第30話 たより
一月十日、日曜日。手術とオーディションの日。
この日も、いつものように四時のアラームが鳴る。
しかし、那音は眠りにつけていなかったので、ただの起き上がるための合図になった。
上半身を起こし、長い時間をかけて深呼吸をする。
そして「よし」と小さく呟きながら立ち上がった。
廊下へ出るためにドアを開けると
「わぁっ」
「わっ、びっくりした!」
控えめな驚かす声に不意を突かれ、しっかり驚いた。
「はやっ」
「なんだか全然寝れなかったー」
「俺も。余梁、休んでなくて大丈夫?」
「大丈夫だよー。それに」と言って口の端をニヤリと上げて
「あれ、やるんでしょ?」
「うん。やる」
那音も同じ顔で答えた。
公園に向かう途中、手は繋がない。
それは那音から提案したことで、あの日の夜に、
「ちょっと距離感近すぎたから、接触は控えよう」と顔を赤くして言った。
自分の大胆だった行動を思い出して、余梁の顔を見れなくなっていた。
余梁はわざわざその視線の正面で、ジト目を作り頬を膨らませて不満を飛ばした。
「くっついたら頭の中が、余梁だらけになっちゃうから……」
それを聞いた余梁は、なんだか満足したようで小さく二回頷いた。
その結果、公園に向かう二人は小指だけ絡めて繋がっていた。
繋がるのを完全には我慢できない。冷静になった那音はこれだけでも昂って、身体の中心をキューっと絞られる感覚になる。
公園の入り口に着き、どちらからともなく小指は離れた。
そして、余梁が「じゃ」と右手を上げて公園の中に入っていく。
左手にはビニール袋を持っていて、中身の黄色が少し顔を出していた。
——多分激励用のバナナ、一房かな。
那音は、ビニール袋の中身を想像してニヤニヤしながら、余梁の背中を見送る。
五分程立ち止まってから、いつもの練習場所へ向かった。
そしていつも以上の気持ちでルーティンをこなしていく。
ルーティンの締めに、より一層大きい声で、
「あめんぼあかいなあいうえお……あ、え、い、う、え、お、あ、お……」
真剣な顔を装っていたが、ここで堪えきれなくなり、頬が上がる。
そして、幸せを含んだ声で、
「生バナナ、生バナナ、生バナナ」
と届けた。
それを合図に、アスレチック型の遊具からニンマリとした余梁がひょっこり顔を出す。
目が合って二人とも「ぷっ」と吹き出した。
余梁はゆっくりと那音に近づき、手が届く距離で立ち止まる。
自分の胸に手を当て、大きく息を吸い込んで口を開いた。
「——生バナニャ」
たった五音の言葉。他の人が聞けば軽口に捉えられるような言葉。
しかしこの二人にとっては違う。
那音にとっては、夢を肯定され夢への道を繋いでくれたキッカケの言葉。
余梁にとっては、自分の運命、病気へ向き合う覚悟を宿した言葉。
二人だけにしか分からない、魔法の言葉。
口にするだけで身体中に幸せが溢れる。
そして温かい感情に包まれたまま、出会った時のやり取りをなぞる。
「誰?」
「そっちこそだれ? 生ニャラバってなに?」
自分の滑舌の悪さに舌を出しておどけた。
滑舌の悪さを前面に押し出せるのは、病気と向き合っている余梁の覚悟の証拠。
「自作の早口言葉だよ」
「ど、独特ね。えっと……君の夢教えてよ、だっけ?」
「自己紹介が先じゃない? 俺も曖昧だけど」
「そうだっけ?」
じゃあ、と手頃な木の枝を拾ってきて、地面に書きながら、
「私は白石余梁です。余梁っていう字は余音繞梁って言葉が由来なのです」
顔から幸せを溢れさせながら、出会った日とは違う説明をした。
木の枝を受け取り、那音も自分の名前の説明をして最後に
「——那覇の那には、美しいとか豊かなって意味があるらしい」
と歯を見せながら付け加えた。
目を合わせる度に笑い合い、心地の良い時間が流れる。
「じゃあそろそろ、君の夢教えてよ」
「ふふっ、俺は……歌手になるんだ」
言った瞬間、目の前で満開の笑顔が咲いた。その笑顔はいまだに那音の胸をチクっと刺激する。
刺激を堪えるよう、胸に手を当てながら「だって」と続ける。
「俺の歌を好きって言ってくれる子がいるんだ。みんなにバカにされた事だってあるけど……その子が俺の歌で救われる人もいるって教えてくれたから……だから歌手になるよ」
笑顔を消し、真剣な目でそう告げた。
「へへへ、素晴らしい! それでは……応援させてね、君の夢!」
隠し持っていたビニール袋から、黄色い物体を取り出した。
「やっぱりバナナか! ってあれ? 硬い?」
受け取ると知っているバナナの感触ではない事に驚く。よく見ると皮を捲った後があり一部をテープで止めていた。
「ただのバナナじゃないよ。右から捲ってみて」
鼻を高くして、胸を張りながら言った。
どうやら前面にある三本だけ仕掛けがしてあるようだ。
右の一本を捲ると、中からは細長い機械が出てきた。
「これは……なに? ボイスレコーダー?」
「そう。再生してみて」
ベンチに横並びで座り、言われた通りに再生ボタンを押すと声が聞こえ始める。
『——私の声で歌う。最後の歌を録音しました。那音くんとお父さんを想って、曲を創ってみたの。——聞いてください【たより】』
那音は唾をゴクリと飲み込み黙って聞く。
ボイスレコーダーからは息を吸い込む音が聞こえて、やがてアカペラの歌が響き始める。
『誰にだってあるんだよ。歌の中でしか出来ないこと。どんな理想も夢も、なんだって叶えられるんだ』
最初のフレーズが那音を深く歌の中へ引き込む。
その後には明るい曲調で、もしもの人生が歌詞として綴られていた。
不自由のない人生がつらつらと語られて、
『でも、生まれ変わったら、また私は私の人生がいいな』
と締めた。
那音は歌詞を、一文字さえも溢さずに受け取り、「ありがとう。一生大事にする」と震える声で言った。
「タイトルの意味わかった?」
「うーん……お便りの『便り』と、頼りになるって意味の『頼り』のダブルミーニング?」
眉毛をハの字にして、絞り出す。
「ぶー。惜しい、その他よりって意味で『他より』ってのも含めてトリプルミーニングでしたっ! 余梁って名前にかけてるのもあるけどね」
届けたい想いとしての『便り』、頼り頼られる大切さの『頼り』、他の人生より、他の人達よりあなた達という『他より』の三つの想いが込められていると語った。
【たより】はしっかりと那音の中に、余韻として張り付いた。
『たより』




