第096話 サササノサ・四
既読は、すぐにはつかなかった。
佐知はスマホを手に持ったまま、丸藤第六ビルの前に立っていた。白い板の向こうで、作業員が何かを運んでいる。金属が床に置かれる音が、板を通して少し鈍く聞こえた。
ハルエは入口の近くで、作業服の男と短く話している。
「じゃあ、鍵は」
「あとで管理会社に」
「はい」
それくらいの会話だけが聞こえた。
喫茶ポニー跡の戸は、もう佐知からは見えにくい。白い板が少し動かされ、入口の隙間がさらに細くなっている。朝のうちに入れたことが、少し前のことみたいだった。
佐知は画面を見た。
写真の下に、送ったばかりの「撮った」がある。
既読はまだない。
待っている間、佐知は写真を開いたり閉じたりした。
開くたびに、傾きが気になる。閉じるたびに、小さな四角の中では悪くない気もする。良いか悪いかを考え始めると、また昔の声が近づいてくるので、佐知はすぐに画面をトークへ戻した。
やえに送ったということだけは、もう戻らない。
戻さなくてよかった。
やえは学校の近くにいるのかもしれない。校門の前まで行ったのか、前に佐知が見つけた歩道橋にいるのか、コンビニで止まっているのか、分からない。スマホを見られない場所にいるのかもしれない。
佐知は返信を待つために立っているのか、ビルを見るために立っているのか、自分でも少し分からなかった。
ハルエが戻ってきた。
「帰るよ」
「はい」
「あんたは」
「もう少し」
「邪魔にならないくらいにしな」
「はい」
ハルエは佐知のスマホを見なかった。
「撮れたなら、よかったね」
「よかったかは分かりません」
「じゃあ、撮れたね」
「はい」
「それで」
ハルエはそれ以上言わなかった。白い板の端をよけて、歩道へ出る。駅とは反対のほうへ歩いていった。背中は小さく、でも急いでいる感じはない。
佐知はまた画面を見た。
既読。
文字が変わっていた。
佐知の指が止まる。
すぐに、やえから返信が来た。
見ました。なんか腹立つくらい、ちゃんとしてますね
佐知は画面を見たまま、少し固まった。
腹立つくらい。
ちゃんとしている。
褒められているのか、けなされているのか、いつものように半分ずつだった。
佐知は笑った。
声は出なかった。喉の奥で、息だけが少し漏れた。泣きそうにはならなかった。目の奥は熱くならない。ただ、口元が勝手にゆるんで、それを手の甲で隠した。
腹立つって何。
そう打とうとして、やめた。
画面の下に文字を入れないまま、佐知は写真をもう一度開いた。
傾いている。
やっぱり、少し傾いている。
白い板は大きすぎるし、看板の文字は切れている。喫茶ポニー跡のガラスは反射して、中はほとんど見えない。屋上は入っていない。やえも、ハルエも、弓削も写っていない。
それでも、ちゃんとしていると言われた。
腹立つくらい。
佐知はまた少し笑った。
「何笑ってるんですか」
後ろから声がして、振り向くと弓削がいた。
さっき帰ったと思ったのに、コンビニのカップコーヒーを持って戻ってきている。紙袋はもうない。
飲み口から、まだ少し湯気が出ていた。弓削は一口飲もうとして、「熱」と小さく言い、持つ手を替えた。
「帰ったんじゃ」
「駅まで行って、コーヒー買って、戻ってきました」
「何で」
「最後に来た人っぽくなり直そうかと」
「忙しいですね」
「俺の人生、だいたい無駄に忙しいです」
弓削は白い板を見た。
「撮れました?」
「撮りました」
「俺、写ってます?」
「写ってません」
「やっぱり」
「写りたかったんですか」
「いや、写ってないなら写ってないで、俺っぽいかなと」
佐知は少し考えて、「面倒ですね」と言った。
「今日それ、二回目くらいです」
「たぶんもっと言われてます」
弓削は否定しなかった。
作業服の男が、入口の棒を外した。別の板が運ばれてきて、隙間がさらに狭くなる。丸藤第六ビルの入口は、もうほとんど見えない。
佐知はスマホをしまった。
「行くんですか」
弓削が聞いた。
「はい」
「どこへ」
佐知は駅のほうを見た。
通勤の人の流れはもう少し落ち着いている。駅前の信号が変わり、自転車が何台か走り抜けた。大学へ行く電車も、家へ戻る電車も、別の場所へ行く電車も、同じ駅から出る。
「駅」
「ざっくり」
「駅です」
「駅から先は」
「まだ」
「まだ」
弓削はその言葉を繰り返した。
「いいですね、まだ」
「便利ですか」
「閉じてるようで、閉じてない」
佐知は少し眉を上げた。
「それ、やえが前に言ってました」
「まじですか。俺、貝塚さんとかぶった」
「嫌ですか」
「光栄ですけど、怒られそう」
「怒られますね」
弓削は笑った。
佐知は歩き出した。
白い板の前を離れる。振り返ると、丸藤第六ビルはもう半分以上隠れていた。看板の文字だけが見え、上の窓は白い板の上に少しだけ出ている。屋上は、下からはもうほとんど分からない。
昨日、屋上から見えていたものは、今は下から見えない。
下から見えないものを、昨日は見ていた。
そう思うと、撮らなかった昨日の時間も、少しだけ残っている気がした。写真にはない。けれど、ないから消えるわけでもない。やえが「今日は見ときます」と言った声だけが、朝の白い板の前で少し遅れて戻ってきた。
佐知はスマホを鞄の中へ入れた。
でも、すぐ取り出せる場所にした。
駅へ向かう途中、やえへ返事を打つか迷った。
腹立つなら消します。
そう打って、すぐ消した。
消す、という言葉が今は違った。
佐知は別の文字を打った。
どうも
短い。
少し冷たい。
でも、やえにはたぶん伝わる。
送信する。
既読はすぐにつかなくてもよかった。
駅前の信号で止まる。
佐知は鞄の中のスマホを指で確かめた。画面は見えない。けれど、写真が入っていることは分かる。丸藤第六ビルの入口と、白い板と、切れた看板の文字。ちゃんとしているのかどうかは、まだ分からない。
やえの返事も、そこにある。
どうも、と返した自分の短い文字もある。
母への返信も、大学からのメールも、折れた書類の写真も、開けとく日の暗いカップも、同じ小さな機械の中にある。
鞄の布越しに、スマホの角が指に当たった。
ただ、消す予定はなかった。
信号が青になる。
佐知は歩いた。




