第8話 白い外套の部屋
【前回までのあらすじ】
巫女セレスが亡くなり、この国の神託は止まった。
エレノアは、セレスが話してくれた夢の「前」と「うしろ」を、五枚の絵に描いた。刺したあとの自分の手首をつかむ、インクのしみのある左手。そして、短剣が宙で止まる、もう一つの未来。
ホーン先生は「まだ、決めつけるんじゃない」と言った。
今回は、九年前の絵の手がかりをさがして、夜の予見院にしのびこむお話です。
パン屋の屋根裏は、小麦粉と、バターのにおいがした。
ホーン先生の知りあいのおかみさんは、わたしの顔を見ても、何も聞かなかった。
ただ、焼きたてのパンを一つ、黙って、わたしの手にのせた。
窓の外の掲示板に、新しい布告が、はられていた。
『巫女さま、ご病気につき、神託は、しばらく休み。祝典は、予定どおり』
ご病気。
セレスは、もう、いないのに。
おじさまは、知っているはずだった。
保護の間にいても、奥の間のことは、団長から、知らせが行く。
それでも、ご病気、と書いた。
祝典を、止めないために。
国じゅうの人を、こわがらせないために。
きっと、そうだ。
おじさまなら、そうする。
わたしは、そう思うことにした。
わたしは、パンをかじりながら、父の絵を、もう一度、ひざに広げた。
九年前の、鏡の池。
白いひげの男の人を、うしろから押さえつけている者。
顔は、白い布。
でも、着ているのは、騎士団の、白い外套だった。
わたしが、おじさまを刺す理由は、わからない。
でも、父が『場所が、ちがう』と書いた理由なら、さがせるかもしれない。
◇
騎士団の白い外套は、全部、予見院の衣装部屋で、しまわれている。
洗濯も、つくろいも、そこでする。
衣装部屋には、帳面がある。
誰の外套を、いつ、出したか。いつ、しまったか。
十年前の、いちばん最初の一冊から、ずっと。
その夜、わたしは、洗濯場の裏の坂を、のぼった。
四日前に、逃げおりた坂。
あの日は、青い絹のドレスだった。今は、灰色の木綿の服だ。
洗濯場の、物干しのあいだを、しゃがんで進む。
衣装部屋の窓は、いつも、少しだけ、あいていた。
おばさんたちが、外套を乾かすために。
◇
衣装部屋の中は、まっくらだった。
白い外套が、何十着も、ずらりと、吊るされていた。
月あかりで、幽霊の列みたいに見えた。
わたしは、ろうそくに火をつけて、棚のいちばん下から、古い帳面を引っぱりだした。
九年前の、春。
指で、行を追う。
手がふるえて、マッチが、二本、折れた。
鏡の池の夜の、前の日。
『団長の外套、一着、貸し出し』
借りた人の名前を書く欄は、空いていた。
それから、二日後の行。
『団長の外套、返る。袖ボタン、一つ欠け。つけなおす』
団長の外套。
九年前、父の絵とはちがう場所で、男の人を捕まえた人。
「七日目の夜には、片がつく」と言った人。
わたしは、その行を、指で押さえたまま、しばらく、動けなかった。
◇
そのとき、うしろで、床がきしんだ。
わたしは、ろうそくを吹き消した。
まっくらな中で、誰かが、息をしていた。
「――エレノア」
低い声。
――ゆるしてくれ、エレノア。
わたしは、机の上の、裁ちばさみをつかんだ。
マッチの火が、ぽっと、ついた。
灰色の目。白い外套。
監察官様だった。
「……動かないでください」
わたしは、はさみの先を、あの人に向けた。
手が、ふるえていた。
監察官様は、マッチの火を、ろうそくに移した。
それから、両手を、ゆっくり、わたしに見えるように、上げた。
「左ききだ。指には、インクがついている。……神託の間で、君は、ずっと、俺の手を見ていた」
わたしは、何も言えなかった。
「だから、疑え。それでいい。でも、ひとりで、ここへ来るな」
「……どうして、ここに、わたしが来るとわかったんですか」
「わからなかった。俺は、俺の用で来た。そうしたら、ろうそくの灯りが見えた」
◇
監察官様は、わたしの開いた帳面を、のぞきこんだ。
それから、九年前の行を、左手の指で、なぞった。
「俺も、これを、さがしに来た」
「どうして」
「君の親父さんの絵だ。九年前の、鏡の池の。君の机の上で、見た。うらの字も、読んだ」
『場所が、ちがう』。
「あの絵の、白いひげの男は――」
そのとき、廊下に、灯りが近づいてきた。
「誰か、いるのか」
見回りの騎士の声だった。
◇
監察官様は、わたしの手首をつかんで、外套の列の奥へ、引っぱりこんだ。
白い外套が、何枚も、わたしたちの上に、かぶさった。
せまかった。
あの人の胸が、わたしの肩のすぐうしろにあった。
心臓の音が、聞こえた。
わたしのものか、あの人のものか、わからなかった。
外套の布から、古い石けんのにおいがした。
扉が、あいた。
「……副団長?」
監察官様は、外套の列から、一人だけ、すっと出ていった。
「俺だ。帳面を見に来た。もう、すんだ」
「こんな夜中に、ですか」
「夜中のほうが、静かでいい」
足音が、二つ、遠ざかっていった。
◇
わたしは、外套の列の中で、しばらく、動けなかった。
さっきまで、あの人の胸があった場所が、まだ、あたたかかった。
裁ちばさみは、いつのまにか、床に落ちていた。
窓の外で、小さく、口笛が聞こえた。
窓をのぞくと、洗濯場の物干しの下に、あの人が立っていた。
白い外套は、もう、脱いでいた。黒い上着だけだった。
黒い上着。
セレスの最後の夢の、走ってくる人。
そして、四枚目の絵の、わたしの手首をつかむ、黒い袖。
あの人は、声を出さずに、口の形だけで言った。
――あした。鏡の池。日が沈んだら。
それから、背を向けて、行ってしまった。
わたしは、窓わくをにぎりしめた。
行けば、わたしは、左ききで、インクのしみのある人と、夜の池で、二人きりになる。
それでも。
聞きたかった。
あの白いひげの男の人が、誰なのか。
九年前の帳面に残っていた、名前のない貸し出し。
「疑え」と言った人に、夜の池へ呼ばれます。
次回、鏡の池。
☆何個でもいいので、つけてください!




