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第003話 カチリノチ・三

屋上に入ってから、時間の進み方が少し変わった。


佐知は、帰る理由をいくつか思いついた。


大学へ行っていない。


休学延長の書類を出していない。


知らない高校生のいる屋上に、知らない顔で立っている。


どれも正しかった。


正しい理由は、いつも動き出す力にはならない。


やえは白いプラスチックの椅子に座り、溶けたアイスの棒を見ていた。棒の先には、もうほとんど何も残っていない。なのに、やえはそれをまだ持っている。


椅子の脚は一本だけ少し浮いていて、やえが体を動かすたびに床をこつこつ鳴らした。足元のコンビニ袋は口が開いたままで、冷えた袋の内側に水滴が白くついている。


「捨てないの」


佐知が言うと、やえは棒を少し回した。


「今、最後のとこです」


「何の」


「未練」


「アイスに」


「アイスに」


やえは真顔でうなずいた。ふざけているのか本気なのか、佐知にはまだ分からない。分からないまま、少しだけ息が抜けた。


屋上の床には、午後の光が斜めに伸びていた。


さっきまで白かった日なたが、少しだけ黄色くなっている。駅の向こうのビルの窓が、ばらばらに光を返していた。風は強くない。フェンスに絡まった青いビニールひもだけが、細く震えている。


佐知は給水塔の影に入った。


丸い脚が四本。ところどころ塗装がはげて、下の金属が見えている。脚の根元には、乾いた土と小さな葉が溜まっていた。誰かが掃除を途中でやめたような、最初から誰も掃除する気がないような場所だった。


やえは、そこにもスマホを向けた。


カシャ。


「それも撮るの」


「撮ります」


「給水塔の脚だよ」


「足だけの人より、だいぶ堂々としてます」


「まだ言う」


「気に入ってるんで」


やえは画面を確認して、消さなかった。


佐知はその画面を横から見た。給水塔の脚は、少し斜めに傾いて写っている。明るすぎて、床の白いところは飛んでいた。画面の端には、やえの指がかかっている。


下手だ。


反射みたいに思った。


思った瞬間、佐知は奥歯に力を入れた。


写真を撮っていない人間が、人の写真に点をつけている。


水平が取れていない。


露出が飛んでいる。


指が入っている。


そもそも、何を撮りたいのか分からない。


全部、言わなかった。


それでも、口の中が乾いた。


「なんですか」


やえがこちらを見た。


「別に」


「今、なんか採点の顔でした」


「してない」


「うそ。目が先生でした」


「先生じゃない」


「じゃあ、審査員」


佐知は黙った。


黙ったせいで、当たったみたいになった。


やえは特に勝ち誇らず、スマホを膝に置いた。そういうところが少しやりにくい。刺してくるのに、刺したことを成果にしない。


「まあ、下手なのは知ってます」


やえはアイスの棒を、コンビニ袋の中に入れた。


「知ってるなら」


「でも、さっきの下手と今の下手は別じゃないですか」


「何それ」


「さっきのアイス、もうないし」


やえは言ってから、自分でも説明が面倒になったように、肩をすくめた。


「まあ、いいです。だいたいそんな感じです」


だいたい。


その雑な言葉が、佐知の中で少し残った。


きちんと説明できないものを、きちんとしないまま持っている。やえの写真も、やえの言葉も、たぶんそういうものだった。


それでも消さない。


佐知はフェンスのほうへ歩いた。


金網の向こうに、駅の屋根が見える。ホームに電車が入ってきて、すぐに人を吐き出す。あの中に混ざるはずだった。改札を通って、二駅先へ行って、書類を出すはずだった。


鞄の中の青いクリアファイルが、また少し重くなる。


佐知はフェンスに指をかけた。


錆が爪の横に触れる。


「痛」


小さく言うと、やえが顔を上げた。


「フェンスに負けました?」


「勝負してない」


「フェンス、強いですよ。だいたい残ってるし」


「残ってるのが強いなら、このビルも強いね」


言ってから、佐知はビル全体を見た。


給水塔。フェンス。室外機。白い椅子。日焼けした床。閉まりの悪いドア。喫茶ポニーの看板は、ここからは見えない。けれど一階にあることだけは分かる。


強い、というより、ただ残ってしまっている。


そういう感じだった。


やえは返事をしなかった。


代わりに、またスマホを持ち上げた。


今度はフェンスを撮るのかと思った。


違った。


やえは、自分の指についた白いアイスの跡を撮っていた。もうほとんど乾いて、皮膚のしわに沿って薄く残っているだけだ。


カシャ。


佐知は、その手元を見た。


細い指。爪の先に少しだけ残った白。スマホの角に当たる夕方の光。画面を支える親指の腹。制服の袖口から、細い糸が一本出ている。


風が吹くと、その糸だけが遅れて動いた。やえは気づいていない。アイスのにおいはもう薄く、代わりに屋上の熱い床のにおいがした。


撮りたい。


思ってしまった。


はっきりと。


給水塔でも、フェンスでも、駅の向こうの光でもなく、やえの手元を。


残したい、ではなかった。


ただ、今のそれが、すぐになくなると分かった。アイスの跡は拭けば消える。光の角度は変わる。やえは次の瞬間には、たぶん別の変なものを撮る。


今しかない気がした。


そう思った。


思ったことに、佐知は少し遅れて気づいた。


胸の奥が、軽く引っかかる。


痛いというほどではない。けれど、鞄の中の紙とは違う場所で、何かが角を立てた。


やえの手首の内側に、アイスの白い跡が細く残っている。乾きかけて、もうすぐ皮膚の色に紛れる。制服の袖口から出た糸が風で揺れて、スマホの黒い画面に一瞬だけ触れた。


それもすぐ、なくなる。


佐知はスマホを取り出した。


ロックを外す。


カメラのアイコンを押す。


画面が屋上を映した。


やえの手元が、画面の中央より少し下に入る。給水塔の影、白い椅子、床の黒い染み。フェンスの向こうで、電車の屋根が少しだけ光った。


悪くない。


そう思った自分に、また少し腹が立った。


悪くない、じゃない。


撮りたい、だった。


佐知は親指をシャッターボタンに近づけた。


近づけただけだった。


やえが、スマホから顔を上げる。


夕方の光が、やえの横顔の輪郭だけを薄く残した。


佐知の親指は、白い丸の手前で止まった。

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