第三話 憧れの果て
アパートの外階段を上りながら、自転車置き場に目を向け、まだ父親が夜勤から帰ってきていないのを確認した。
「ふぅ……よかったわ。」
余梁は、静かに歩を進め玄関を開ける。起きていた気配を残さないために、慎重に。
鍵を締め、郵便受けを開けると
白石恒一宛ての督促状が二通届いていた。取り出したら、起きていたことがバレると気付き、そのままにして郵便受けを閉めた。
急いで再び布団に入ると、ちょうど階段を登る音がした。この二階建てアパートの二階には他に住んでいないので当然、恒一だろう。
余梁は息を潜め、たぬき寝入りを始める。
まるで余梁の動きを再現のするように、音を立てないように中に入ってくる。
(あれ……?もしかしてお父さんじゃ……ない?)
郵便受けを開け、中身を確認する音が聞こえてきた。続けて小さくため息の気配が届いた。
(あ、やっぱりお父さんだ。起こさないように静かにしてくれてたのかな。)
音を消した余梁の寝室に、音をできるだけ消した恒一が入ってきて、枕元のペットボトルを取る気配を感じた。
(しまった。那音くんに買ってもらったカフェオレ出しっぱだった。)
ほんの薄目を開けてみる。恒一はペットボトルの中に粉の様なものを入れていた。
そしてペットボトルを再び余梁の枕元に戻し、今度はさらに慎重に、余梁の喉に触れる、何かを塗りこんでいる。
(え……なに……なんか、ヒリヒリする。)
音を立てずに恒一は出ていった。
(え、お父さん……なにしたの?……え、これって……いや、そんなわけないよね。疑いたくないよ。)
父に対して黒い疑念が一瞬浮かんだが、すぐに改めて、その証としてカフェオレを口にした。
若干薬の匂いがするが、気付かないふりを、嗅覚に命じた。
喉はヒリヒリするが、気持ちいいと思えなくもないだろうと、触覚を言い聞かせる。
(大丈夫、大丈夫、起きたらちゃんと話そう。お父さんの歌のカッコ良さを。お父さんの歌が大好きな親子が居ることを。…………あー……なんで応援してくれなくなっちゃったのかな。)
サラサラとした液体が頬を伝い、舌で受け止める。
味覚はごまかせなかった。
* * * * * * * * * * * * *
家の門を開け、勢いよく庭に入り大股で玄関に向かう。
「正人様、行ってらっしゃいませ。次はいつお戻りになりますか?」
「今日は診察だけだ。珍しく夜には帰れる。家の事はいつも通り頼む。じゃあ、行ってくる。」
ちょうど家政婦が父を送り出すタイミングだった。
「親父……」
「おぉ那音か、この前のオーディションもダメだったみたいだな。」
すれ違いが多いので、二週間ぶりに父に会い、初めて先のオーディションに言及される。
「親父、まだ受けれるオーディション二回あるから。絶対に勝ち取るから。」
「もうオーディションも練習もいいんじゃないか?あの時の約束通り、お前の喉は任せておけ。才能は後付けできるんだ。」
正人は歩みを止めず歩いたまましゃべるので、玄関の前まで来ていた那音は、門に引き返すように付いていく形で言葉を届ける。
「その……喉のことで話したいんだけど、時間を作って頂けませんか?」
確率を少しでも上げようと、語尾だけ敬語で頼み込んでみる。
「今日の夜は家にいる。じゃあ、行ってくる。」
正人は歩くスピードを上げ、門の外に消えた。
那音は肩で息をしながら、その場にしゃがみこむ。
心臓の動悸が内臓全体に広がったような、みぞおちの辺りが空っぽになったような感覚に苛まれる。
「――やっと……交渉ができる。喉を守りたい……。」
喉にそっと手を触れ、約束をしてしまった、あの日の事を思い出す。
物事の良し悪しを知る前に、憧れだけを抱いたあの日。
◇ ◇ ◇
「おとーさん、これ見て!」
那音が漫画の一コマをさし、正人に話しかける。
「なんだそのシーン……歌が……下手な人?」
「歌がスゲー人!俺もこれになりてぇ!」
「那音!歌手になりたいのか!?」
「カシュじゃなくて、歌がスゲー人になる!」
正人は大声で、興奮を隠そうともしない。
「お前からそう言ってくれるのを待ってたぞ!俺は歌手になれなかったが、お前を歌手にすることはできる。」
「おとーさん、スゲー!」
那音を抱き上げ、理解されないのを知りながら耳元に囁くように伝える。
「二人で夢を叶えよう。お前が18歳になるまでに実現させてやるからな。適応率から考えてもそれぐらいが理想だろう。」
◇ ◇ ◇
『憧れの果て』




