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第004話 カチリノチ・四

やえは、佐知のスマホを見ていた。


画面の中では、やえの手元がまだ止まっている。実際のやえは少し首を傾け、アイスの棒を入れたコンビニ袋を膝の上で丸めていた。


佐知の親指は、シャッターボタンの手前で固まっている。


押せばいい。


改札を通るより簡単で、休学延長の理由を書くより短い。白い丸を一度押す。音が鳴る。写真が一枚、カメラロールに増える。


それだけのはずだった。


それなのに、指が動かない。


やえはしばらく黙っていた。


その沈黙が、佐知には意外だった。もっとすぐに何か言う子だと思っていた。足だけの人とか、影の人とか、音を撮るとか、そういう言葉で隙間を埋める子だと。


けれど、やえは何も言わなかった。


屋上の風が、フェンスの青いビニールひもを揺らす。


カメラの画面の中でも、それは少しだけ揺れた。現実より遅れて、少しだけ別のものみたいに。


佐知は息を止めていたことに気づいて、ゆっくり吐いた。


画面がわずかにぶれる。


やえの手元も、給水塔の影も、床の黒い染みも、全部まとめて少し流れた。写真としては、たぶん駄目だ。撮る前から駄目だと分かる。


分かるのに、まだ撮りたいと思っている。


それが一番困った。


「撮らないんですか」


やえが言った。


責める声ではなかった。催促でもない。ただ、見えたことを言っただけの声だった。


佐知はスマホを下ろした。


画面が自動で少し暗くなる。やえの手元が消え、屋上が薄い黒に沈む。佐知の顔が、そこにうっすら映った。


「撮らない」


声に出すと、思ったより短かった。


やえは「ふうん」と言った。


その言い方もまた、意外だった。理由を聞かれない。下手だからですか、とも、恥ずかしいんですか、とも言わない。佐知が自分で落とした言葉を、拾わずに床へ置いたままにしてくれる。


それで少し、言い訳がしたくなった。


黙られると、逆に何か言いたくなる。


「撮るほどじゃないから」


佐知は言った。


言った瞬間、喉の奥が少し冷えた。


やえはスマホを膝の上で回した。ケースの角が、制服のスカートに引っかかって小さく止まる。


「どれがですか」


「どれって」


「手ですか。給水塔ですか。私ですか。足だけの人の影ですか」


「最後のは違う」


「じゃあ、手?」


佐知は答えなかった。


やえの指についたアイスの跡は、もうほとんど見えなくなっていた。白いしみは、夕方の光に負けている。たぶん次に見たら、もう分からない。


佐知はスマホを握ったまま、画面を閉じた。


暗くなった画面に、自分の親指だけが映る。爪の横に、さっきフェンスで触れた錆の色が少しついていた。拭けば取れる。拭かなければ、しばらく残る。


やえはコンビニ袋を丸め終えて、椅子の横に置いた。


「私、撮るほどじゃないものばっか撮ってますよ」


「見れば分かる」


「ひど」


「自分で言ったでしょ」


「自分で言うのと、人に言われるのは違うんです」


やえは口を尖らせた。怒っているようには見えない。怒る形だけ作って、すぐにやめた。


「でも、撮るほどのものって、たぶん待ってると来ないですよ」


「そういう話じゃない」


「じゃあ、どういう話ですか」


佐知は答えなかった。


どういう話なのか、自分でも分からない。


撮りたいと思った。


撮らなかった。


その間に何があったのか、説明しようとすると、どんどん別のものになる。


昔は撮っていた。


今は撮れない。


そこまで言えば近いのかもしれない。でも、その先を言うには、やえのことをまだ何も知らなすぎる。やえも佐知のことを何も知らない。何も知らない相手に渡すには、重すぎるものがある。


だから佐知は、軽いほうを選んだ。


「別に」


やえは少しだけ目を細めた。


「別にって、便利ですよね」


「便利だから使ってる」


「正直」


「正直じゃない」


「どっちですか」


佐知は返事をしなかった。


やえは笑わなかった。


その代わり、スマホを持ち上げて、佐知ではなく空へ向けた。給水塔の上に、薄い雲が一枚かかっている。夕方というにはまだ早いけれど、昼の強さはもう少し抜けていた。


カシャ。


やえは撮った。


たぶん、雲を。


たぶん、給水塔を。


たぶん、どちらでもないものを。


「それは撮るほどあるんだ」


佐知が言うと、やえは画面を確認しながら首を振った。


「ないです」


「ないのに撮るの」


「はい」


「なんで」


「さっきより、ちょっと色が違うんで」


やえはそれ以上説明しなかった。


画面には、給水塔の端と、雲と、フェンスの上の空が入っている。相変わらず少し傾いている。きれいかどうかで言えば、たぶん、きれいではない。


でも、さっきとは違った。


佐知にも、それは分かった。


やえは写真を消さずにポケットへしまった。


「足だけの人、帰ります?」


「その呼び方やめて」


「じゃあ、影の人」


「もっと嫌」


「名前、言わないからですよ」


佐知は黙った。


名乗れば済む。


阿久津佐知です。


それだけだ。


それだけのことが、今日は妙に多い。


佐知は鞄の持ち手を握った。青いクリアファイルの角は、まだファスナーの隙間から見えている。やえの視線が一瞬そこへ落ちたが、またすぐ空へ戻った。


読まない。


聞かない。


それは優しさというより、やえ自身の癖のように見えた。


「阿久津」


佐知は言った。


「阿久津さん」


やえはすぐに繰り返した。


名前全部は聞かないのか、と佐知は思った。けれど、聞かれなかった。名字だけで足りると思ったのか、名字以上を持つのが面倒だったのかは分からない。


「阿久津さんは、大学の人ですか」


「大学の人って何」


「大学にいそうな人」


「雑」


「雑な分類しか持ってないんで」


佐知は少しだけ笑った。


笑ってしまってから、すぐに口を結んだ。笑うほどのことではない。けれど、屋上の空気は駅より軽かった。軽いから、うっかり漏れるものがある。


やえはその笑いを撮らなかった。


それも少し、意外だった。


「帰る」


佐知は言った。


「大学に?」


「家に」


「大学、近いんですか」


「近くはない」


「遠くもない?」


「たぶん」


「たぶん大学」


「違う」


やえは「違うらしい」と小さく言って、空になったアイスの袋を拾った。


佐知は屋上のドアへ向かった。


ドアノブに結ばれた白いビニールひもが、手に触れる。さっきより少し冷たい。階段の下から、商店街の音が薄く上がってくる。自転車のベル。遠くの電車。誰かの笑い声。


全部、写真には写らない。


佐知は一度だけ振り返った。


やえは椅子に座ったまま、スマホを見ていた。溶けたアイスも、給水塔も、佐知の影も、たぶんその中にある。


佐知のスマホには、何も増えていない。


「阿久津さん」


やえが顔を上げずに言った。


「何」


「そういうの、気づくともう違いますよ」


佐知は返事をしなかった。


今度は、別に、とも言わなかった。


階段を下りるとき、スマホが手の中で一度だけ震えた。通知ではない。握りしめすぎて、自分の指が滑っただけだった。


佐知は画面を見なかった。


撮るほどじゃないから。


そう言った。


嘘だった。

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