千年の終わり
「ふ、ふぅ……も、もうちょっと待っててくれ、のぅ」
少女像をどれだけ削り続けたのか。動かし続けた腕は重く、金の持ち手をつまむ指先が痛い。
この大事な場面で、何だか締りがないような。へなっと眉を下げた老魔術師が、手のひらをにぎにぎ動かし腕をもみもみ擦っていると、部屋を照らす精霊がそっと寄り添ってくれる。
「おぉ、ありがとうのぅ。わし、がんばるからの」
よし、とうなずき竜の牙を握りなおし、コリコリと音を立て始める、と。
「ふぉ?」
ティンクルスの胸から、小さな光が出てきた。
それは赤く色づき、ついで黄みを帯びてゆき、緑から青、そして藍色へ、七色にきらめく。淡くほのかな光、もしかすると大精霊の魂だろうか。
七色の光は少女像の削った部分から、ゆっくりと中へ入っていく。
「……どう、なるんじゃ?」
じぃっと静かに見守るも、像に変化は見られない。
これで、大精霊の娘が解放されるはずではないのか。大精霊が甦るか、新たな大精霊が出現するのではないのか。何か不都合でもあったのだろうか。解放に失敗してしまったのだろうか。
どうしよう。焦る老魔術師が、少女像に近寄ろうと足を踏みだしたとき。
像が赤くきらめいた。それは徐々に黄みがかり、緑から青へ、藍色へ。七色の輝きがどんどん増してゆく。
――バシッ、バシリ、ビキリ、バキンッ
少女像が割れ砕け、そこから、とてつもなく強い魔力が現れた。あのとき、古代神殿の女神像で大精霊の声を聞いたときと、同じ魔力だ。
七色の光は強いのに、不思議とまぶしく感じない。静かでいて温かく、とても優しい魔力だ。
ティンクルスはしばしの間、目をつむり、心地よい魔力に身をゆだねる。
玉座のほうにも、精霊の気配があるのがわかった。不老の魔術のため、竜人の男の体に閉じこめられていた精霊だろう。
男は、きっと『精霊に愛された王』の息子だ。強大な魔術でこの地を支配し『竜人』と称した国の、初代であり最後の王だ。彼は、ようやく長い生を終えることができたのか。まぶたを開けて見てみれば、穏やかな、安らかな顔をしている。
精霊は、まだ男の周りを漂っている。感じるのは、解放された喜びではなく優しさ、だろうか。自らの意に反して閉じこめられていたようには……
老魔術師はハッとした。
この精霊は、『精霊に愛された王』とともに過ごした精霊ではないだろうか。だとすれば、自ら生みだした謎の文様が引き金となり、王と王子は争った。このことに心を痛めたのか。だから王子の中に入り、見守ろうと思ったのか。
いくら争おうとも、打ち負かされようとも、『精霊に愛された王』は強大な魔術に取りつかれてしまったわが子を、心配したに違いない。王子を、大切な息子を、最も信頼する精霊に託したかもしれない。
そして千年――
精霊や父王の心に思いを馳せると切ないような気持ちになり、胸にそっと手を当てる。と、ここで。
「……ぉ、お?」
ビシリ、バキリ、黒い部屋に亀裂が走った。足元が揺れ、体が揺れる。ティンクルスは立っていられず倒れこむ。
ゴゴゴゴ、と不気味な唸りをもらしながら部屋が震える。亀裂はどんどん大きく広がり、パラリ、カラリ、欠片が落ちてくる。このままでは神殿が崩れてしまう。
「ふっ、ふぉ、ふぉっ」
老魔術師は這いながら、必死になって通路を目指す。行く手を遮るようにして、細かな石が落ちてくる。
それでも、彼は這うことを止めない。だって、必ず戻ると友に約束したのだ。これからも友と一緒に生きていくのだ。だから、もう少し、もう少し。
「ふぉっ!」
ひときわ大きな音がして、黒い石が真横に叩きつけられた。
思わず、這う手足が止まる。もし、これが自分の上に落ちていたらと思うと、のどがゴクリと上下する。そろそろと天井を見上げれば。
バキリ――ひときわ大きな裂目ができ、黒い大きな塊がずれ動くのが見えた。ティンクルスは震え、しかし両手は胸元へ。
「ふぉお!」
合わせた手から光の壁を出した直後、大きな石が迫ってきた。
「……む、む、むぅ」
神殿は揺れ続けている。いや、揺れは激しくなっている。
魔法の壁の淡い光で、前に、後ろに、その上にも、見えるのは黒く大きな石ばかり。ティンクルスは身動きが取れない。
今はまだ、光の壁で身を守っていられるが、床が崩れればどうなるか。魔力もどれだけ持つか。
閉じこめられた恐怖を抑えこむように、震える手をきつく握り締める。勇気をもらえるように、友の顔を思いだす。
老魔術師は光の壁をふり仰いだ。
この上にどれだけの石が積み重なっているのか、残る魔力で全てを払いのけられるのか、わからない。それでも。
「……よし!」
目を閉じたティンクルスは、まだ震え続ける両手を合わせ、ふぅぅ、と長い息をつく。
必ずここから抜けだすのだ。必ずここから戻るのだ。必ず友の顔を見るのだ。必ず――
ゆっくりと、目を開ける。ここだと思った一点を見据える。もう震えのない、合わせた手を広げていく。そして。
「ぬぅぅぅぉおおお!」
渾身の魔法が、手のひらから放たれた。
少しずつ、少しずつ、閉ざされていた石が揺れて震えだす。ガタリゴトリと動きだす。そのとき。
