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第008話 スカスカ・四

桃の紙パックは、やえの手の中でさらにへこんだ。


中身はもうほとんど残っていないらしい。ストローを吸う音が、すかすかした。やえはそれでも二回ほど吸ってから、あきらめたように口を離した。


「空ですね」


「見れば分かる」


「もしかしたら底にいました」


「何が」


「桃」


「いないでしょ」


「いませんでした」


やえは紙パックを振った。


軽い音もしなかった。


屋上は、少しずつ午後の色になっていた。白い床の照り返しが弱くなったわけではない。ただ、給水塔の影がさっきより長くなり、フェンスの足元へ細く伸びている。


佐知の座っている椅子は、まだ熱い。


熱いのに、腰を上げるきっかけがなかった。


「捨てるんじゃないの」


佐知が紙パックを見て言うと、やえは首を傾けた。


「持って帰りますよ」


「ルールだから」


「ハルエさんに怒られるんで」


「そこだけちゃんとしてる」


「怒られたくないところは、ちゃんとします」


「都合がいい」


「だいたい都合でできてます」


やえはそう言って、へこんだ紙パックを膝の上に置いた。制服のスカートに、紙パックの湿った跡が少しつく。


佐知はそれを見て、言いかけた。


濡れるよ。


言わなかった。


言ったところで、やえはたぶん、濡れますね、と言う。拭くかどうかは別の話にする。そういう顔をしている。


壊れるらしいですよ。


だからいいんじゃないですか。


さっきの声が、まだ屋上のどこかに残っている。風がないから、流れていかない。フェンスの青いビニールひもも、ほとんど動かない。


佐知は足元を見た。


床の染みは、少し乾いていた。やえがさっき撮ったときより、輪郭が薄い。黒かったところが茶色になり、端が白い床にほどけている。


やえの言い方が、思い出すだけで少し腹立たしい。


腹が立つほど、残っている。


「染み、薄くなった」


佐知が言うと、やえはすぐ床を見た。


「ほんとだ」


「撮らないの」


「もう撮りました」


「形、変わったんでしょ」


「変わりましたね」


「撮らないんだ」


やえはスマホを持ち上げかけて、やめた。


「阿久津さんがそう言うと、撮りにくいです」


「何で」


「課題みたいになるんで」


佐知は黙った。


少しだけ分かった。


「じゃあ、撮らなくていい」


「はい」


「素直」


「課題じゃないんで」


やえは紙パックを持ち直し、ストローを抜いた。透明なストローの先に、桃色の液体が少しだけ残っている。日差しに透けると、それは飲み物というより、薄い絵の具みたいだった。


