第007話 スカスカ・三
椅子は、見た目より熱かった。
佐知は座ってすぐに、腰を少し浮かせた。白いプラスチックは日なたを吸って、薄い服の上からでも分かるくらい熱を持っている。けれど立ち上がるほどでもない。立ち上がると、帰るみたいになる。
帰るつもりは、まだ決めていない。
だから佐知は、少し姿勢をずらして座った。
やえはその向かいではなく、斜め横の床にしゃがんだ。椅子はもう一つあるのに、使わない。紙パック飲料を膝の間に置き、ストローをくわえたまま、屋上をぐるりと見回す。
「では、屋上のルールを説明します」
「あるの」
「今からあります」
「それ、ないってことじゃない」
「ないより、今あるほうが便利です」
やえは真面目な顔でうなずいた。
その真面目さが、だいたい信用できない。
佐知は椅子の端を指でつまんだ。プラスチックの縁は少しざらついている。どこかにぶつけたのか、角が白く削れていた。
「まず、ドアは閉めきらない」
やえが、屋上の入口を指さした。
ドアは半分開いたまま、白いビニールひもで引っかかっている。風が通るたび、金属がわずかに鳴った。
「閉めたらまずいの」
「閉めると、開かなくなりそうじゃないですか」
「なりそうでルールにしないで」
「実績があります」
「あるの」
「一回、十五分くらい閉じ込められました」
「それはルールにしていい」
やえは満足そうに、指を一本折った。
「二つ目。椅子は戻さなくていいです」
「戻さなくていいの」
「どこが元か分かんないんで」
佐知は足元を見た。
床には椅子の脚が擦れた跡が、いくつも薄く残っている。丸い跡、斜めの跡、黒く削れた線。確かに、どこが元なのかは分からない。そもそも最初からここにあった椅子なのかも怪しい。
「でも、風で飛ばない?」
「飛んだら、飛んだ先が次の元です」
「雑」
「屋上向きの考え方です」
「屋上に失礼」
やえは紙パックを吸った。
桃の匂いが少しだけした。甘い匂いは、屋上の錆びた匂いと合わない。合わないのに、もうここにある。
「三つ目。ゴミは持って帰る」
「そこは普通なんだ」
「ハルエさんに怒られるんで」
「ハルエさん?」
やえは「あ」と言って、ストローから口を離した。
「下の喫茶店の人です。元、ですけど」
「喫茶ポニーの」
「そうです。馬か犬か分かんない看板の」
「あれ、やっぱり馬か犬か分かんないよね」
「分かんないです。ハルエさんに聞いたら、馬だよって怒られました」
「怒るんだ」
「あんまり怒らない人の、怒る場所がそこでした」
佐知は一階の看板を思い出した。赤い文字。馬のつもりらしい顔。閉まったガラス戸。椅子が逆さまに積まれた店内。
下にいる人の名前が出た途端、この屋上が少しだけ誰かの場所に見えた。
誰のものでもないと思っていた場所にも、名前を知っている人がいる。
佐知はそのことに、少し遅れて気づいた。
「勝手に上がっていいの」
「だめだと思います」
「だめなんだ」
「関係者以外立入禁止ですし」
やえは当たり前みたいに言った。
佐知は外階段の一段目に貼られたシールを思い出す。初めて来た時も、さっきも、あれを見た。見たうえで上がっている。
「じゃあ、私たち関係者じゃない」
「私は半分くらい関係者です」
「何の半分」
「よく来る人」
「それ、関係者って言わない」
「じゃあ、阿久津さんももう四分の一くらいです」
「勝手に分母に入れないで」
やえは少し笑った。
笑ってから、床の黒い染みへスマホを向ける。
カシャ。
また撮った。
「それもルール?」
「これは癖です」
「染みを撮る癖」
「染み、形変わるんで」
「乾いたら?」
「乾いたら、乾いた形になります」
「当たり前すぎる」
「当たり前のことほど、あとで分かんなくなりますよ」
やえは画面を確認して、消さなかった。
