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第001話 カチリノチ・一

駅の改札機は、朝からずっと同じ音を出していた。


ピッ。


ピッ。


少し遅れて、低いブザー。


残高不足らしい。スーツの男の人が「あ」と言って、後ろの列に小さく頭を下げる。並んでいた人たちは、慣れた顔で左右に流れた。


阿久津佐知は、改札の三歩手前で止まっていた。


三歩。


親指の爪が、透明なビニールの角を押したまま戻らない。


短い。短いのに、足は動かなかった。


右手には、ICカードの入ったパスケース。カードの端は少し白く擦れていた。大学に毎日通っていたころは、そんなもの見なかった。見る暇がなかった、と言ったほうが正しい。


いまは、見える。


カードの擦れ。


改札機の隙間に溜まった埃。


前を歩く女子高生の靴ひもの片方だけ長いこと。


どうでもいいものばかり、よく見える。


佐知はパスケースを持ち上げた。


そのまま、止まった。


背中側で、誰かが小さく舌打ちをした。たぶん佐知に向けたものではない。朝の駅には、舌打ちの理由がいくらでもある。


それでも佐知は、すみません、と言うみたいに肩をすぼめて、列から外れた。


改札の横には、駅員室の小さな窓があった。中で駅員が電話をしている。口元だけが動いて、声は聞こえない。窓の下に置かれた案内板には、大学方面のバス乗り場が南口にあると書かれていた。


佐知はそれを見た。


南口。


大学。


学生課。


休学延長の書類。


単語だけなら、どれもたいしたことはない。なのに、並べると重くなる。鞄の中で、クリアファイルが角を立てた気がした。


佐知は鞄のファスナーを少しだけ開けた。


青いクリアファイルが見える。


中には、休学延長願と、理由を書く欄が半分だけ埋まった紙が入っている。ボールペンの字は、途中から少し太くなっていた。手に力が入ったせいだ。


理由。


その二文字の下に、佐知は何度もペン先を置いた。


体調不良。


家庭の事情。


進路再考。


どれも間違いではなかった。間違いではないものは、だいたい足りない。


紙の右下には、昨日つけた折り目が残っている。書き直そうとして、やめて、鞄に戻したときについた折り目だった。指で伸ばしても、白い線だけが残った。


佐知はファスナーを閉めた。


改札機がまた鳴る。


ピッ。


ピッ。


カチリ。


誰かのキャリーバッグの車輪が、床の溝にはまって跳ねた音だった。


佐知は顔を上げた。


駅の天井は高い。けれど空気は低いところに溜まっている。焼きたてのパンの匂い、濡れた傘の匂い、制汗剤の甘い匂い。全部が混ざって、名前のない朝になっていた。


大学へ行くには、改札を通ればいい。


二駅先で降りて、バスに乗って、学生課の窓口で書類を出す。


それだけ。


それだけを、頭の中で何回もなぞっている。


なぞりすぎたせいで、もう実際にやったような気がする。だから今日は帰ってもいいんじゃないか、という考えが出てくる。出てきた瞬間、佐知は自分でそれを踏んだ。


踏んだのに、足の裏にまだある気がした。


スマホが震えた。


佐知は画面を見た。乗換案内の通知だった。十分前に自分で設定した、大学方面の電車。


通知は開かなかった。


通知を横に払う。消えたのは通知だけで、予定ではない。そんなことは分かっている。分かっているから、余計に画面を暗くした。


近くの柱に寄って、佐知は人の流れを眺めた。


みんな、どこかへ行く顔をしている。


本当に行きたいのかどうかは知らない。ただ、足が先に決めているように見えた。


佐知の足は、許可待ちのまま動かなかった。


もう一度、パスケースを持ち上げる。


腕が半分だけ上がる。


また下がる。


後ろから誰かがぶつかりそうになった。


「すみません」


先に謝ったのは相手のほうだった。イヤホンをした若い男の人が、佐知の横をすり抜ける。佐知も口だけ動かして、すみません、と返した。声にはならなかった。


男の人は改札を通った。


ピッ。


簡単な音だ。


あまりにも簡単で、佐知は少し腹が立った。改札機にではない。男の人にでもない。たぶん、自分にだ。けれど怒るには、相手が近すぎた。


佐知はパスケースを鞄にしまった。


しまってから、しまった、と思った。


それでも取り出さなかった。


駅構内の案内表示には、南口と北口の矢印が並んでいた。南口は大学方面、バスターミナル、行政センター。北口は商店街、駐輪場、旧市街。


旧市街。


ずいぶん雑な名前だと思った。


古いものをまとめて、古い、と呼んでしまえば片づく。便利だ。便利な言葉ほど、だいたい失礼な顔をしている。


佐知は北口の矢印を見た。


見ただけだった。


見ただけのつもりだった。


気づくと、足がそちらへ向いていた。


改札を通らず、駅の端を歩く。券売機の前で、小学生くらいの男の子が母親に何かをねだっている。売店の店員が、レジ横の肉まんケースを布巾で拭いている。証明写真機のカーテンが少し開いていて、中の丸椅子だけが暗がりに浮いていた。


写真。


その言葉が頭の中に出て、佐知は歩く速度を落とした。


証明写真機の横には、見本の顔が並んでいる。笑っていない顔。正面から光を当てられた顔。背景の青だけがやけにきれいな顔。全部、ちゃんとしている。


ちゃんとしている顔は、少し怖い。


佐知は目を逸らした。


北口へ続く通路は、南口より人が少なかった。床のタイルの色も少し古い。壁の端に、剥がれかけたイベントポスターが残っている。去年の日付だった。誰も剥がさないまま、一年近くそこにいるらしい。


通路の出口から、白い光が差していた。


外に出ると、空気がぬるかった。


ロータリーにはタクシーが二台だけ停まっている。運転手はどちらも窓を開けて、同じような角度で首を傾けていた。信号の向こうには、シャッターを半分下ろした文房具店と、看板だけ新しい美容室。歩道の植え込みには、誰かが落としたレシートが引っかかっている。


風が吹くたび、レシートの端がぱたぱた動いた。


佐知はスマホを取り出した。


ロックを外す。


指が、いつもの場所をなぞる。


カメラのアイコンに触れる直前で止まった。


別に、撮りたいわけじゃない。


そう思った。


思ったのに、指はまだ画面の上にいた。


レシート。


傾いたタクシーのミラー。


青くない空。


白く乾いた歩道のひび。


撮るものなんて、どこにもない。


どこにでもある。


佐知はカメラを開いた。


画面の中に、ロータリーが入る。現実より少し明るく、少し平らで、少し知らない場所みたいに見えた。白いシャッターボタンが、下のほうに丸く浮いている。


押せば音が鳴る。


ただ、それだけだ。


佐知の親指は、丸いボタンの手前で止まった。


駅の中から、また改札の音が聞こえる。


ピッ。


ピッ。


カチリ。


佐知は画面を暗くした。


シャッター音はしなかった。


北口の風だけが、鞄の中の紙の角を少し揺らした。

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