佐知はスマホを出した。


画面はすぐに明るくなった。さっき閉じたカメラが開く。


床の染み、へこんだ紙パック、ストローの先、やえの指、給水塔の影。


画面の中では、暑さも甘い匂いも抜けて、形だけが残る。


佐知は少し角度を変えた。紙パックを真ん中に置くとただのごみで、やえの指を入れるとやえを撮るみたいになる。


どちらも違う気がした。


「また開いてる」


やえが言った。


佐知の親指が止まる。


「言うんだ」


「今のは実況です」


「実況もいらない」


「じゃあ黙ります」


やえは本当に黙った。


すぐに余計なことを足すと思った。撮らないんですか、とか、押せばいいのに、とか、またそれですか、とか。


何も足されなかった。


屋上の音だけが残った。


遠くを走る電車。


どこかの室外機。


紙パックの角が、やえの指に押されて小さく鳴る音。


佐知は画面を見たまま、息を浅く吸った。


白い丸は、指のすぐ下にある。押せる位置にあるのに、押したあとのことばかり先に浮かぶ。


佐知は親指を少しずらした。


それだけで、画面の中の屋上が遠くなった。


「阿久津さん」


やえの声がした。


佐知は画面から目を離さなかった。


「何」


「靴、片方だけ影に入ってます」


佐知は自分の足元を見た。


右足だけが、給水塔の影に入っている。左足は日なたに出ている。サンダルの縁から、足の甲が少し赤くなっていた。


「それが何」


「変です」


「変で済ませないで」


「でも、変です」


やえはそこで黙った。


佐知は、もう一度スマホを上げた。


今度は自分の足元が画面に入る。片方だけ影に入った足。床の染みの端。白い椅子の脚。やえのスニーカーのつま先。


変だった。きれいではない。でも、見てしまった。


佐知は白い丸に指を近づけた。近づけただけで、画面が一段暗くなる。


慌ててタップすると、足元も、染みも、やえのスニーカーの先も、まだそこにあった。


まだある。


その言葉が少し引っかかった。


「まだあるって、変」


佐知は小さく言った。


「何がですか」


「今、画面にあるもの」


「ありますね」


「でも、撮ってない」


「はい」


「じゃあ、ないのと同じ?」


やえはすぐには答えなかった。


紙パックを片手で握り、もう片方の手でストローを折っている。折れたストローは元に戻らず、白い筋だけが残った。


「同じじゃないと思います」


やえは言った。


「撮ってなくても、見てますし」


佐知は、画面を見たまま動けなくなった。


慰めではなかった。ただ、床に落ちていたものを拾って置くような声だった。


「見たら残るの」


佐知が聞くと、やえは肩をすくめた。


「残るときもあります」


「雑」


「正確に言うと、長くなるんで」


「じゃあ雑でいい」


「はい」


やえは、折ったストローを紙パックの穴に戻そうとして失敗した。ストローは斜めに引っかかり、すぐ倒れた。


スマホを持つ手が少し疲れてきた。


佐知はカメラを閉じなかった。


撮りもしなかった。


画面の中で、やえのスニーカーの先が少し動いた。床をこする。白いゴムの部分に、小さな黒い汚れがある。


「帰るんですか」


やえが聞いた。


「まだ決めてない」


「便利ですね、それ」


「便利だから使ってる」


「その返し、気に入ってます?」


「気に入ってない」


「便利なのに」


「便利なものを好きとは限らない」


やえは少し笑った。


そして、何か言いかけたように口を開いた。


佐知は待った。


やえは言わなかった。


かわりに、空になった紙パックを立てようとした。床に置くと、へこんだ面のせいで傾く。何度置いても、少し斜めになる。


佐知の画面に、その紙パックが入った。


斜めの紙パック。


片方だけ影に入った足。


床の染み。


やえのスニーカー。


全部、撮るほどではない。


それでも佐知は、カメラを閉じるのが少し遅れた。


遅れただけだった。


シャッター音はしなかった。


画面を暗くして、スマホを膝の上に伏せる。


写真は増えていない。


やえは紙パックをつまみ上げた。


「ゴミ、持って帰ります」


「ルールだから」


「ハルエさんに怒られるんで」


「聞いた」


「大事なことなので」


やえは立ち上がった。スカートの湿った跡を見て、少しだけ眉を寄せる。


「濡れてる」


「さっき言おうとした」


「言ってくださいよ」


「言っても拭かなかったでしょ」


「たぶん」


「じゃあ同じ」


「違います。知って濡れるのと、知らずに濡れるのは違います」


佐知は立ち上がりかけて、少し笑ってしまった。


「面倒くさい」


「阿久津さんに言われたくないです」


やえは紙パックをトートバッグに入れた。バッグの中には、レシートと、丸まったストローの袋と、何かのプリントが折れて入っている。プリントの端に、提出、という字が見えた気がした。


佐知は見なかったことにした。


見なかったことにするのは、得意だった。


得意なのに、今は少しだけ失敗した気がした。


「下りるの」


佐知が聞くと、やえは屋上のドアを見た。


「一回、飲み物買いに行きます」


「もう飲んだでしょ」


「空になったんで」


「当たり前すぎる」


「当たり前のことほど、あとで分かんなくなりますよ」


「それ、さっき聞いた」


「便利なんで」


やえはドアのほうへ歩いた。


佐知もスマホを持って立ち上がる。椅子から離れると、太ももの裏に残っていた熱が急に分かった。座っている間は気づかない熱がある。


ドアの前で、やえが振り返った。


「阿久津さん」


「何」


「さっきの、撮らなかったんですか」


佐知はスマホを見た。


画面は暗い。


そこには、自分の顔がぼんやり映っているだけだった。


「撮ってない」


「そうですか」


やえはそれだけ言った。


撮らないんですか、とは言わなかった。


撮ればよかったのに、とも言わなかった。


佐知が何か言い訳を出す前に、やえはドアを押した。金属がきしみ、白いビニールひもが小さく跳ねる。


階段のほうから、ぬるい空気が上がってきた。


佐知はスマホを握り直した。


写真は増えていない。


それなのに、画面の中にあった斜めの紙パックと、片方だけ影に入った足は、まだ目の奥に残っている。


やえは何も言わずに、先に一段下りた。


その沈黙だけが、シャッター音みたいに屋上に残った。

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