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第002話 カチリノチ・二

北口のロータリーを一周しても、行き先は決まらなかった。


大学へ行かない、と決めたわけではない。


帰る、と決めたわけでもない。


佐知は、決めていないほうへ歩いていた。


駅前の商店街は、午前の中途半端な時間で、まだ眠そうだった。パン屋のシャッターは上がっているのに、隣の金物屋は半分だけ閉まっている。自転車屋の前には、空気入れと古いタイヤが重ねて置かれていた。タイヤの間に、去年の落ち葉が一枚挟まっている。


そういうものばかり目に入る。


誰にも片づけられず、誰にも困られていないもの。


佐知は歩道の端を歩いた。日なたはもう白く、腕の内側にじわりと汗が出る。鞄の中では、休学延長の書類がまだ角を立てていた。駅から離れれば離れるほど、紙の存在がはっきりする。距離で軽くなるものではないらしい。


スマホは手に持ったままだった。


画面は暗い。


暗いのに、さっき開いたカメラの丸いボタンだけが、指の腹に残っている気がした。


信号のない細い道を渡ったところで、看板が見えた。


丸藤第六ビル。


灰色の壁に、黒い文字だけが残っている。文字の端は少し欠けていて、第六の「六」だけ妙に太かった。三階建ての古い雑居ビルだった。古い、と言ってしまえば終わる程度の古さ。壁の雨だれ、色の抜けた非常階段、窓の内側に貼られた日焼けした紙。


第一から第五はどこにあるんだろう。


そう思って、佐知はすぐに考えるのをやめた。


どうせ答えがあっても、今の佐知には関係がない。


一階には、喫茶ポニー、と書かれた丸い看板が出ていた。馬の絵がついている。たぶん馬のつもりなのだと思う。たてがみが多すぎて、少し犬にも見えた。


店は閉まっていた。


ガラス戸の向こうに、椅子が逆さまに積まれている。カウンターの上には、布をかぶせられた何かが並んでいた。営業中の札は内側を向いたまま、ひもだけが長く垂れている。


閉まっているなら、営業中ではない。


当たり前のことを思って、佐知は少し楽になった。


閉まっている場所は、こちらに何かを求めてこない。


ガラスに自分の姿が映った。


汗で前髪が少し額にはりついている。鞄の持ち手を握る右手だけが、妙に力んでいた。大学へ行くつもりだった服。行かなかった服。どちらにも見える。


佐知はスマホを持ち上げた。


喫茶ポニーの看板が、画面に入る。


馬なのか犬なのか分からない顔。薄くなった赤い文字。ガラス戸に映る佐知の肩。


シャッターボタンは、そこにあった。


押す理由もない。


押さない理由も、あまりない。


佐知は画面を閉じた。


そのとき、上のほうで軽い音がした。


カシャ。


スマホのシャッター音だった。


佐知は顔を上げた。三階の上、屋上のフェンスのあたりに、人影が見えた気がした。すぐに消える。気のせいかもしれない。フェンスに引っかかった布か、アンテナの影かもしれない。


もう一度、音がした。


カシャ。


古いビルの横に、外階段があった。錆びた手すりに、緑色のビニールテープが巻かれている。階段の下には、折りたたまれた黄色いコーンと、底の抜けた傘立てが置かれていた。


階段の一段目に、関係者以外立入禁止、と書かれたシールが貼ってある。


関係者。


佐知は自分の靴を見た。


もちろん違う。


違うのに、一段目に足をかけた。


錆びた階段は、見た目より静かだった。二階の踊り場には、学習塾の跡らしい看板が残っている。合格、と大きく書かれた紙が、内側から窓に貼られていた。日焼けして、合の字だけ薄い。


