第29話 余音繞梁
「でも、感染したくないから、その……チューはもう禁止ね」
「はーい」
顔を赤らめながら言う余梁に、少し拗ねたように答えた。
それからなんだか心地よくて、無言で微笑みながらしばらく見つめあった。
沈黙を破ったのは、ぐぅーという異音。余梁の腹の虫が鳴いたのだ。
「うっ……安心したら、お腹空いちゃった。……ゴホッ、ゴホッ」
音を抑えるように腹に手を当てながら呟くと、つられて咳も出た。
「大丈夫? てか喉の傷も手当てもしなきゃ」
那音は立ち上がり、頭を撫でながら「救急箱みたいなのある?」と聞いて、教えてもらった場所に取りに行く。
「これぐらい大丈夫だよ」と言う余梁の言葉を聞かず、血を拭い、消毒し、絆創膏を貼った。
「……ありがとっ」
「うん。そういえば今日あんまり咳してなかったよね」
日付が変わってもう朝なので、正確には昨日だが、伝わりやすいと思い今日と言った。
「こっそり咳止めの薬飲んでたからさ。ゴホッ、なんか食べてまた薬飲まなきゃ。ゴホッ」
「何が食べたい?」
「焼き肉!」
「いやぁー……あっ、ちょっと待ってな」
無理なリクエストをされ、否定しようとする直前に何かを閃いてスマートフォンを操作し始める。
「よし! 十分ぐらいだってよ」
とフードデリバリーアプリで二十四時間営業の牛丼チェーンに、牛焼き肉丼を注文した画面を見せた。
「やったー! 焼き肉だー!」
立っている那音に両手を伸ばして、立たせてもらうよう促す。
それに応えて「よいしょっ」と持ち上げた。
「余梁ってさ」
「なに?」
「甘えん坊だよな」
「……うー、違うもん」
揶揄うような那音に、威嚇する声を出して否定する。
「那音くんってさ」
「え、なに?」
「甘えられん坊だよね」
「なにそれ?」
意趣返しをされた那音は一瞬理解が及ばず聞き返す。
「甘えられるの好きでしょ?」
「……確かにそうだわ」
「だから、そんな那音くんのために甘えてあげてるのです」
遊園地で何度が見た“余梁先生”のポーズで胸を張って言った。
「——じゃあ……Win-Winか」
ソッと抱き締める。
全方位からの向かい風だと思っていた物は、いつしか二人を引き寄せるための風に役割を変えていた。
そのままインターフォンが鳴るまで、温めあった。
「ご馳走様でした! 那音くんありがと」
焼き肉丼を食べ、薬を飲み、やっと気持ちと身体が整った。
那音は、「さて」と立ち上がり
「お父さんの荷物まとめようか」と指揮を執る。
食べながら入院に必要な物を調べて、メモ帳アプリにまとめていた。
着替え、歯ブラシ、タオルなどの日用品、そして印鑑、保険証など。
余梁に聞きながら順調にまとめていく。
その姿を見ながら思い出したように口を開いた。
「あっ、お父さんタバコ要るかも」
「タバコ吸う人なんだ」
「うん……割と最近吸い始めたかな。多分ここ一年ぐらい」
「てか病院でタバコはまずいんじゃない?」
「確かに……ま、一応念のため持っていこ」
和室の方へ向かった。
恒一の部屋に入るのは数年振りのようで、襖を開ける前に心の準備をしている。
深呼吸をして、「よし、失礼します」と襖を開けて中に入った。
目当てのタバコを探していると、丸い透明な灰皿の横に、ティッシュ箱程のプラケースを見つけた。
「ん、これかな?」
中にはタバコの形をした物が数本、その横には白い紙と緑茶のパックが入っている。
「自分でタバコ巻いてるの? てか……緑茶吸ってるの!?」
「……私もわかんない」
二人の頭を疑問が埋めつくし、理解が追い付かない。
那音が状況を整理し、
「俺の希望的観測で申し訳ないんだけど」と前置きをして語り始める。
「最近タバコ始めたんだよな? もしかして、余梁の喉の炎症を心配して、緑茶のカテキンを蒸気として部屋に充満させようとしたんじゃないか?」
余梁は頭の中の一番冷えている場所を探し、思考を深める。
「——そうだったらいいね。……あっ」
何かを思い出して
「そういえばお父さんがタバコ咥えてるとこ、見たことないかも……」
希望的観測の説得力が増し、体温が上がる。呼吸が激しくなる。心拍が加速する。
そして「だったらあれは……」と呟き、部屋の中をさらに探し始める。
求めた物はすぐに見つかった。
ちょうど目線の高さの棚に、難しい名前の漢方薬、フェルビナクが含まれた塗り薬、そしてその横にA4サイズのノートが一冊。
これらがまとめて置かれていた。
心臓が強く胸を叩いてくる。
勝手に見てはいけないと思いながらも、ノートの中を見ないわけにはいかなかった。
表紙をめくると、一ページ目の一番上に書かれた文字が、目に飛び込んできた。
『喉のケアについて』
その先の何ページにも渡ってズラリと文字が敷き詰められている。
ところどころ赤い文字で、マルやバツも混じえて。
気付いたらノートに滴も混じる。
余梁の目から溢れ、勢いを増すばかり。
「……わたし……。わたし……お父さん。……ごめんなさい」
那音はうしろから、ソッと頭を撫でた。
ノートが置いてあった場所に目を向けると、まだ何かが置いてある。
近づき、手に取る。それは、結構な厚みを持った茶封筒。マジックペンで『余梁の大学費用』と書かれていた。
