第010話 カランコ・二
「違います」
佐知は、返事だけ早かった。
女の人の目が、佐知の右手を見た。麦茶のペットボトルがある。次に左手を見る。水のペットボトルがある。
二本とも、コンビニの透明なテープが斜めに貼られていた。
「違うんだ」
「違います」
「一人で二本飲むなら、それはそれで止めないけど」
女の人はそう言って、ガラス戸をもう少し開けた。上についた古い鈴が、また鳴った。
カランコ。
前より少し、間の抜けた音だった。
「すみません。覗くつもりじゃ」
「覗いてたじゃない」
「はい」
「正直」
女の人は笑わなかった。怒りもしなかった。鍵の束を片手で持ち直し、首にかけた色あせたタオルで頬の汗を押さえた。
近くで見ると、店の中の暗さより、その人の腕のほうが日に焼けていた。短い髪に白いものが混じっていて、Tシャツの裾に小さな糸くずがついている。
「上にいたんでしょ」
佐知は言葉に詰まった。
屋上にいたことを、誰かに見られていた。
その事実より、悪いことをしていた顔を自分がしていることのほうが、少し嫌だった。
「屋上、勝手に」
「屋上? 暑いのに物好きだね」
女の人は、そこで初めて少しだけ口の端を上げた。
「怒らないんですか」
「怒るほど、ちゃんと使ってないからね。あそこ」
ちゃんと使っていない。
それは、許された感じとも違った。見逃された感じとも違う。閉まっている店の戸を少しだけ開けて、風を入れるみたいな言い方だった。
女の人は中へ顎をしゃくった。
「入る? 外よりはまし。冷房はないけど、日陰はある」
佐知は、両手の飲み物を見た。
入る理由はない。
帰る理由も、もう少し薄くなっていた。
「靴は」
「そのままでいいよ。もう店じゃないし」
もう店じゃない。
その言葉で、佐知の足は少し重くなった。けれど女の人は先に背中を向けて、戸を押さえている。入らないほうが、かえって面倒な気がした。
佐知は一歩、喫茶ポニー跡に入った。
床が少し鳴った。
外から見えていたより、中は狭かった。四人掛けのテーブルが三つ。椅子は逆さまにされ、脚を上にしてテーブルの上に乗っている。窓際の鉢植えは土だけになっていて、白い小石が二つ残っていた。
カウンターの向こうには、丸い背もたれの椅子が一脚だけある。
その椅子だけ、誰かを待っているみたいに普通の向きで置かれていた。
壁のメニューは、色が抜けていた。コーヒー、紅茶、ミルクセーキ。クリームソーダの文字だけが、妙に青く残っている。値段のところに貼られた紙は角がめくれ、二百八十円の上から、三百円と細いペンで書き直されていた。
古い。
でも、古いだけではなかった。
使われて、閉じられて、そのあと放っておかれて、たまに誰かが思い出したように触っている。そういう順番が、テーブルの足や、カウンターの端や、積まれた紙ナプキンの袋に残っていた。
佐知は、手の中のペットボトルを少し持ち上げた。
冷たさが、もう弱くなっている。
「置きなよ」
女の人がカウンターの端を指した。
「濡れます」
「今さら」
言われて、佐知は水と麦茶をカウンターに置いた。底についた水滴が、木目の上で丸く広がる。
「すみません」
「謝るほどきれいなカウンターじゃないよ」
女の人は鍵の束をカウンターに置いた。金属が重なって、じゃら、と鳴る。
「牛尾ハルエ。前に、この店やってた人」
名前は、自己紹介というより、荷物の中身を言うみたいに出てきた。
佐知も少し遅れて口を開く。
「阿久津です」
「ああ。上の子が呼んでた」
「聞こえてたんですか」
「あの階段、声だけよく通るんだよ。足音はうるさいし、声は落ちてくるし、雨の日は水も落ちてくる」
ハルエは、面倒そうに言いながらも、悪く思っている顔ではなかった。