クロードの魔力を感じた。石が大きな音を立てながら次々と崩れ始める。
「ティンク!」
開き始めた隙間から、確かにクロードの声が聞こえた。さらに石は崩れ続け。
「大丈夫か!?」
とても会いたかった、友の顔が見えた。
*
「ん、ん……ん?」
「ティンク、気づいたか?」
「ぉ、クロード……」
寝ていたらしい。ティンクルスが頭を上げると、くらり、目がまわる。
これは少し前にも経験した魔力切れだ。崩れゆく神殿の中で精一杯の魔法を放ち、友の顔を見たあとで気を失ってしまったようだ。
ここはまだ谷底か。近くに白く艶めく大きな竜が、ゆったりとした様子でうずくまっている。老魔術師が全てを成し遂げるのを、待っていてくれたのか。
崖の上に見える空は、青い。神殿に入ってから一日も経っていないのか。それとももう翌日なのか。いや、それよりも。
ティンクルスは友を見た。
「クロードよ。わし、戻ってきた」
会いたかった。また会えた。そんな想いをかみ締めながらこう言うと、クロードは「よくがんばったな」と褒めるように優しげにうなずく。しかし、すぐに口が尖りもした。
「でも、約束したんだから戻ってきて当然だろ」
友の声は、ちょっと拗ねている風にも聞こえる。神殿が崩れ始めたとき、きっと必死になって探しだし助けてくれたのだと思う。老魔術師が見つかるまで、心配で生きた心地もしなかったかもしれない。
助けてくれて、心配してくれて、ありがとう。ティンクルスがほんわり笑うと、クロードも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ティンク。まず、これを食べろ」
「……」
笑顔のままのクロードが、老魔術師をゆっくりと抱き起し差しだしてきたのは、芳しい匂いを放ちながら赤く艶めくリンゴだ。おいしそうに見えて、実はものすごくすっぱい……黄金のリンゴ。
今は腹が空いているとは感じないので、あまり食べたくない。だが、友が食べろと言ったのだから、おそらく魔力切れが治るのだ。
「む、むん……」
ここはワガママを言わずに食べるべきだろう。
見ているだけで、口中にすっぱい感じの唾液があふれる。老魔術師の手は恐る恐るリンゴに伸び、そろそろ口を寄せていく。
――シャリリ
目をつむり、思いきってかぶりついた、途端。
「ふぉぉ……」
甘く爽やかな芳香が鼻孔を抜け、体がふわりと浮いたような心地になった。瑞々しい果実が口いっぱいに広がり、頬はとろりと盛大にゆるむ。
もしかすると、これは崖の上の、竜の棲み処で実ったリンゴなのか。まさか、竜が採ってきてくれたのだろうか。いや、そんなことよりも何よりも。
「むふぉふぉっ」
シャリシャリとかじり続ける老魔術師の口から、久しぶりに変な声が出た。
「終わったんじゃのぅ……」
ティンクルスとクロードは、崩れた神殿の前に来ていた。
千年の間、閉じこめられていた大精霊の娘は解放され、新たな大精霊が現れた。いや、大精霊の魂と娘が一つとなって、そして大精霊になったのか。だとすると、甦ったとも言えるかもしれない。
これでまた、精霊は増えていくのだろう。徐々に澱みが払われ、魔物は減っていくのだろう。
竜人の男は最後、穏やかな顔をしていた。彼の中でこの千年をともに生きた精霊は、どんな想いで男の終わりを見届けたのだろう。千年も生き、疲れた男の魂を、天国へと導いたりもしたのだろうか。
谷底の神殿は崩れ、もう『謎の文様と魔物の体』の魔術を知ることはできなくなった。石が積み重なるばかりで、どんな建物であったかもわからない。また千年もの時が経てば、再び葉が生い茂り全てを覆い隠すだろう。
そよとした風が葉を運び、崩れ重なる石の上にひらひらと降り落ちる。
ティンクルスの口から、ほぅ、と、感慨深いような、どこかもの悲しいような、そんな息がこぼれた。
これで、一番の大きな役目は果たしたと思う。千年前の出来事が、今ようやく終わったのだと思う。だが、老魔術師にはまだまだやるべき事がある。
精霊が囚われている玉は、まだどこかにあるだろう。これを探し、閉じこめられている精霊たちを解放しなくてはならない。
同じ過ちを繰り返さないために、千年前の出来事を、そして結末を、何らかの形で残しておかなければいけないとも思う。
旅を終えて王都へ戻ったら、友とともに魔法屋を開き――やりたい事はたくさんあるのだ。
「クロードよ。人の住まう地へ帰ろうかのぅ」
ほわりと笑ったティンクルスに、しかしクロードは別のほうを向いている。その眉間にはシワが寄っているような。
「クロード?」
「ティンク!」
突如、友に抱えられ、老魔術師は目をつむった。
ついで感じたのは吹きつけてくる強い風。びょうびょうと、風を切る音の合間から聞こえてきたのは「お前! もっと丁寧に運べ!」と、猛然と抗議する友の声。
――これは。
見ないほうがいいかもしれない。そうとは思いつつも、老魔術師のまぶたはそろそろと開いていく。
「……ふぉ、お、お、ぬおおおおおっ」
ティンクルスはクロードとともに、再び、竜に掴まれ大空を飛んでいた。




