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第005話 スカスカ・一

その日の夕方、鞄は、部屋の床に置いても軽くならなかった。


佐知はベッドの下に鞄を押し込もうとして、途中でやめた。押し込めば、角が壁に当たる。青いクリアファイルの角がまた折れる。もう十分折れているのに、これ以上折れたら、何かをわざと壊しているみたいになる。


鞄は、机の横に置いた。


それだけで部屋の中の空気が少し狭くなる。


机の上には、飲みかけのペットボトルと、開きっぱなしのノートパソコンがあった。画面は暗い。触れば起きる。起きれば、メールの通知も起きる。


佐知は触らなかった。


スマホがベッドの上で震えた。


一度。


少し間を置いて、もう一度。


佐知は画面を下に向けたまま、しばらく見ていた。見ている、というのも変だった。裏側しか見えない。黒いケースの端が少し削れているだけだ。


また震えた。


今度は短かった。


佐知はスマホを持ち上げた。ロック画面に通知が並んでいる。


大学のメール。


母からのLINE。


天気アプリ。


どうでもいいものと、どうでもよくないものが、同じ大きさの四角で並んでいた。


大学のメールには、学生課、という文字が見えた。件名は途中で切れている。休学延長願の提出について、と読めるところまで読めた。読めてしまった。


母のLINEは、その下にあった。


暑いから水分とってね。


その次の文は、途中で切れていた。


急がなくていいけど、大学のこと――


佐知は画面を消した。


母は、悪いことを言っていない。


それがいちばん面倒だった。


怒鳴られたら、怒鳴られたことで済む。責められたら、責められた顔をしていればいい。けれど、心配されると、こちらが返さない理由だけが部屋の中に残る。


スマホを伏せる。


画面が見えなくなっても、通知は消えない。


佐知は机の横の鞄を見た。


ファスナーは閉めたはずなのに、青いクリアファイルの端が少しだけのぞいている。駅でも、屋上でも、ずっとそうだった。見えないふりをしても、向こうは隠れる気がない。


佐知は鞄に手を伸ばした。


ファスナーを開ける。


クリアファイルを半分だけ引き出す。


中の紙は、朝、駅で見たときより薄くなったように見えた。紙が薄くなったわけではない。佐知の中で、出さない時間が増えただけだ。


理由欄の途中で止まった文字がある。


進路再考。


四文字だけだと、きれいすぎる。


きれいすぎる言葉は、だいたい何かを隠す。隠していることを知らない顔で、白い紙の上に座っている。


佐知は紙を戻した。


戻すとき、折り目が指に引っかかった。小さな音がする。紙がこすれるだけの音だったのに、部屋の中ではやけに大きかった。


スマホをもう一度見る。


通知は増えていなかった。


佐知はロックを外した。


メールもLINEも開かなかった。


指は、勝手にカメラのアイコンを探した。


画面が切り替わる。


机の横の鞄が映った。


ペットボトル。


暗いノートパソコン。


床に落ちた髪ゴム。


鞄のファスナーの隙間からのぞく、青いクリアファイルの端。


撮るものなんてない。


そう思った。


思ったあとで、さっきのやえの声が少しだけ戻ってきた。


そういうの、気づくともう違いますよ。


佐知は親指を白い丸の近くまで動かした。


鞄を撮ってどうするのか。


休学延長願を撮ってどうするのか。


床に落ちた髪ゴムを撮って、誰に見せるのか。


考えた時点で、指は止まっていた。


佐知はカメラを閉じた。


写真は増えなかった。


翌日の昼前、佐知はコンビニに行くつもりで家を出た。


コンビニに行くつもり、というのは便利だった。食べるものがないから。水を買うから。コピー用紙が切れたから。理由はいくらでも作れる。どれも軽い。軽い理由は、手に持ちやすい。


鞄は持たなかった。


かわりにスマホと財布だけを小さなトートバッグに入れた。青いクリアファイルは部屋に置いていく。置いていくと決めた瞬間、少しだけ身軽になった。


それでも、玄関を出て鍵をかけるとき、背中側に紙の角があるような気がした。


外は暑かった。


日差しは、まだ午後の強さではない。けれどアスファルトはもう白く乾いている。マンションの植え込みには、誰かが捨てたコンビニのレシートが挟まっていた。昨日、北口で見たレシートとは別のものだ。


