第38話 幸せの帳尻合わせ
去る車の姿を、じっと見つめ車が見えなくなると、周りを見回す。
近くに人が居ないことを確認し、両手を高く上げてから、勢いよく握り拳を身体に引き寄せた。
「よっしゃぁあっ!!」
抑えていた感情を爆発させるように、力の限りガッツポーズをした。
何度も。何度も。感情を溢れさせて、何度も喜びを噛み締める。
「ちょっといいッスか?」
後ろから聞こえた声にギクリとして、ゆっくり振り返ると、飄々とした表情で我歌が立っていた。
素で感情を爆発させているところを見られた那音は、ばつが悪い。
顔を歪ませて、「……えっと……なに?」と我歌の言葉を待つ。
「あの……俺、ほんとにあんたの歌すげーと思ったッス。俺は親に言われたから歌ってるだけで『気持ちを込めて歌え』とか言われても全然わからんかったっス。でもあんたの歌を真横で聞いて、気持ちを込めるってのが、やっと分かったッス」
我歌は表情を崩さずに淡々と告げた。
当然悪い気はしない。その言葉を受け取り、素直に返す。
「ありがとう」
「てか俺一つ謝りたいッス」
心当たりの無い那音は、訝げな表情を作り、首を傾ける。
「俺、夏のオーディションも今回も、途中で辞退するとか言って、すんませんっスでした」
那音はハッとした。
この天才が、夏のオーディションの時に自分の事を認識して、覚えていた事にまず驚く。
次に我歌が非を認め、謝意を示した事に驚いた。それは夢に一生懸命に挑戦する者の気持ちが分からないと、理解できないこと。
もしかしたら那音自身、天才に対してのコンプレックスから、思い違いをしてしまっていたのかも知れないと思った。
「あぁ、別にいいよ。てかその事を謝れるのは、すごいことだと思うよ」
「ありがとッスございます。それに気付けたのもあんたのおかげっス」
我歌は段々と前のめりになる。
「どうやったらあんたみたいに、気持ちが込もった歌を歌えるか教えて欲しいッス」
と那音に当たるスレスレまで頭を下げた。
「え、うーん。…………いいよ」
越えるべき相手が、さらにレベルを上げるようなアドバイスをする事に、一瞬迷ったがすぐに教える決意をした。
なぜなら、今の那音は最高の気分だから。
なぜなら、さらに魅力的になる我歌の歌を、那音も聞きたいから。
「憧れを大事にするんだ。今までやこれからの人生で、自分の心が動いた物、憧れた物。それを胸に宿して育てるんだ」
「ッス」
力強く伝える那音に、独特の相槌を返す。
「そしたらきっとその中の何かが、君の胸に消えない火を付ける。その火に従って夢を追いかけるんだ」
「ッッス!!」
相槌が強くなる。
「その結果、目指す物が歌じゃなくなってもいいと思う。親に決められた道よりも、自分で決めた道を行く方が楽しいしね」
「ッス! 痺れたッス。俺が人生で初めて憧れたのは、あんたの歌ッス」
那音は頬が上がるのを堪え切れずに、歯茎を見せる。
「おいおい。俺を差し置いて合格しといて、何言ってんだよ」
軽口で照れを隠した。
「すんませんッス! よかったら連絡先教えて欲しいッス」
我歌は柔らかく謝り、スマートフォンを取り出した。
それに応じて「じゃあ」と別れる。
誰かに憧れられるという経験をした那音は、さらに気分が高まる。
しかしそれと同時に警戒心も高めた。
こんなに良い事が続くと、帳尻合わせで何か不幸が起きるんじゃないかと。
例えば、漫画やドラマでよくあるのは、交通事故にあったり、何かハプニングが起きて仕事の話が取り消しになったりが相場だろう。
それから周囲に注意を払い、慎重に歩いていると視界の端に嫌な予感を捉えた。
心臓の動きが速くなるのを感じながら、顔を向けると、公園からボールが転がってきている。
