第13話 棲みついた熱が燻る
先にリビングを出た正人の背中を見送りながら、那音は深い呼吸で全身の気を入れ換える。
「余梁ありがとう。おかげでちゃんと言えた」
「歯見せるの早いよ」
油断した様子の那音に対して、余梁は引き締める。
「ねぇ、那音くん……採点入れないで歌いなよ」
「えっ」
「だって90点超えたこと無いじゃん」
「そうだけど……。点数無しでどうやって認めさせるの?」
「私のお父さんの曲。那音くんのお父さんも好きなんでしょ。それは絶対に届く、私が保証する。でも点数が出るとどうしても悪く見えちゃうと思うの」
点数で納得させる自信はなかったので、那音の返事はもちろん
「そうだな、そうするわ」
二人は目を合わせ、ただ頷き合う。
敷かれたレールに、流されるしかなかった人生に、強引に梁が打ち込まれた。
自分の中の譲れない物を支える梁。決して折れない梁。
だから大丈夫。抗ってやる。
成功が約束されたレールから逃れるために、自分の足で歩きだす。
それ以上の言葉を交わさないまま、那音が先導してカラオケルームへ向かう。
地下に降り、異変に那音が口を開く。
「ん……? なんか聞こえる……歌?」
「これ……って……お、お父さんの曲!?」
「うわ、親父が先に歌ってやがる……」
「えっ? どうして?」
「多分……採点してて、『この点数超えろ』とか言いそう……」
那音は、「しまった」と左手を額に当て、悔しげな表情を浮かべる。
「……それで、那音くんのお父さんって上手いの?」
「ふぅ……」と嘆息で応じて、
「やるしかない」
余梁と自分に言い聞かせた。
歌い終わったタイミングで中に入る。
ドアが開ききる前に、中から言葉が投げられた。
「この点数超えてみろ」
「ほらね」と余梁の方を見ると、苦笑いしていた。
モニターにはジャカジャカと、いろんな項目の採点が表示されていく。
正人はその傍らで、腕を組み那音をジッと見ている。
モニターを見ろ、と言ってやりたいが、それだけ自信があるのだろう。
『92.5点』
那音は固い唾を飲み込み、拳に汗を滲ませ、マイクを受けとろうと手を伸ばす。
正人はモニターに一瞥をくれてから、再び那音に視線を戻し、
「……俺はどれだけ練習しても歌手にはなれなかった。この点数超えたら認めてやる」
どこか悔悟を宿した目で、那音の事を穴が空くほど見る。
その目は、まさに口ほどに物を言う。
父が意地悪を言っている訳ではないことはわかっている。
一般的には曲がったやり方かもしれないが、父にとっては真っ直ぐに夢を追いかけ続けてきた。
無理強いではない。それは那音もよく覚えている。
7歳の時、歌への憧れを語った時の、期待に溢れたあの目が、那音に焼き付いている。
父がレールを敷き、那音が逸れずに進む。幼い頃から何度も確かめあった約束。
『18歳になる頃には完成させるからな!』
変わったのは那音の方。次第に違和感を覚え始めた。
――俺が憧れたのは、自分の想いを誰かに届ける歌。
――誰かを奮い立たせる歌。
――形だけ上手い歌を取って付けて、それは俺の歌なのか……?