佐知はカウンターの奥を見た。
布のかかった箱。洗ったらしいグラス。輪ゴムで束ねられた割り箸。白いカップが三つ、逆さまに伏せてある。その横に、さっき外から見えたカップが一つだけ、口を上に向けて置かれていた。
中は空だった。
空なのに、そこにだけ何かが入っているように見える。
「あれ、使うんですか」
佐知は、聞いてから余計だったと思った。
ハルエはカップを見た。
「洗っただけ」
「洗っただけ」
「汚いよりは、まあ、ましでしょ」
それ以上の理由はなさそうだった。
でも、洗っただけのカップは、捨てられる前のものには見えなかった。かといって、もう一度ちゃんと使われるものにも見えない。中途半端な顔をして、カウンターにいる。
佐知はスマホを出しかけた。
ポケットの中で指が画面に触れる。ロック画面が一瞬明るくなった。黒いガラスに、白いカップの丸い縁が小さく映る。
撮ったら、どうなるだろう。
カップ。
古いメニュー。
水滴のついたペットボトル。
カウンターの傷。
カランコと鳴る鈴。
どれも、撮るほどではない。
そう言えば済むものばかりだった。
佐知はスマホをポケットへ戻した。水と麦茶を置いたのに、手は空いている。手が空いている言い訳は、さっきより少ない。
「撮らないの」
ハルエが聞いた。
佐知の肩が少し動いた。
「撮りません」
「禁止じゃないよ」
「そういうのじゃないです」
「そういうのが多いねえ、若い人は」
ハルエはそれだけ言って、カウンターの下から小さな段ボールを引っ張り出した。中にはスプーンや、砂糖の入っていない砂糖入れや、欠けたソーサーが入っている。
佐知は返事をしなかった。
若い人。
その大きな箱に入れられると、少し楽だった。阿久津佐知ではなく、若い人。屋上に勝手に行く人。飲み物を二本買う人。撮らない人。
どれも間違ってはいない。
「上の子、よく来るんですか」
聞くつもりはなかった。
けれど、麦茶がカウンターの上にある。聞かないほうが不自然な気がした。
ハルエは段ボールの中を探りながら答えた。
「ちょこちょこ。写真撮って、なんか食べて、暑いって言って帰る」
「止めないんですか」
「止めたら別のとこ行くでしょ」
「そういう問題ですか」
「そういう問題の日もある」
ハルエは、欠けたソーサーを一枚取り出して、欠けたところを指でなぞった。
「まあ、階段で転んだら怒るけどね。面倒だから」
それが、佐知には少しだけ新しかった。
責めない。励まさない。理由も聞かない。ただ、転んだら面倒だと言う。
佐知はカウンターの水滴を指で拭った。拭ったところで、指先が濡れただけだった。
「その麦茶、置いてく?」
ハルエが言った。
佐知は麦茶を見た。
「自分で飲みます」
「そう」
「たぶん」
「たぶん」
ハルエは、そこだけ繰り返した。
佐知は麦茶を持ち上げなかった。水も持ち上げなかった。
カウンターの上に二本並んでいると、どちらが誰のものか分からなくなる。分からないままのほうが、まだ持っていられる気がした。
奥の棚に、手書きのメニューが立てかけられていた。紙の端は波打って、ラミネートの内側に細かい空気が入っている。クリームソーダの絵は下手だった。緑の丸に、赤い丸が乗っている。アイスクリームは白い雲みたいに描かれていた。
佐知はまた、スマホの重さを思い出した。
今なら撮れる。
誰も止めない。
禁止じゃない、と言われた。
それでも、指はポケットの外側をなぞっただけだった。
撮ってしまったら、撮ったものになる。
見ただけなら、まだ見ただけで済む。
古い鈴が、戸の隙間を通った空気で小さく揺れた。
カランコ。
佐知は入口のほうを見た。
階段の上から、軽い足音が降りてきた。




