第39話 那音の選択
『……申し訳ないが今すぐ病院に来てくれ』
その言葉だけ言い残され、慌ただしく電話が切れた。
那音は脚の骨が全て溶けたかのように、その場に崩れる。
「……余梁……。……は、早く行かなくちゃ……」
やらなければならない事がわかっているのに、身体が操縦できない。
かろうじて動く腕を使い、スマートフォンを操作して、アプリで近くのタクシーを呼んだ。
待っている時間は僅かだったが、焦燥感からとても長く感じる。
三分程でタクシーが到着し、ドライバーに補助してもらいながら乗り込んだ。
行き先を告げ、「すみません。できる限り急いで欲しいです」とお願いした。
心臓が強く、そして速く胸を叩く。
正人の言葉を聞いて瞬間的に熱くなっていた頭が徐々に冷え、それに伴って、胸を叩く強さも、速さもどんどん増す。
希望的観測や、悲観的観測が那音の頭で渋滞を起こしている。
『失敗』といってもいろんな事が予想できる。
——歌があんまり上手じゃなくなってしまったのか?
いや、そんなことでわざわざ電話してこないだろう。
——もしかして……ガンの摘出に失敗? 転位してた?
だめだ。だめだ。そんなこと、想像もしたくない。
命に関して、想像したくないと思えば思うほど、べったりと頭に貼り付いて離れない。
タクシーに揺られながら、胃が締め付けられるような感覚を覚えた。
さらに手足の力が、先端から抜けていくような感覚が那音を襲う。
二十分程で病院に着いた。
降りた後は意外にも脚が動き、力の限り駆け出す。
「……余梁……。……余梁……」
力のない声を繰り返し呟き、祈ることしかできない。
受付で事情を話し、手術室の前へ案内される。
そして、ドアの目の前で息を整えながら待っていると、すぐに正人が飛び出してきた。
「おい! 親父っ。どう……」
「申し訳ない」
那音の言葉を遮り、正人はその場に沈む。
自由落下よりも速く、ストンと身体を落とし、手と膝と頭を地面に付けた。
最大限の誠意を示すように、土下座をした。
「お……親父……」
文句の一つでもぶつけてやろうと思っていたのに。
こんなことをされたらなにも言えないじゃないか。
床に伏せて小さくなった背中は、小刻みに震えている。
それを見て那音は、唇を噛み、溢れる感情を抑えた。
「……顔を上げてくれ。……そして状況を教えてくれ」
「あぁ」と声がして、目を拭う動作の後、赤い目をした顔が上がってきた。
「ガンの摘出には成功した。これに関しては、今後の再発に気を付ければ大丈夫だ」
まず命が救われた事の説明を受け、最悪の想像は回避できたと、胸の一部を撫で下ろす。
そして続く言葉を聞く覚悟を伝えるように、決意を込めた相槌を送った。
正人は葛藤を振り払うように、首を振ってから那音の目を真っ直ぐに見て「しかし」と口を開く。
「……人口声帯が適合しなかった」
想像していた中で、二番目に悪い事が現実として突きつけられた。
那音は深く息を吸い、そして吐く。
言葉を返す事ができず、無言で説明の続きを待つ。
そして、那音のために用意していた人口声帯に不備はなかった。
しかし、三月生まれの那音に比べて、四月生まれの余梁の適合率が少しばかり下がるのは、自明であった、だが成功する確率は充分に高かった。
そしてなにより、ガンを取り除き、余梁が声を失くさない方法はこれしかなかった。
と説明を受けた。
次第に那音の顔から、生気が蒸発していき、目が虚ろになっていく。
茫然自失とした那音を、正人は鉛のように重い口を開き、さらに現実を突き付けようとする。
「——那音……。余梁さんに残された道は一つしかない」
那音はゴクリと音を立てて唾を飲み込む。
「……声を失くして生きていく事だ」
それを聞いて、那音は目を見開いた。
その言葉の意味。正人の想い。それをしっかりと咀嚼し、受け止めた上で、吠えた。
