第9話 鏡の池
【前回までのあらすじ】
巫女セレスが亡くなり、神託は止まった。エレノアは、父の絵の手がかりをさがして、夜の衣装部屋にしのびこんだ。
九年前の帳面には、名前のない「団長の外套」の貸し出し。そこへ、左ききの監察官クロードが現れた。
「疑え。でも、ひとりで来るな」と言った彼に、エレノアは、夜の鏡の池へ呼ばれた。
今回は、鏡の池での、エレノアとクロードのお話です。
日が沈むと、鏡の池には、月が映った。
王都の北のはずれ。
池のふちに、古い東屋が、一つだけ。
岸の柳の下に、小さな舟が、一そう、つないであった。
そのそばに、黒い上着の人が立っていた。
「来たな」
「……来ました」
わたしは、肩かけの下で、父の絵を、にぎりしめていた。
それから、ホーン先生にもらった、小さなナイフも。
監察官様は、それに、気づいていたと思う。
でも、何も言わなかった。
◇
舟の上で、監察官様が、かいをこいだ。
わたしは、へさきに座って、父の絵を、ひざに広げた。
かいの音だけが、ちゃぷ、ちゃぷと、ひびいていた。
「九年前、俺の父が、いなくなった」
監察官様が、ぽつりと言った。
「ルイ・ベルナール。王の法院の判事だった。予断の制度に、最後まで反対していた。まだ起きていない罪で、人を眠らせてはいけない、と」
「……白い、ひげの」
「そうだ」
監察官様は、かいを止めずに、続けた。
「母が死んでから、父は、毎朝、この池を歩いていた。母と、はじめて会ったのが、あの東屋だったそうだ。俺が小さいころ、二人は、よく、台所で踊っていた。父は、下手くそだった」
「父がいなくなった朝、俺は、十五だった。南へ旅に出る、という手紙が、一通だけ届いた。父の字に、よく似ていた。でも、父は、手紙の終わりに、いつも、母の名前を書いていた。あの手紙には、なかった」
わたしは、絵の中の、白いひげの人を見た。
父は、この絵を描きながら、どんな気持ちだったのだろう。
そして、絵のうらに、『場所が、ちがう』と書いたとき。
「誰も、信じてくれなかった。だから、監察官になった。この制度を、内側から見るために」
それから、監察官様は、わたしを見た。
「君の机の上で、この絵を見たとき、やっと、見つけたと思った」
「わたしの父も、五年前に、死にました」
わたしは、絵のうらの字を、指でなぞった。
「最初の描き手でした。北街道で、盗賊に殺されたことになっています。城壁の外だったから、神託には出ませんでした。いつも腰に下げていた短剣も、そのとき、消えて」
「夢の中の、短剣か」
「はい」
監察官様は、しばらく、黙ってかいをこいだ。
「君の親父さんは、この字を書いたあと、誰かに、たずねたんじゃないか。場所がちがうのは、なぜか、と」
わたしは、答えられなかった。
父なら、きっと、そうした。
わたしが、そうしたように。
いちばん、信じている人に。
◇
「どっちだ」
「東屋の屋根の角から、時計塔の灯りに、まっすぐ。……もう少し、左です」
絵の中の景色と、目の前の景色を、重ねていく。
小さいころ、父の膝の上でやった、すみっこさがしと、同じだった。
東屋の屋根の角。時計塔の灯り。岸の柳。
すみっこを、一つずつ、合わせていく。
「ここです」
舟が、しずかに、止まった。
鏡の池は、名前のとおり、底まで、すきとおっていた。
灯りを水に近づけると、緑の藻のあいだに、白いものが、見えた。
監察官様は、上着を脱いで、舟のふちに手をかけた。
「待ってください、春の水は――」
言いおわる前に、あの人は、水の中に、すべりこんでいた。
◇
岸に上げられたのは、白い骨だった。
九年、水の底にいた人。
足に、苔だらけの縄と、大きな石。
ぼろぼろになった、黒い法服のすそ。
監察官様は、ずぶぬれのまま、そのそばに、ひざをついた。
骨になった右手が、胸の前で、かたく、にぎりしめられていた。
監察官様は、指を一本ずつ、そっと、ほどいた。
手のひらの中に、小さな、銀のボタンが、残っていた。
灯りの下で、紋が、光った。
羽をひろげた、鶴。
騎士団の、袖ボタンだった。
「……父さん」
監察官様の声は、ほとんど、聞こえなかった。
「九年も、こうやって、にぎってたのか」
それから、あの人は、ボタンを、手のひらの中で、強くにぎりしめた。
「……見つけたら、俺は」
その先は、言わなかった。
灰色の目が、月の下で、知らない人の目みたいに、つめたく光った。
わたしは、肩かけを、あの人の肩に、かけた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
だから、何も言わずに、あの人の手に、自分の手を、重ねた。
氷みたいに、冷たい手だった。
しばらくして、その手が、わたしの手を、ぎゅっとにぎりかえした。
◇
「このボタンは、古い形だ」
しばらくして、監察官様が言った。
「鶴の羽の数が、今のより、一枚多い。騎士団のボタンは、八年前に、作りなおしている。これは、九年前の、白い外套のボタンだ」
九年前。
白い外套。
帳面の、名前のない貸し出し。団長の外套。
「九年前の神託で、男を捕まえたのは、団長でしたね」
「ああ。父の絵とは、ちがう場所でな」
あの人は、それ以上、言わなかった。
わたしも、言わなかった。
「このことは、まだ、誰にも言うな。予見院の、誰にもだ」
「おじさまにも、ですか」
「院長は、団長と、十年、いっしょにやってきた人だ。話せば、団長の耳に入る」
それは、そうだと思った。
おじさまは、やさしい人だから。団長のことも、きっと、かばってしまう。
「父の骨は、明日、ホーン殿の温室に運ぶ。陛下に、手紙も書く。祝典の前に、届くように」
わたしは、ナイフを、肩かけの下から出して、岸の草の上に置いた。
あの人は、それを見て、少しだけ、目をふせた。
「……いいのか」
「この池で、あなたに刺されるなら、もう、とっくに刺されています」
あの人は、はじめて、少しだけ、笑った。
「くしゃみが出そうだ」
「出してください。誰も、見ていませんから」
わたしたちは、九年ぶりに水から上がった人のそばで、しばらく、月を見ていた。
誰も、何も言わなかった。
それでも、さっきまでより、ずっと、こわくなかった。
九年、池の底で、判事は、白い外套のボタンをにぎりしめていました。
エレノアは、ナイフを置きました。
次回、眠りの塔。
☆何個でもいいので、つけてください!




