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第006話 スカスカ・二

白い紙は、近づくほど軽そうに見えた。


佐知はスマホを握ったまま、丸藤第六ビルの入口へ寄った。ガラス戸と外階段の間にある掲示板は、木の枠だけが古く、内側のコルクはところどころ削れている。そこに、コピー用紙が一枚、銀色のクリップで挟まれていた。


紙の上のほうに、太い字がある。


丸藤第六ビル解体工事のお知らせ。


佐知は、そこで一度目を止めた。


解体。


その二文字だけが、ほかの文字より黒く見えた。太字ではないのに、目はそこに引っかかる。


紙の下のほうには、工事予定期間、とあった。


九月中旬より。


より、のあとに続く日付は、小さくて読みづらい。工事会社の名前と電話番号も載っていた。担当者の名字らしいものもある。細かい文字が並ぶと、急にただの事務連絡になる。


佐知は息を吐いた。


赤い字も、泣かせる文章もない。


古いビルがなくなる予定を、間違いがないように知らせているだけの紙だった。


ちゃんとしている。


ちゃんとしているものは、こちらが困っていても待ってくれない。


佐知はスマホの画面を見た。


カメラは、まだ起動したままだった。


白い紙が、画面の端に入っている。手を少し動かせば、全体が入る。撮れば、あとでまた見ることになる。撮らなければ、ただ前を通っただけにできる。


ただ前を通っただけ。


昨日から、ただ、が増えている。


佐知はスマホを掲示板へ向けた。


画面の中では、白い紙も、錆びたクリップも、前の貼り紙の破れた角も、少しだけ整って見えた。四角の中に入ると、なくなることまで片づいたように見える。


佐知の親指は、シャッターボタンの上で止まった。


撮ってどうするのか。


そう思った瞬間、もう押せなくなる。


佐知はカメラを閉じた。


シャッター音はしなかった。


佐知は掲示板から目を離した。


外階段の一段目には、関係者以外立入禁止のシールが貼ってある。昨日も見た。昨日はそのシールを見て、関係者ではないと思った。それでも上がった。


今日ももちろん、関係者ではない。


たぶん、昨日よりさらに違う。


佐知は一段目に足をかけた。


階段は、今日も見た目より静かだった。手すりに触れると、昨日より熱い。佐知はすぐ手を離した。


二階の踊り場で、足が止まった。


窓の内側には、合格、と書かれた日焼けした紙がまだ貼られている。合の字だけ薄い。何年も前からそこにあるのかもしれない。誰かの受験が終わっても、紙だけが残った。


残るものは、選ばれて残るとは限らない。


佐知は三階へ上がった。


屋上へ続くドアは、昨日と同じように半分開いていた。ドアノブに結ばれた白いビニールひもも、そのままだ。指をかける前に、向こう側から声がした。


「読めました?」


佐知は肩を跳ねさせた。


ドアの隙間から、やえが顔だけ出していた。制服のリボンは少し曲がっている。片手にはスマホ。もう片方の手には、コンビニの紙パック飲料がある。ストローの袋が、指に貼りついていた。


「いるなら言って」


「言いました」


「遅い」


「読んでる途中に言ったら、もっと怒るかなって」


「今も怒ってる」


「じゃあ同じでしたね」


やえは納得したようにうなずいた。


佐知は何も返さず、屋上へ入った。


日なたの床は、昨日より少し白かった。給水塔の影は短く、白いプラスチックの椅子は一つだけフェンスの近くへ動いている。


やえはその椅子に座っていたらしい。


紙パック飲料の側面には、桃の絵が描いてある。やえはストローの袋を外そうとして失敗し、袋だけを指でくしゃくしゃにした。


「もういたの」


佐知が言うと、やえはストローを刺しながら答えた。


「いました」


「いつから」


「さっきから」


「そういうことじゃない」


「じゃあどういうことですか」


佐知は返事をしなかった。


下の紙は、九月中旬より、と言っていた。予定期間の文字は小さかった。予定は小さい文字で書かれても、予定のほうが強い。


やえは紙パックをひと口吸って、顔をしかめた。


「甘」


「桃だからでしょ」


「桃って、こんなに桃でしたっけ」


「知らない」


「阿久津さん、桃に厳しいですね」


佐知は、少し遅れてやえを見た。


「今、何て言った」


「桃に厳しいですね」


「その前」


やえはストローをくわえたまま、目だけを上に向けた。


「阿久津さん?」


佐知の指が、スマホの側面を押した。


ロック画面が一瞬だけ明るくなり、すぐ暗くなる。


「なんで知ってるの」


やえは悪びれた顔をしなかった。


「昨日、言いましたよ」


「名字だけ」


「そうでしたっけ」


「そう」


「じゃあ、見えました」


佐知は黙った。


やえは紙パックを膝の上に置き、スマホを回した。ケースの角が、制服のスカートに引っかかって小さく止まる。


「青いやつ。鞄から出てたやつに、名前」


「読んだの」


「名前だけです」


「だけ、じゃない」


「でも全部は読んでないです。字が多かったんで」


「それ、言えば許されると思ってる?」


「半分くらい」


「半分もない」


佐知は返事をしなかった。


怒ればいいのか、恥ずかしがればいいのか、分からなかった。勝手に見られた。けれど、見えるようにしていたのは佐知だった。青いクリアファイルの角は、ずっと鞄からのぞいていた。