父の全力の期待を裏切るのは、心が痛む。
だから歌手にはなる。必死に努力して自分の声で、掴みとって認めさせる。
決意を胸に宿し、幼い頃の曖昧な憧れが、いつしか明確な目標になった。
『代替手術は不安定だから、若いうちしかできない。18歳を過ぎると適合率がどんどん下がってしまう。なんとか間に合わせるからな!』
熱を宿した目でタイムリミットが告げられた。
――18歳までに結果を出して、説得しないといけない。それも聞く耳を、持たない可能性が高いが……
遮二無二追いかけるが、天才たちに邪魔をされる。
自信を失くし、誘惑の蜜を啜りたくなった時。
桜を置き去る笑顔に、胸を刺激された。
身体に梁を打ち込まれた。
『那音くんの歌はみんなに届くよ』
そして届けたい人が明確になった、歌。
全身の熱い物を喉に集め、マイクを受け取る。
先の正人と同じ曲を転送する。
「お前もこの曲歌うのか?」
「これが一番、親父に伝わるだろ?」
父を見ず、余梁を視界に入れて頷き合う。
そして、11年分の想いを伝えるための息を吸い込み。
最初の一音は――やはり外れた。
慌てて調整しようと、音程を上下させるが安定しない。
最初の2フレーズも歌えば、90点を超えるかどうかは大体の予想がつく。
正人をチラと見ると、真っ直ぐに那音を見つめ、黙って聞いている。
考えていることは、読み取れない。
喉の熱さが、全身に焦りとして伝わり始めた時。
フワっと、自分と同じシャンプーの匂いが訪れた。
耳元に気配を感じる。視界には入らないが、当然その正体は分かる。
否、視界には……どこから出してきたのか、朝の御守り――バナナ一房を、見せびらかすように持つ手が映る。
そして、耳元の気配は、那音にだけ聞こえる声で
「んーんーんんーんーんんー」
と音程をガイドしてくれる。
全身に広がった熱は、焦りとは別の名前に変わり、しかしそれ以上の熱を喉に取り戻し、音程は落ち着いた。
ルール違反と咎められても、おかしくない光景なので、正人を窺うと、目から雫が伝っているように見えた。
那音は、咎められる憂いを失くし、歌い続ける。
毎日繰り返し練習した曲。当然モニターを見なくても歌える。
最後のサビは、正人の方をジッと見つめ歌う。
『この余韻は心に棲みつく贈り物』
文字通り、このフレーズは、正人の心に棲みついているのだろう。
歌った本人――余梁の父が歌わなくなった後も、何年も正人の心に棲みついている。
それは熱狂的に、正人を駆り立てる程の贈り物。
那音は視線をそのまま、マイクのスイッチをオフにする。
正人もジッと那音を見たまま、下唇を噛んでいる。伝う雫は拭わない。
三人ともが深い息を繰り返し、モニターの機械音だけが響く。
ジャカジャカと採点が行われ、得点が表示されたのを背中で感じる。
まずモニターを見た、正人の表情を窺う。
鼻で大きく息を吸い、その息を吐き出さないまま止めて、苦い顔をしている。
意を決して、那音も振り向き得点を見る。
『90.3点』
那音にとっての史上最高得点。――ただそれだけ。
届かなかった。
モニターの表示はそのままに、二人して正人の言葉を待つ。
正人は、止めていた息をゆっくり長く吐き、
「那音……やっぱり俺なんかより下手なお前は厳しい……よ」
表情を変えず重い口を開く。
「ちょっと待ってください。私のお父さんもカラオケでこの曲歌うと90点超えませんでした。でもライブでみんなの心に届いてた」
「……は……?君のお父さんって?」
理解が追い付かず、目を泳がせながら正人が聞く。
「白石恒一。あなたが憧れた歌手です」
泳がせていた目が点になり言葉を返せない。
余梁が続けて言葉をぶつける。
「あなたが憧れた父は、上手いだけじゃなくて、心に刺さる歌だったでしょう?私は那音くんの歌に、同じ物を感じます。那音くんの歌は、みんなに届きます」
余梁は、次の言葉を促すように、那音に視線で合図を送る。
「親父……俺の……自分の喉でやらせてくれ。絶対に諦めない。歌手になるから」
脚と腕をピンと揃え、礼をしながら伝える。
正人の下唇を噛む力が強くなる。
そして無言のまま立ち上がり、部屋を出ようとする。
那音はその背中に手を伸ばし、肩に手を掛け呼び止める。
「頼む、認めてください。チャンスをください」
そして重い口が開かれる。
「俺も……お前の……歌……届いた。ふぅ…………3月……18歳になるまでに……結果出せ」
背中を向けたままで、涙を堪ながら言葉を紡ぎ、肩の手を払って部屋を後にする。
部屋に残った二人は視線を合わせ、同時に深い息をつく。
肩の当たる距離でソファーに腰をおろし、どちらからともなく拳を合わせた。
「もう歯見せていい?」
「別に私、歯見たくないよ」
と言った余梁の方から先に弛み、歯を見せた。
『棲みついた熱が燻る』