三階まで上がるころには、息が少し上がった。


屋上へ続くドアは、半分開いていた。ドアノブには、白いビニールひもが結ばれている。鍵を閉めるのをあきらめたような結び方だった。


佐知はドアの前で止まった。


ここまで来た理由を、まだ決めていなかった。


写真を撮る音がしたから。


古い建物が気になったから。


大学へ行きたくなかったから。


どれも間違いではない。間違いではないものは、やっぱり足りない。


ドアの向こうから、女の子の声がした。


「あー、死ぬ」


佐知は肩を跳ねさせた。


「死ぬ。完全に死ぬ。早い」


言葉のわりに、声はあまり深刻ではなかった。暑い、とか、眠い、と同じくらいの調子だった。


佐知はドアを少し押した。


屋上は狭かった。


錆びたフェンス。古い給水塔。白いプラスチックの椅子が二つ。室外機の横に、誰かが置いていったらしいコンビニ袋。日なたの床は乾いていて、ところどころ黒い染みがある。


その真ん中で、制服の女の子がしゃがんでいた。


膝の上に鞄を置き、片手に棒つきのアイスを持っている。アイスはもう四角ではなくなっていて、白い液体が指に垂れていた。女の子はそれを拭かずに、もう片方の手でスマホを構えている。


カシャ。


また、撮った。


佐知は何も言えなかった。


女の子が顔を上げた。


「あ」


佐知も「あ」と言った。


「すみません。写りました?」


先に謝ったのは佐知だった。朝から謝ってばかりいる気がする。誰かにぶつかったわけでも、何かを壊したわけでもないのに。


女の子はスマホの画面を見た。


「足だけ」


「足」


「あと、影。いい感じに不審者です」


「消して」


「不審者のほうですか」


「全部」


女の子は、うーん、と首を傾けた。指についたアイスが手首のほうへ流れる。


「アイスが主役なんで、人は背景です」


「人じゃない」


「そこは今、広めに見てます」


会話になっているのか、なっていないのか分からなかった。


佐知は屋上の入口から動けないまま、女の子の手元を見た。スマホの画面に、溶けたアイスが大きく映っている。ピントはたぶん合っていない。影も入っている。床の黒い染みまで入っている。


それでも女の子は、もう一枚撮った。


カシャ。


「それ、撮るの」


佐知の声は、自分で思ったより低かった。


女の子はアイスを少し持ち上げた。


「逃げるんで」


「逃げる?」


「溶けるの、ほぼ逃走じゃないですか」


「違うと思う」


「でも減ってます」


女の子は真面目な顔でアイスを見た。白いしずくが、手首の内側で止まっている。


佐知は鞄の持ち手を握り直した。


撮るなら、もっと他にあるだろう。


そう思った。


屋上のフェンス。給水塔。駅の向こうの低いビル群。夏の光。古い喫茶店の看板。


少なくとも、溶けたアイスよりは。


そこまで考えて、佐知は嫌になった。


まただ。


何も撮っていないくせに、頭の中だけで順番をつけている。


女の子はスマホを下ろし、やっとアイスをひと口かじった。


「あま」


「甘いでしょ、アイスだから」


「知ってる味ほど、ちゃんと甘いと、ちょっと負けた気しません?」


「別に」


「大人だ」


「大人じゃない」


「じゃあ何ですか」


佐知は答えなかった。


大学生、と言えばいいのか。


休学中、と言えばいいのか。


通りすがり、と言えばいいのか。


どれも今の佐知には、少しずつ合わなかった。


女の子は返事を待たずに、またスマホを構えた。


「私は貝塚やえです」


「聞いてない」


「聞かれる前に言うタイプなんで」


「そう」


「そっちは」


佐知は反射的に鞄を体の前へ寄せた。青いクリアファイルの角が、ファスナーの隙間から少しだけ見えている。


女の子、貝塚やえは、それを見た。


見たけれど、読もうとはしなかった。


「まあ、いいです。足だけの人で」


「嫌すぎる」


「じゃあ影の人」


「悪化してる」


やえは少し笑った。明るい笑い方だった。けれど、楽しそうというより、先に笑っておくのがうまい人の笑い方に見えた。


佐知は屋上へ一歩入った。


ドアが背中側で、ゆっくり閉まる。


金属のすれる音がした。


カチリ。


やえは、その音にもスマホを向けた。


「それも撮るの」


「今の音、よかったんで」


音は写らない。


そう言いかけて、佐知はやめた。


やえのスマホの画面には、閉まりかけのドアと、白い光と、床に伸びた佐知の影が入っていた。


アイスは、もうかなり溶けている。


それでも、やえは消さなかった。

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