そして、周りも見ずにそれを追いかける子ども。
さらに、図ったかのようにタイミングが合っているトラック。
案の定にも程がある状況に、那音は「まじかよ」と嘆息を漏らす。
しかし迷っている暇はない。間に合うかどうかはギリギリのところ。
子どもは道路の真ん中でボールに追い付き、近づいてくるトラックの存在に、やっと気づいたが足がすくんで動けなくなってしまう。
那音は歯を食いしばって、道路に向かって加速する。
道路に飛び出す寸前で、カバンを手放して勢いを増し、懸命に手を伸ばした。
なんとか子どもの元に辿り着いたが、予想以上にトラックが迫ってきている。
ドライバーは、那音が飛び出してやっとこちらの存在に気づいたようで、ブレーキ音が聞こえるがとても間に合わない。
那音はなんとか踏ん張って、反対側まで渡ろうとし、子どもを抱える。そしてヘッドスライディングするように自分の身体を投げた。
——あっやばい。届かない。避けきれない。
どうして運命ってやつは、幸せの帳尻合わせをしようとするんだろう。
やけに冷静に思った。死ぬ直前なんてこんなもんなのかな。
なんとか子どもだけでも……と、向こう側に投げようと腕に力を込める。
その時、トラックを避けきれないと思っていた那音の背中が押されたような気がした。
身体を投げた距離が想定よりも延びてくれたおかげで、ギリギリのところでトラックを避ける事ができた。
那音は避ける瞬間、一瞬振り返り確かに見た。
自分が投げるように捨てたカバンから、こぼれ落ちて宙を舞うバナナを。
助かった事に安堵した那音は、そんなわけないだろうと思いながらも、余梁からもらったバナナに背中を押されたような感覚に「ふふ」と口の端を上げた。
さらに、自分があげた交通安全の御守りを思いだして、笑みを深めた。
——余梁が守ってくれたのかな。それかあの御守りのおかげかもな。後で余梁に話そ。
後での楽しみを増やしてニヤニヤした。
子どもは那音の傍らで泣いている。
トラックはすぐ近くに止まり、慌ててドライバーが出てくる。
「大丈夫か?」
「はい、なんとか……」
接触と怪我が無いことを確認して、深々と謝ってからドライバーは去っていった。
子どももすぐに泣き止み、「ありがとうございました」とだけ言って、ケロっと去っていった。
「ふぅ。よかった」
一人その場に残された那音は、安堵のため息をついた。
ちょうどその時。
ブーブー、ブーブー、ブーブー
ポケットからスマートフォンのバイブが伝わる。
取り出して表示を見ると、正人からの着信だった。
まず思った事は、憧れのキャラクターの声を任してもらえたという報告がしたい。
その気持ちが強くて、なぜ電話をかけてきたのかは、瞬間的に疑問に思わなかった。
そしてワクワクしながら電話に出て、相手の声が聞こえる前に、開口一番喋りだす。
「親父っ! 聞いてくれよ! あのさっ…………あれ? 親父? もしもーし」
電話の向こうの静けさに、ミュートになっているのか、それとも電波が悪いのか、と思う。
しかしよく耳を澄ますと、電話の向こうから微かに、息が聞こえてきた。
「親父? もしもし。どうしたんだ?」
那音の焦燥感が募る。
やっと電話の向こうから声が返ってきた。
『……那音……』
心なしか声が震えていた。
ゴクリと音を立てて唾を飲み込む。
『……手術…………。失敗した』
「えっ」
『……申し訳ない……』
その言葉の意味を理解した時、那音は呆然とし、言葉を失くした。
やっぱり運命ってやつは、幸せの帳尻合わせをしてくるんだな。
トラックが去った後の道路では、バナナがペチャンコに潰れていた。
【幸せの帳尻合わせ】