佐知はその画面を横から見た。床の染みは、黒というより茶色に近い。端に紙パックの角が入っている。給水塔の影も少しだけかかっている。何を撮りたいのか、やっぱり分からない。
分からないのに、前ほど腹は立たなかった。
それが少し嫌だった。
佐知はスマホを取り出した。
カメラを開く。
画面には、やえの手元と、紙パックと、床の染みが入った。やえの指はストローの袋をまだ少しだけくっつけている。取ればいいのに、取らない。白い袋の端が汗で指に貼りついている。
撮るほどではない。
そう思う。
思ったあとで、下の白い紙が頭に浮かぶ。
丸藤第六ビル解体工事のお知らせ。
九月中旬より。
撮るほどではないものも、なくなる。
分かっている。
分かっているのに、親指は白い丸の手前で止まる。
やえは何も言わなかった。
佐知は、少しだけ意外に思った。
「撮らないんですか」と言われると思っていた。あるいは「またですか」とか、「染みは逃げますよ」とか。やえなら言いそうな言葉はいくらでもある。
でも、やえは言わなかった。
床の染みをもう一枚撮って、紙パックを持ち上げただけだった。
佐知はカメラを閉じた。
写真は増えない。
「四つ目」
やえが言った。
「まだあるの」
「屋上では、ちゃんとしすぎない」
佐知は画面の暗くなったスマホを見た。
そこに自分の顔が薄く映っている。暑さで前髪が額に張りつき、口元だけが少し固い。
「何それ」
「ちゃんと座るとか、ちゃんと休むとか、ちゃんと話すとか、そういうの禁止です」
「休むのに、ちゃんとも何もないでしょ」
「ありますよ。休み方がちゃんとしてる人って、います」
「知らない」
「私も苦手です」
やえは、紙パックの角を指で押した。
ぺこ、と小さく音が鳴る。
「ちゃんとした場所だと、ちゃんとしてないのが目立つじゃないですか」
佐知は返事をしなかった。
大学の学生課。
南口へ向かう人の流れ。
理由欄の途中で止まった文字。
どれも、ちゃんとしていない佐知を目立たせる。
屋上では、誰も窓口の番号札を渡してこない。理由を書く欄もない。座っていても、立っていても、すぐには何も決まらない。
それは楽だ。
楽だと思ってしまうことが、少し怖い。
「ここだと、変でもあまり浮かないから?」
佐知が聞くと、やえは紙パックを見たまま、肩をすくめた。
「たぶん」
「たぶん」
「あと、壊れるらしいですし」
佐知は顔を上げた。
やえは、屋上のフェンスを見ていた。青いビニールひもが、ほとんど風のない中で少しだけ揺れている。下の掲示板の白い紙は、ここからは見えない。見えないのに、もうあると分かっている。
「壊れるって、ビルが?」
「はい」
「下の紙、読んだんだ」
「読みました」
「いつ」
「貼られてすぐくらいです」
「知ってたなら言えばよかったのに」
「聞かれてないんで」
佐知は言い返そうとして、やめた。
その言い方はずるい。
けれど佐知も、聞いていない。見えていた紙を撮らず、読まずに済ませようとしていた。先に避けたのは、自分のほうだ。
「壊れるなら、余計だめじゃないの」
「何がですか」
「勝手に上がったり、椅子動かしたり」
「壊れるらしいですよ」
やえは言った。
声は軽かった。
軽いのに、紙パックの角を押す指だけが止まっている。
「だからいいんじゃないですか」
佐知はすぐには答えられなかった。
何がいいのか、分からなかった。
なくなる場所だから、少しくらい雑に使ってもいいのか。
なくなる場所だから、ちゃんとしていない自分がいても目立たないのか。
なくなる場所だから、残さなくてもいいのか。
どれも違うようで、少しずつ合っている気がした。
やえはフェンスのほうを向いたまま、もう一度ストローをくわえた。
桃の紙パックが、ぺこ、と小さくへこんだ。