名前も、紙も、出したくないものほど、少しずつはみ出す。


やえは、佐知の顔を見て、今度は少しだけ声を落とした。


「すみません」


その謝り方は、軽くなかった。


軽くないと、返す言葉が難しくなる。


佐知はフェンスのほうを見た。


青いビニールひもが、昨日と同じ場所で震えている。昨日より短く見えるのは、光の角度のせいかもしれない。


「別に」


「便利ですね、それ」


「便利だから使ってる」


「昨日も聞きました」


「なら言わないで」


「はい」


やえは素直にうなずいた。


素直すぎて、また少し腹が立った。


佐知は屋上の端まで歩いた。フェンスの向こうに、駅の屋根が見える。ホームに電車が入ってきて、すぐに人が動く。


スマホが手の中にある。


カメラを開けば、駅も、フェンスも、給水塔も、やえも入る。


それから、下の白い紙も。


佐知は画面をつけた。


カメラのアイコンを押す。


画面には、フェンスの網目が大きく映った。向こう側の駅はぼやけている。少し位置をずらすと、網目の間にホームの端が入る。さらにずらすと、給水塔の脚が画面の端に入った。


白いシャッターボタンが、下にある。


押せば、何かは残る。


何を残したいのかは、まだ分からない。


やえが後ろで、ストローを吸う音を立てた。


「下の紙、撮らないんですか」


佐知の親指が止まった。


「撮らない」


「読んだのに」


「読んだから」


「読んだから撮らないんですか」


佐知はカメラを閉じた。


「そういうことにしとく」


やえは「ふうん」と言った。


昨日と同じ言い方だった。拾わない。追いかけない。ただ、床に置く。


佐知はスマホをポケットに入れた。


「阿久津さん」


やえが言った。


「何」


「下の紙、私が貼ったんじゃないですよ」


「分かってる」


「ならよかったです。私、あんなちゃんとした紙、作れないんで」


下の紙。


九月中旬より。


解体工事。


昨日と同じだと思いたかった場所は、昨日と同じではなかった。今日も残っているのに、なくなる予定だけが先に貼られている。


やえはスマホを持ち上げた。


佐知ではなく、フェンスの足元へ向ける。青いビニールひもが床に落とした細い影。ひもの端は、ほどけかけている。


カシャ。


やえは撮った。


「それ、何」


佐知が聞くと、やえは画面を見ながら答えた。


「ほどけそうなやつ」


「撮るほど?」


「ないです」


「ないんだ」


「はい」


やえは写真を消さなかった。


佐知はその画面を横から見た。ひもは画面の端で切れている。ピントは少し甘い。床の染みのほうが目立っている。


下手だ。


そう思いかけて、佐知は口を閉じた。


やえは画面から目を離さず、ぽつりと言った。


「阿久津佐知さんって、フルネームで言うと、ちょっとちゃんとしてますね」


佐知は、胸の内側が一瞬だけ固くなるのを感じた。


前のほうが、阿久津さんらしかったね。


声だけが、どこかから戻ってきた。


やえはまだ画面を見ている。


給水塔の影が、佐知の靴先まで伸びていた。


「フルネームで呼ばないで」


佐知は言った。


思ったより、声が低かった。


やえはすぐに顔を上げた。


「分かりました」


言い訳もしなかった。


笑いもしなかった。


それが逆に、少し困った。


佐知はフェンスから指を離した。指先に、錆の色はついていない。ついていないのに、何かが残った感じだけがある。


やえはスマホをポケットにしまい、紙パックを持ち直した。


「じゃあ、阿久津さん」


「何」


「屋上、空いてますよ」


「見れば分かる」


「そうじゃなくて」


やえは白い椅子を足で少し押した。


プラスチックが床を擦って、軽い音を立てる。


「座るとこ」


佐知は椅子を見た。


もう一つは給水塔の影に半分隠れている。どちらも別に、座りたい形はしていない。


それでも佐知は、少しだけそちらへ歩いた。


下の白い紙のことも、名前のことも、まだ何も片づいていない。


カメラロールにも、何も増えていない。


ただ、佐知は帰らなかった。


やえは紙パックのストローをくわえたまま、何も言わなかった。

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