ありがとう
◆◇◆
「シュン! また、こんな点数とって……。ちょっとは柳を見習いなさい!」
家に帰宅した直後、そんな声が耳に届いた。
「あんたは柳ほど勉強できないんだから、部活なんかやってる場合じゃないでしょ!」
慌てて靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
ドアを開けながら、叫んだ。
「ストップ! やめて!」
そこにいた二人、母親と、一つ下の弟のシュンがこちらを向いた。
母親の手には小テストと思しき紙切れが握られていた。
「柳……お帰りなさい」
「ただいま……どうしたの?」
なんとなく事情を察しながらも、尋ねる。
母親は「聞いて聞いて」と言うように、声を張り上げて説明する。
「シュンが小テストで悪い点数を取ってきたのよ! ほら、見て」
ばっと突きつけられた小テストは、四十点満点中、二十五点だった。一応、半分以上ではあるが、手放しで褒められる点数ではない。しかし、言うほど悪い点数でもない。
「去年のことだから、ようく覚えているわ! 柳はこのくらいのテスト、満点を取ってきたわよ。部活もあるだろうに、すごいなって感心したものよ? なのに、シュンは……」
母親は、ぶつぶつとシュンの悪口を言い続ける。
隣でシュンは縮こまっていた。
月野家ではもうお馴染みの風景だ。
「――柳はどう思う?」
途中から聞いていなかったが、なにを聞かれたのかは容易に想像できた。
細くため息をついてから答える。
「どう思うもなにも、わたしはこのくらい構わないって思うよ。シュンは勉強していないわけじゃない。ただ、ちょっと要領が悪いだけ。努力はしてるよ。きっといつか、成績は伸びるし、わたしより上をいくかもしれない」
「そう思う? そうなら文句ないけどね。でも、柳と違って、部活でも勉強でも良い成績を残せていないのよこの子は。シュンが良い結果を出すためには、どっちかを――」
「お母さん。それ以上は、子どもに言うべき言葉じゃないよ」
わたしは、でき得る限り、目に力をこめて、母親を睨みつける。
「シュンは勉強でも部活でも一生懸命努力してる。私と同じ、陸上部なんだから、見てれば分かる。それに、シュンは部活が忙しいからとか、勉強が忙しいからとか、そういう言い訳をしたことは一度もないはずだよ。どっちもやりたいなら、やればいいと思う。強制的にやめさせて、どちらかに専念させたとしても、後悔が残る。それで成績が伸びるとは到底思えないよ。違うかな?」
「……」
睨み合う。
母の気持ちが分からないわけじゃない。子どもの将来を心配してのことだろう。勉学か、部活か、どっちかで良い成績を残せていれば、後々、それはプラス材料になる。三年生で、受験も近くなってきているから、余計に分かる。
しかも、わたしが要領よく、上手くやれてしまっているために、シュンはいつも比較されて、心配される。わたしよりもできないから、母は心配になるのだ。
そんな気持ちを否定するつもりはない。
高校三年にもなれば、そんな親の機微にもある程度は気遣えるようになる。
でも、だからこそ、守る。
親のそんな気持ちが、弟のしたいことを妨害しているようにしか見えないから。
大して頑張っていないのに、上手くできてしまうせいで、弟に迷惑をかけているから。
お姉ちゃんとして、シュンにしてあげられることはこのくらいしか、ないから。
「……」
随分長い間、睨み合ったが、
「……いいわ。柳を信じておく」
折れたのは、母親だった。
「でも、シュン、どっちも頑張りたいなら、もっとちゃんと頑張りなさい。いいわね?」
「……はい」
シュンが小さく頷いたことを確認して、母親はキッチンへと歩いていく。
「ごめんね」
「……なんで姉ちゃんが謝るんだよ」
悔しそうな表情のシュンに、もう一度だけ、ごめんと言って、私は自室へと向かう。
母親は小学校の教師だ。
昔からしつけに厳しく、なにごとにも手を抜かない性格だった。単身赴任で家を留守にすることが多い父親の代わりに、女手一つでわたしたち兄弟を育ててくれた。
でも、わたしはそれをキツイと感じたことは一度だってなかったし、今だってない。わたし自身は普通に生活しているだけで、母の期待に添える結果が残せている。
でも、弟たちは……。
「ただいま」
「あ、お姉ちゃん、おかえり」
自室へ入ると、三つ下の妹、聖に出迎えられる。部屋は別々に分かれているのだけど、よく勉強を教えて欲しいと入っていることがあるのだ。
「またなにか教えて欲しいとこでもあるの?」
「あ、うん。そうなの」
聖も、今年は受験だ。
わたしは推薦を受けられることがほぼ確定しているが、聖はそんなことはない。他者に認められるほどの成績を、残せていないのだ。
「どこ?」
鞄を置いて、既に椅子に座って待っている聖の横に並ぶ。
「えっとね」
聖の話を聞きながら、どうしても考えてしまう。
弟たちに頼られるのは、悪い気はしない。むしろ、お姉ちゃんとして、頑張りたいと思っている。
だけど、最近は庇うことが増えてきている気がする。
「お姉ちゃん? どうかした?」
「あ、ううん。なんでもない」
無意識に疲れた表情でもしてしまっていただろうか。
慌てて笑顔を作り、教える。
「その問題の答えは、まずこの公式を使って――」
口を動かしながら、心に埃が積もるのを感じた。
今の状況を、少しだけ重い、と感じなくもない。
クラスでは頼られる存在として見られ、部活でも部長として皆をまとめている。そして、そんな一日を過ごして、やっとのことで帰ってくると、また、お姉ちゃんとして前に立たなくてはならない。
強制されたことじゃない。
自分には関係ないと思っても良いのかもしれない。
「ありがと! やっぱりお姉ちゃんって、凄いね~」
けれど、どうしても、こうして笑顔を向けられ、頼られると断れないのだ。
ありがとうと言ってもらえるのが、心地良いのだ。
自分がやらなくては、と思ってしまう。
ありがとうと連呼する妹見送って、
「やれやれ……」
やっと、気が抜ける。