
「建物も嘘つきます?」
「建物は黙ってるだけ」
ハルエは、カウンターの内側から古いメニューを一枚取り出した。壁のものより小さい。端が日焼けして、真ん中だけ色が残っている。
「でも、壊すまでは、建ってるからね」
雑な言い方だった。
雑なのに、佐知の手はポケットの外からスマホを握っていた。