それなのに、少しだけ同じに見えた。


佐知は駅のほうへ歩いた。


コンビニは、駅へ行く途中にもある。駅を越えた先にもある。どちらでもいい。どちらでもいいものは、だいたい選べない。


スマホが震えた。


歩きながら画面を見る。


母ではなかった。


大学のメールでもなかった。


天気アプリが、午後から気温が上がると知らせている。そんなことは、画面に言われなくても分かった。佐知は通知を払った。消えた。


消えたものを見るのは、少し楽だった。


駅前の横断歩道で信号待ちをしていると、南口へ向かう人の流れが見えた。スーツの人、リュックの学生、日傘を差した女の人。みんな、どこかへ行く形をしている。


佐知は信号機の下で立ち止まった。


南口。


大学方面のバス。


二駅先。


学生課。


昨日と同じ単語が、昨日より少し乾いた顔で並ぶ。


今日は鞄を持っていない。書類もない。だから行けない。行けない理由がある。


佐知はその理由を、少しだけありがたいと思った。


信号が青になる。


人が動く。


佐知も動いた。


ただし、南口ではなく、北口のほうへ。


コンビニに行くだけなら、どちらでもいい。


そう言い訳してから、佐知は自分で少し笑いそうになった。どちらでもいい、は便利すぎる。便利な言葉は、使いすぎると手に馴染んでしまう。


北口のロータリーは、昨日と似ていた。


タクシーが一台。


開店前なのか休みなのか分からない文房具店。


植え込みの土。


新しくない美容室の新しい看板。


昨日は見えなかったものもある。自動販売機の横に、割れたプラスチックのスプーンが落ちていた。白い柄だけが残っている。誰かがアイスを食べたのかもしれない。


アイス。


佐知は歩く速度を落とした。


やえの指についた白い跡。


給水塔の影。


撮らなかった画面。


嘘だった、と自分で思ったこと。


昨日のことは、昨日のまま置いてくればよかった。屋上で終わったことにすればよかった。名前を聞かれて、名字だけ言って、帰った。それで十分だった。


十分だったはずなのに、佐知の足は商店街のほうへ向かっていた。


丸藤第六ビルへ行くつもりはなかった。


行くつもりがないまま行ける場所が、いちばん厄介なのかもしれない。


商店街は昼前の薄い音をしていた。


自転車のブレーキ。


店先のラジオ。


パン屋のトングがトレーに当たる音。


どれも小さくて、何かの前触れにはならない。普通に、そこにあるだけの音だった。


喫茶ポニーの看板が見えた。


馬なのか犬なのか分からない顔は、今日も同じ角度でこちらを見ている。ガラス戸の向こうでは、椅子が逆さまに積まれていた。布をかぶせられた何かも、昨日と同じ場所にある。


同じ場所にあるものを見ると、少し安心する。


安心したあとで、勝手だと思った。


昨日まで知らなかった場所に、昨日と同じでいてほしいと思っている。


佐知はビルの前で止まった。


上のほうからは、シャッター音が聞こえない。


屋上に誰かがいるのかどうかも分からない。フェンスの青いビニールひもは、下からだと見えなかった。三階の窓は暗く、二階の塾の跡には、日焼けした紙がまだ貼られている。


関係者以外立入禁止。


外階段の一段目に貼られたシールも、昨日と同じだった。


佐知は一段目に足をかけなかった。


かわりに、スマホを取り出した。


カメラを開く。


画面の中に、丸藤第六ビルが入る。


全部は入らない。


一階の看板を入れると、三階が切れる。三階まで入れると、喫茶ポニーの馬らしき顔が小さくなる。少し下がれば入るかもしれないが、後ろは車道だった。


佐知はその場で立ったまま、スマホを少し上げたり下げたりした。


画面の中のビルは、現実より平らだった。


雨だれも、剥げた壁も、古い看板も、ひとまとめに四角の中へ押し込まれる。撮れば、ここに来た証拠になる。撮らなければ、ただ寄り道しただけになる。


証拠。


その言葉が出た瞬間、佐知はスマホを下ろしかけた。


写真を証拠にしたいわけじゃない。


記録にしたいのかも分からない。


ただ、昨日と同じかどうかを確かめたかった。


それだけだ。


それだけ、が最近多すぎる。


佐知はもう一度、スマホを持ち上げた。


画面の端に、白い紙が入った。


昨日はなかった気がする。


ビルの入口横、ガラス戸と外階段の間。クリップで挟まれた白い紙が一枚、古い掲示板に貼られている。角が少し浮いていて、文字が黒く並んでいた。


遠くて、読めない。


読もうと思えば読める距離だった。


佐知はシャッターボタンの手前で親指を止めた。


紙ごと撮ってしまえば、あとで拡大できる。


そう思った。


思っただけだった。


スマホの画面が少し暗くなる。佐知の顔が、ビルの壁と重なってうっすら映った。暑さで前髪が額に張りついている。昨日と同じような顔だった。昨日より、少し言い訳が増えた顔かもしれない。


佐知はカメラを閉じた。


シャッター音はしなかった。


コンビニに行くつもりだった。


丸藤第六ビルへ来るつもりはなかった。


それなのに佐知は、ビルの前に立っている。


白い紙の角だけが、風もないのに少し浮いていた。

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