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第009話 カランコ・一

階段を下りると、屋上の熱が少し遅れて背中から剥がれた。


外階段の手すりは、上よりも下のほうが熱かった。日差しを受けて、緑色のビニールテープがやわらかくなっている。佐知は触った指をすぐ離した。


やえは先に一階まで下りていた。


トートバッグの中で、空の紙パックがつぶれる音がする。かさ、という軽い音だった。軽いのに、佐知の耳には変に残る。


「じゃあ、コンビニ」


やえが言った。


「行くんだ」


「空なので」


「当たり前」


「当たり前の補充です」


やえは商店街のほうへ歩き出した。佐知はその場に残った。


一階の喫茶ポニーは、閉まっている。ガラス戸の向こうには、逆さまに積まれた椅子がある。布をかぶった何かも、カウンターの上に並んでいる。看板の馬は、やっぱり犬にも見えた。


やえが数歩先で振り返る。


「阿久津さんは」


「別に」


「別に、は歩けます?」


「歩ける」


「便利」


やえはそう言って、待たなかった。


佐知は小さく息を吐いた。


帰るなら、駅へ向かえばいい。


屋上へ戻るなら、階段を上がればいい。


どちらでもないなら、立っていればいい。


立っているだけでも汗は出る。首の後ろを、細い汗が一筋落ちた。スマホは手の中にある。画面は暗い。暗い画面の上に、さっきの斜めの紙パックと、片方だけ影に入った足が残っている気がした。


撮ってなくても、見てますし。


やえの声が戻る。


見ているだけなら、いくらでもしてきた。見なかったことにもしてきた。どちらも得意だった。


佐知は、やえが曲がったほうへ歩いた。


コンビニは商店街の角にあった。自動ドアの前に、日焼けしたのぼりが二本立っている。冷やし中華、と書いてあるのに、端が風で丸まって、冷やし中、までしか見えない。


店に入ると、冷房の空気が腕に当たった。


涼しい。


涼しいと分かった瞬間、自分がどれだけ暑かったかも分かる。佐知は入口のマットの上で少し立ち止まった。後ろから入ってきた男の人が、軽く咳払いをする。


佐知は慌てて奥へ進んだ。


やえの姿は、飲み物売り場にはなかった。


アイスケースの前にもいない。雑誌棚の前にもいない。レジ横の揚げ物のところにもいない。


コンビニに行く、と言ったのに、いない。


やえならありそうだと思った。


ありそうだと思えてしまうくらいには、もう少し知っている。


佐知は冷蔵棚の前に立った。


水。


麦茶。


スポーツドリンク。


桃の紙パック。


同じものではない。やえが飲んでいたのは、もう少し安っぽい桃だった。棚にあるものは、果汁何パーセントかを大きく書いている。そういう自己主張は、少し面倒くさい。


佐知は水を一本取った。


それだけでいい。


喉は乾いている。手も暑い。水は必要だ。


必要なものは、買いやすい。


佐知はもう一本、麦茶を取った。


水だけでは足りないかもしれない。


そう思った。


思ってから、足りないのは誰にとってなのかを考えないようにした。


麦茶を戻そうとして、戻さなかった。棚の冷気が指に当たる。ペットボトルの表面に水滴がついていて、指が滑った。


二本。


両手に一本ずつ持つと、言い訳が形になる。


片方は予備。


片方は、あとで飲む。


片方は、安かったから。


片方は。


佐知は言い訳を途中でやめた。


レジへ向かう途中、アイスケースの横に小さなワゴンがあった。値引きされた菓子パンと、割れたせんべいの袋が並んでいる。誰にも選ばれなかったものが、値札だけ貼り直されている。


佐知は一度足を止めた。


スマホを持ち上げかける。


値引きシール。


少しつぶれたパン。


冷蔵棚の白い光。


ペットボトルの水滴。


撮るほどではない。


でも、見てしまった。


佐知はスマホを戻した。


飲み物を二本持っているせいで、カメラを開く手が足りなかった。そういうことにした。


レジで、店員がバーコードを読み取る。


ピッ。


ピッ。


二回鳴る。


「袋、いりますか」


「いりません」


言ってから、両手がふさがることに気づいた。


店員は何も言わず、透明なテープを二本に貼った。片方のテープが少し斜めになる。斜めのものばかり目につく。


佐知は財布をしまい、二本を抱えるように持った。


店を出ると、冷房で冷えたペットボトルが急に汗をかき始めた。水滴が手のひらへ落ちる。外の空気は、店に入る前より少し暑く感じた。


やえはいなかった。


商店街の先にも、横断歩道のところにもいない。


佐知は立ち止まり、水のほうを見た。


自分用。


麦茶のほうを見る。


予備。


そう思うと、予備のほうが重い。


佐知は丸藤第六ビルのほうへ歩いた。


二本を持っていると、スマホを出しにくい。バッグに入れればいいのに、佐知はそうしなかった。冷たいものを持っていると、何か用事がある人に見える。用事がある人の顔をしていれば、ビルに戻っても少しだけましだった。


まし、という言葉も便利すぎる。


喫茶ポニーの看板が見えた。


馬の顔は、日差しで少し白くなっている。赤い文字の端に、細いひびがある。佐知はそのひびを目で追った。ポニーの「ニ」のところで、ひびは一度切れて、看板の縁へ逃げていた。


逃げるんだ。


溶けるの、ほぼ逃走じゃないですか。


やえの言葉ばかり戻ってくる。


佐知はガラス戸の前で止まった。


中は暗い。外が明るいせいで、ガラスには佐知の姿が映る。両手に飲み物を持った、行き先のあるような顔をした人が立っている。


その奥に、逆さまの椅子。


布をかぶった何か。


色の抜けたメニューらしき紙。


カウンターの端に、白いカップが一つ見えた。布の隙間から半分だけ出ている。店は閉まっているのに、カップだけが置き忘れられている。


佐知は、息を止めた。


撮りたい、とはまだ言えない。


けれど、画面に入れたらどう見えるのかは、少し思った。


スマホを出そうとして、両手の飲み物に邪魔される。


水と麦茶が、プラスチックの音を立てた。


ペコッ、と小さく鳴った。


その音に、ガラス戸の向こうで何かが動いた。


佐知は肩を跳ねさせた。


人がいた。


カウンターの奥ではなく、入口のすぐ内側。しゃがんでいたらしい女の人が、ゆっくり顔を上げた。短い髪に白いものが混じっている。首には色あせたタオル。手には鍵の束。


女の人は、佐知を見た。


次に、佐知の両手の飲み物を見た。


それから、看板の馬を一度だけ見上げた。


ガラス戸が内側から少し開く。


古い鈴が、上のほうで鳴った。


カランコ。


佐知は一歩下がった。


女の人は、外へ半分だけ顔を出した。


「上の子の分?」


佐知は、麦茶を隠そうとして失敗した。


二本とも、手の中でまた小さく鳴った。

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