第32話 おまじないの効果
会場となる八階建てのビルの前に立ち、目を瞑り、イメージを膨らませる。
両手にバナナの房を持ち、そこから熱が伝わるように身体の中へ想いを吸収していく。
山口コーチも激励としてバナナ一房を渡してくれたので、那音はバナナの特売帰りみたいな見た目になっているが、本人はとても心強く感じていた。
「またバナナ持ってきてんのかよ。しかも二つも」
「蹴人っ! なんでまた居るんだよ。てか……それどうした?」
話しかけられた方に視線を向けると、蹴人が立っていた。左脚には膝上からギプスが巻かれていて、両腕で松葉杖をついている。
車で会場前まで送ってもらったようだ。
「……怪我したんだよ」
「サッカーは?」
「できるわけないだろ。……俺も歌手目指すことにしたから」
吐き捨てるような言葉に、那音は顔をしかめる。
「……そうか、じゃあ俺は他に構ってる暇ないから」
と言ってビルに入っていった。
そして、すぐにビルから出てきた。
「なんだよ」と蹴人が鋭い目付きで尋ねると、
「いや、歩くの大変だろ」
しかめっ面のまま答えた。
肩を借りるより松葉杖の方が歩きやすいと言われたので、荷物を持って手伝うことにした。
「悪いな……ありがとう」
「気にすんな。でも勝つのは俺だからな」
松葉杖のペースに合わせて歩き、一緒に会場の階へ向かう。
「なぁ蹴人……サッカーはどうしたんだ?」
「今その話はいいだろ。俺は歌手になることにしたんだ」
「そうか……じゃあこの前の夏のオーディションの楽曲提供は?」
「……してもらったけど全く話題にならなかった……」
蹴人はサッカーの話題になると、唇を噛んで悔しげな表情を浮かべ、歌の話題になると愛想笑い混じりの軽い表情になる。
「那音こそ、あの後大丈夫だったのかよ。すぐ居なくなったから心配したぞ」
「俺は……実は歌手諦めようとした。でも……俺の手を取って、必死に夢に引っ掻けようとしてくれる子がいてさ。俺自身は夢から手を離そうとしてるのに」
蹴人は黙って相槌を返す。
「だから——その子のために俺は歌う」
少ない言葉だが、それ以上の想いが伝わった。
会場となる部屋の前に、開始時間の二十分前に着く。
「じゃあ集中するから」と那音が会話を辞めて、蹴人は「うん、ありがとな」とだけ返した。
ドアの前の椅子に腰を掛け、バナナを二房抱えながら黙想をする。
開始時間十分前になると、急激に焦燥感に襲われた。
そのまま慌ててトイレに向かい、個室に駆け込む。
「やばい、やばい」
傍から見たらタダの漏れそうな人。
気持ちを落ち着かせるために、余梁からもらったボイスレコーダーを三つ同時に再生する。
同時に再生したが、録音されている時間が違うので一つずつ聞き終わる。
『——君ならできる! 絶対できる!』
「ふふっ、まじで高橋さんって誰だよ」
『——自信持っていけ。お前は俺の自慢の息子だ』
「親父……俺たちの夢叶えるからな」
『——生まれ変わったら、また私は私の人生がいいな』
「余梁……」
余梁が選んでくれた人生の中で、那音は誰かを救える歌手になりたい。
だから——その一歩目を踏み出す。
個室のドアを開け、大股で会場へ向かう。
部屋の前で、今度は緊張感に襲われる。
そこで、まだ熱を帯びている喉——余梁に口づけされた喉に手を添えると、緊張感が打ち消され、自信を持って入室できた。
部屋の奥、窓際に机と椅子が並んでいて、既に審査員が五人座っている。
その対面、入り口側に椅子五つが等間隔で並んでいた。
指示に従い、那音は左から四番目に座る。蹴人は既に一番目の椅子に座っていて、五番目の椅子は空いていた。
向かって一番左側の審査員が、腕時計を目にしながら口を開く。
「それでは始めま……」
バタンっと勢いよくドアが開いた。
「はぁ、はぁ。すみません。ギリギリセーフっスよね? あぶねぇ、はぁ、はぁ」
夏のオーディションを掻き乱した、天才Kが入ってきた。
那音は入り口に鋭い目を向け、大きく息を吐く。
それはマイナスの感情ではなく、越えるべき相手に対しての覚悟を固めるための息。
* * * * * * * * * * * * *
コンッコンッ
病室のドアを二回ノックして「失礼します」と入室する。
返事が来ないことはわかっている。
「おとーさん、おはよっ」
個室のベッドで意識を手放している恒一に、余梁が明るく声をかける。
ベッドの横の椅子に腰を掛け、その日にあった事を報告するのが余梁の日課になっていた。
「今日はね、いつも話してる那音くんが大事なオーディションなの! だからバナナとボイスメッセージあげてきたよ」
当然、返事は来ない。
「今度、那音くんの事、紹介するね。がんばり屋さんで、優しくて、うっかりなとこもあって、ちょびーっとカッコいいんだよ」
無表情の恒一に、交通安全の御守りを嬉しそうに見せびらかす。
「私が男の子連れてきたら、お父さんどんな反応するのかなぁ。嫉妬して不機嫌になったり、大した訳もなく反対したり、してくれるかな? でもね、残念。那音くんね、私の事が好きなんだって。とっても諦めの悪い人だから……だからお父さんも……那音くんと仲良くしてね」
約二ヶ月間、目を覚まさない恒一を思い、声が震える。
そして、恒一の力の抜けた手をギュッと握った。
「お父さんも私の事、大好きなんでしょっ。へへへっ、知ってるんだからね」
鼻を高くして、続ける。
「……私もお父さん大好きだよっ。起きたらいっぱいお話しようね」
声が震え、肩も震えている。
「でもね、私は今から……自分の声じゃなくなっちゃうの。余音繞梁って付けてくれた……私の声じゃなくなっちゃうの」
俯きながら一言一言、丁寧に話す。
それから一呼吸置いて、ゴクリと唾を飲み込み、言葉を強めた。
「だけど、新しい声になっても、私は誰かの心に余韻が張り付く歌を歌うよ」
そして
「——だって私は“余梁”だからね」
とびきりの笑顔を咲かせた。
「とはいえ、今の声が大好きだから……この声で歌う最後の歌を録音したよ」
カバンからボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押して恒一の耳元に置く。
余梁が恒一と那音を想って、自分の病気、運命と向き合って創った曲——【たより】が流れ始める。
手を握り直して指でトントンとリズムを取り、一曲一緒に聞いた。そして余梁に覚悟が宿る。
リピートで流れるように設定して、それを恒一の耳にだけ入る音量に調整した。
「じゃ、手術行ってくるね」
スライドドアをゆっくりと、音が鳴らないように閉めた。
しかし、病室の外に出た瞬間、恐怖心に襲われる。
そこで、まだ熱を帯びている喉—— 那音に口づけしてもらった喉に手を添えると、恐怖心が打ち消され、頬が上がった。
【おまじないの効果】




