第28話 感染し合い、溺れる
玄関のドアを開けると、倒れ込むように余梁は音を立てて崩れた。
「余梁っ!」
「ぅ、うう……ズっズっ……う、うぅぅ……ズっ……」
啜り泣きの傍らで、那音は背中を擦る。
かける言葉が見つからない。この世に存在しない。
「……余梁。……余梁」弱々しい声で名前を呼ぶことしかできない。
頭を撫でるが、ピクリとも反応がない。
肩をトントンと叩くが、頭が僅かに左右に振れて拒否を示される。
手を握ろうとするが、手は顔の下に逃げて行った。
自分の無力さに唇を噛み、那音も床と同化するように大の字で仰向けになる。
「落ち着くまで、俺ここにいるからな」
やはり反応はなかった。
——そういえば今日は学校か。まぁいっか。
学校など今の那音にとっては、取るに足らない小事でしかない。
考えても答えの出ない膠着状態の末、睡魔に襲われて意識を手放した。
だが、すぐに意識を取り戻す変化が訪れる。
右腕に重みと、擦れる痛みを感じた。
顔を倒して目を向けると、余梁が乗っていたのだ。
否、乗っているだけではなく、動いている。
まるで匍匐前進するように這っている。
那音は身体を起こそうとしたが、すぐに諦めた。
気力が残っていない。ただ目だけで呆然と余梁を追った。
余梁の家は玄関を開けると、すぐにダイニングキッチンになっている。
這う余梁は、テーブルの下を器用にくぐり抜け、キッチンの流し台の下にたどり着いた。
そして収納棚を開けて、おもむろに何かを取り出す。
余梁は右手に包丁を掴んだ。
「待てっ! 余梁っ!」
勢いよく立ち上がり、駆け寄る。しかし机に足をぶつけて邪魔をされる。
余梁は正座の姿勢で、背筋を伸ばし、覚悟を決めたように目を閉じている。
肩を上下させながら呼吸を繰り返し、右手を自分の喉にゆっくりと引き寄せた。
刃の先端が喉に触れ、赤色が一滴流れ、その通り道をなぞるように肌を染めた。
「余梁っ!!!!」机を避けながら、包丁を動かさせないように慎重に近づく。
幸いにも余梁はそれ以上の力を込められず、固まっていた。
那音は傍に着き、包丁を持っている右手首を左手で強く握り、喉から離す。
予想に反して全く抵抗はなかった。
だが包丁を持つ手は力強い。無理に奪うと却って危ない。
包丁を奪うことを諦め、余梁の致命傷になり得る箇所を、自分の身体で覆う。
つまり、対面で右腕を回して抱き締めるように庇った。
「——余梁……死なないでくれ……」
その言葉に反応せず、抑揚なく話し始めた。
「——私。死ぬ覚悟も。できない」
「死ぬ覚悟なんて……しなくていい」
「じゃあどうすればいいの? だって死ぬ覚悟以上に……声とお父さんを失った後で、生きていく覚悟ができないんだよ……。もう頭の中ぐちゃぐちゃだよ。だからせめて、お父さんを好きなままでいたい。お父さんを疑うしかない状況が嫌だ。目を逸らしたいの。……ガンで……お父さんの悪意で、じゃなくて、この包丁で死ねば。そうすれば私は。お父さんを好きなままで。いられると思うの。——だから死ぬ覚悟が欲しい」
淡々と独白して、さらに
「どこに向かっても向かい風。逃げ道なんかないんだから」と諦念を宿した言葉で締めた。
それに対し、那音は一切の迷いもなくぶつかる。
「俺が一緒に向かい風を受ける」
あの日。オーディションでぼろぼろになった那音に、余梁が道を示してくれたから。
あの日。余梁に向かう事こそが那音にとっての追い風になったから。
「意味わかんない」
想いは届かない。だが那音も退かない。
「一緒に死んでもいい」
「はっ!? 簡単に言わないで。どうせ綺麗事でしょ」
「違う」
「じゃあ五秒後に、この包丁であなたの背中を刺します。覚悟が無いなら私を離してそのままどっか行って。……それでさようなら」
那音は無言で余梁の手首から手を離して、包丁を持つ手を解放した。
「——五」
「——四」
「——三」
「——二」
「——壱」
那音は…………両腕で抱き締める力を強くした。
ドンっ
衝撃と共に鈍い音が鳴った。
余梁は包丁の柄を那音の背中にぶつけた。
「……どう、して? どうし……て?」
余梁の声は震え、目と鼻からは蛇口を捻ったように水が溢れ始める。
那音は腕の力をゆるめ、顔が見える距離を取り、真っ直ぐ余梁の目を見つめた。
直前の問いには答えない。行動で示す。
離れた距離をすぐに埋めて。
唇で合流した。——優しく口づけをした。
一緒に向かい風に立ち向かう決意の合流。
余梁は一瞬戸惑って固まるが、すぐに那音の胸を叩くように押して唇を離した。
「ちょ、ちょっと! 何考えてるの!? 粘膜の接触ダメだって言われたじゃん……。感染ったらどうするの……!? 私に……罪を背負わせないでよ!!」
必死の形相で吐き出す。これ以上頭の中をぐちゃぐちゃにしないでくれと。
「だから、一緒に死んでもいいって言ってるだろ」
「そんなこと……言われたって……」
「もし感染ったら一緒に死のう。それか、余梁が生きる道を選んでくれるなら、一緒に手話で生きていこうぜ」
淀み無く語られる那音の覚悟に、余梁は言葉を失う。
「余梁が何かを失ったら俺が埋める。一緒に声を失くして、他の楽しい事を探そう。それと、親父さんからの愛以上に俺が愛す。一生。必ず」
余梁は自分の涙で溺れそうになる。
涙も嗚咽も、何一つ堪えようとしない。溢れる感情も。
ゆっくりと重力に任せた速さで瞼を降ろし、唇を尖らせた。
涙で溺れる余梁を掬い上げるため、唇で応える。
先とは違う、どちらも離れようとしない、長い口づけ。
お互いがお互いに愛を感染す。
それは混ざり合い、溶け合い。やがて溢れる。そして愛に溺れた。
息が苦しくなった余梁からソッと離れる。
「……どうして? どうして……そんなに?」
純粋な疑問に対して「だって」と前置きをして
「——ハッピーエンドにするんだろ? 俺たちの人生」
ニヤリと歯を見せて言うと、
「……うんっ!」
ぐちゃぐちゃの笑顔で応えた。
『感染し合い、溺れる』