「……余梁。これ」と茶封筒を差し出すと、弱々しく震える手で掴み、また濡らした。
再び頭に手を置き、背中に張り付くように寄り添う。
余梁はびっしり文字が書かれたノートを嗚咽を漏らしながらめくっていく。
七割程をめくったところで空白になり、手が止まる。
緑茶のタバコ、漢方薬、塗り薬、ノート。茶封筒。
父の真意を汲み取るには充分過ぎる材料だった。
余梁は全身の力を失くし、その場に溶ける。
「……お父さん。疑って……。ごめん。なさい」
項垂れるように、身体を投げ出し、手の平で顔を覆う。
「……お父さん……。うぅううぅ。……よかった。よかった!」
手の隙間から見えた、口角は上がって見えた。
那音がふと振り返り、部屋の入り口の襖に目を向けると、立派な掛け軸が飾ってあった。
そこには立派な見た目とは裏腹にたった四文字だけの漢字が書かれている。
難しい漢字が使われていて、読めない。
でもこの四字熟語は……明らかに……
那音は手に汗を握った。
すぐにスマートフォンで読み方と意味を調べた。
そして「余梁、あれ見て」と呼び掛け、掛け軸に視線を誘導させる。
『余音繞梁』
余梁は目が点になる。しかし、一瞬で理解した。
——これは明らかに余梁の名前の由来になった四字熟語。
那音は読み方と意味、そしてこの言葉の故事——成り立ちのストーリーを説明した。
美しい歌声の響きが、梁や天井をめぐっていつまでも消えないこと。
歌が終わった後でも部屋の中に余韻が残り、三日間は消えないと言われるほど感動的であること。
説明しながら那音の声は震えた。鼻もすすっている。
「俺さ……余梁のお父さんは、不器用過ぎるだけで、余梁の事めちゃくちゃ好きだと思う」
「……うん。お父さんに……会いたい」
急いで荷物をまとめ、病院へ戻った。
受け付けで案内してもらい、意識を手放している恒一のもとへ、早歩きで向かう。
恒一の傍らには、まだ紺野が居て、二人の姿を見るや否や、ピンと立ち上がった。
そんなことに脇目も振らず、余梁はベッドへ一直線で向かい、恒一の手を取る。
「お父さん。お父さん。お父さん! よかった。よかった。不安だったんだよ。……まだ好きでいてくれてたんだね」
本人には届かない言葉を流した。
タイミングを見計らって「あのー、ちょっといいですか」と右手を軽くあげた紺野が発言を求める。
那音が「どうぞ」と許可を出すと、
「詳しい事情はわかりませんが……。白石さんが、娘さんの事を愛してるのは、うちの職場ではみんな知っていますよ」
自明の真理を発表するように言った。
二人はパッと顔を紺野に向け、目を白黒させる。
そんな様子を見て
「うーん。白石さんの着信音、聞いたことないんですか? ちょっと待ってくださいね」
と自身のスマートフォンを操作して電話をかけた。
「マナーモードじゃないといいけど……」
そして数秒間、沈黙で支配された部屋に
『余梁も、パパみたいな、歌手に、なりたい!』
『余梁も、パパみたいな、歌手に、なりたい!』
『余梁も、パパみたいな、歌手に、なりたい!』
幼い声が着信音として流れた。
「これ……わかった……。初めてお父さんのライブ見たときの……」
余梁は父の手を握る力を強くして、顔をぐちゃぐちゃにしている。
——余梁に消えない熱が灯った時の録音。
あの時に消えない熱が灯ったのは余梁だけではなく、恒一もだったのだ。
「白石さん、……よくあなたのこと言ってました」
紺野は込み上げてくるものを必死に堪えながら告げる。
——うちの娘は最高の歌手になりますよ。
——だけど、娘がどんなに頑張ってもどうしようもない時のために大学は出て欲しい。
言い終わると、紺野は背を向けて肩を震わせた。
「お父さん。……大好き。……死なないで」
両手で恒一の手を握り締めて祈る。
那音は横に駆け寄り、恒一に向かって
「失礼します」と一礼してから、ソッと余梁から恒一の手を奪った。
そして困惑の目を向ける余梁の頭に持っていき、恒一と那音の二人で撫でるように、包み込んだ。
「お父さんも俺も。余梁のこと、大好きだからな。一生愛するからな」
ぐちゃぐちゃの泣き顔で、けれども幸せな顔。
そんな顔から決意が発せられる。
「——私、人工声帯の手術。受ける」
その響きは幸せを乗せ、病室を駆け巡る。
そして壁や天井に余韻を残すように張り付いた。
『余音繞梁』
『余音繞梁』って良い言葉ですよね。
これを娘の名前の由来にするところに恒一の歌手としてのセンスと、親としての愛を感じます。
余梁自身もきっと、愛を感じ取ってくれたはず。
第一話からずっと
『余韻』『繞(めぐる、まとう)』『梁(支え、芯)』の要素をシンボリズムとして散りばめて来ました。
第三章、完です。
私はこの物語が大好きだ!
ここまで読んで頂き、本当に本当にありがとうございます!
第四章で完結予定です。二人の物語、ぜひ見届けてください!
第一話から練っていたもの、いろいろ回収できました。
しかしここでクライマックスじゃないということは……
最終章、期待しててください!
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