「ふざけんなっ! バレバレの嘘は辞めてくれよ! …………それしか道がないんなら、わざわざ手術の途中に俺を呼ばないだろ? 親父が俺の事を想ってくれてるのはわかるけど……。わかるけどさ……」
声が震えて言葉に詰まる。
正人は左手で目を覆い、隠しきれない口と鼻は、明らかに泣き顔のそれだった。
二人とも、もう一つの道はハッキリと理解している。
だって那音が茫然としていたのは、それを覚悟しなきゃいけない状況になったから。
だって正人が嘘をついたのは、那音にそれを決断させる事を躊躇ったから。
どちらかがそれを口にしてしまうと、きっともう逃げられない。
今なら、どちらもその手段を口にしていない今なら、気付いていないフリができる。
しかし、那音はパチンと音を鳴らして、自分の頬を叩いた。救うことを迷っている自分を責めた。
そして散々躊躇った事を口にする。
「……親父の技術なら……。声帯移植なら……もっと成功率高くできるんだろ……?」
コクりと小さく首が動くのを確認して、
「だったら」と大きく息を吸い込む。
「——俺の声帯、余梁にあげてくれ」
那音は自身の憧れたキャラになることを捨て、余梁ただ一人にとってのヒーローになることを選んだ。
それを聞いた正人は大きく息を吐いて、一歩近づき右手を那音の肩に置いた。
「……お前が声を……。歌を……失うまでしなくてもいいんじゃないか? 声を失くしてしまった余梁さんのことを傍で大切に支えてあげればいいんじゃないか?」
那音はソッと目を閉じて、首を横に振った。
そして目を開いて、真っ直ぐに正人を見つめ、
「親父……」と言葉少なに呟き、決意を、そして覚悟を乗せ、揺るぎないと主張した。
「……そうか。そういえば、オーディションはどうだったんだ?」
「……あ……あぁ。オ、オーディションは…………全然ダメ……だったよ」
那音は右手で首の後ろを触りながら答えた。
オーディションの事を思い出すと、胸が跳ねる。目が湿る。
今までの人生で最高に幸せな瞬間だった。
しかしこのまま決意を揺らがせたくない。
だから急かすようにそそのかす。
「親父。早くしよう。……俺の声帯を余梁に……」
言葉の途中で膝が力を無くしふらつく。
声を失くす事、やっと爪先がかかった夢を捨てる事を想像してしまった。
顔がぐしゃぐしゃになる。顔中の穴から液体が溢れ、溺れてしまいそうだ。
それを正人が慌てて、倒れないように手を貸して支えた。
「どうして……そんなこと……してあげれるんだ?」
「——だって……余梁にはいろいろ……もらったから。お返ししなくちゃ。それに——」
頭の中を余梁の言葉が。笑顔が。声が。温もりが。匂いが。そして歌が。——繞る。那音の中に余韻が貼り付いている。
「好きなんだ。それ以外に理由要らないだろ?」
「……そうか。そうだな……わかった。法律や費用とか面倒なことは全部俺に任せろ」
「親父……ありがとうな」
那音は真っ直ぐに目を見つめて告げた。
「俺はお前の父親だ。俺にもこれぐらいのことはやらせろ」
「違う違う。それもありがとうだけど……。まずは俺のわがままに賛成してくれてありがとう」
正人は小さく首を縦に動かした。
那音もそれに合わせて首を動かして、
「そしてなにより、反対してくれてありがとう」
と言って右手を前に出して握手を求めた。
「——お前の父親だから、当然だ」とすぐに応じられ、握った手にそれぞれ熱い力を込めた。
それから急ぎ足で、血液型・組織適合性検査など準備が進められる。
いよいよ手術室のベッドに横になった。
静かに目を瞑り、右手で撫でるように喉にソッと触れる。
(長い間、俺に夢を見させてくれてありがとう)
麻酔が効き始め、意識を手放す直前、微かに声が聞こえてきた。
「お前こそ嘘がバレバレだぞ。良い結果だったんだな」
「——おめでとう」
那音の頬がわずかに上がった。
【那音の選択】




