第11話 ゆるしてくれ
【前回までのあらすじ】
池の底から見つかったのは、九年前の、騎士団の外套のボタンだった。
エレノアは、はじめて眠りの塔に入り、自分の絵で眠らされた四十二人の寝顔を見た。九年前に捕まった男には、ホーン先生の目覚まし薬が使われた。
騎士団長は「明日の夜は、俺が保護の間の前に立つ。院長には、指一本ふれさせん」と言った。
今回は、神託の夜の、前の日のお話です。
その日は、一日じゅう、屋根裏で、五枚の絵を見ていた。
扉の前に立つ、わたし。
内側から、ひらく扉。
おじさまの胸に、沈む短剣。
わたしの手首をつかむ、黒い袖の左手。
宙で止まった、短剣。
見れば見るほど、わからなかった。
わたしは、どうして、あの扉の前に立つのだろう。
どうして、父の短剣を、持っているのだろう。
その日の夕方、パン屋の屋根裏に、監察官様が来た。
おかみさんが、焼きたてのパンを二つ、黙って置いていった。
バターの、いいにおいがした。
監察官様は、パンには手をつけずに、小さな机に、手帳を広げた。
「明日の夜のことだ」
わたしは、うなずいた。
明日の夜、十時。
わたしが、おじさまを刺す時刻。
監察官様は、やっと、パンを一つ、手に取った。
ひと口かじって、それから、ぽつりと言った。
「俺は、話すのが、下手だ」
「知っています」
「……親父も、そうだった。だから、母と、台所で踊ってばかりいた。話すかわりに」
あの人は、パンのかけらを見つめた。
「全部終わったら、君にも、見せてやる。下手くそな踊りを」
わたしは、少しだけ、笑ってしまった。
神託の夕方から、はじめて、声を出して笑った気がした。
◇
「それで、たのみがある」
監察官様は、手帳の上で、指を組んだ。
「九年前、団長の外套を借りたのは、たぶん、院長だ」
わたしは、息をのんだ。
「団長は、外套のことを聞かれて、灯りを止めた。……あれは、貸した相手を、思い出した顔だった。団長が、帳面に名前も書かずに外套を貸す相手なんて、十年来の友だちの院長くらいだ」
「そんなはず、ありません。おじさまは――」
「わかっている。だから、聞きに行く」
あの人は、まっすぐに、わたしを見た。
「明日の夜、十時。二人で、保護の間へ行こう。院長に、じかに聞く。俺がとなりにいれば、君は、刺さない」
◇
わたしは、しばらく、何も言えなかった。
明日の夜。十時。
保護の間。
あの絵と、同じ部屋。同じ時刻。
「……わたしを、あの部屋に、連れていくんですか」
「そうだ」
あの人は、目をそらさなかった。
「逃げつづけても、君は、いつか、あの扉の前に立つ。それなら、俺が、そこにいるほうがいい」
正しいことを、言っているのだと思った。
この人は、ずっと、正しかった。
池でも、塔でも。
でも、正しいことを言う人が、いい人だとは、かぎらない。
おじさまも、三年間、いつも、正しいことを言っていた。
……おじさまも?
自分で考えたことに、自分で、ぞっとした。
でも。
机の上の、手帳が、目に入った。
開いたページに、保護の間の見取り図。
扉。窓。時計塔の方角。
『十時』の字に、丸がついていた。
その横に、『院長――九年前?』『鏡の池』『鍵、二本』。
そして、何度も、何度も、書かれた名前。
『エレノア』
ペンを持っていたのは、あの人の、左手だった。
指の腹の、黒いインクのしみ。
――見つけたら、俺は。
池のほとりで、ボタンをにぎりしめた、あの人の目を、思い出した。
◇
「エレノア」
あの人が、わたしの名前を呼んだ。
「ゆるしてくれ。こんなことを、たのんで」
体じゅうの血が、つめたくなった。
――ゆるしてくれ、エレノア。
四枚目の絵。
倒れたおじさまのそばで、わたしの手首をつかむ、黒い袖の左手。
インクのしみ。
同じ言葉だった。
「……どうして、その言葉を」
「え?」
「どうして、今、その言葉を言うんですか」
わたしは、立ちあがっていた。
椅子が、うしろへ倒れた。
この人は、わたしを、あの部屋へ連れていく。
父親を沈めたかもしれない人の前へ。
そして、わたしが刺したあとで、わたしの手首をつかんで、あやまるのだ。
監察官様も、立ちあがった。
手が、わたしのほうへ、のびてきた。
左手だった。
「さわらないで」
あの人の手が、宙で、止まった。
灰色の目が、大きく、見ひらかれていた。
そんな顔を、はじめて見た。
◇
わたしは、屋根裏のはしごを、駆けおりた。
うしろで、あの人の声がした。
「エレノア! 待て、ちがう――」
ちがう。
何が、ちがうのだろう。
わかっている。
ゆるしてくれ、なんて、誰でも言う。
わたしの名前だって、誰でも知っている。
わかっているのに、足が、止まらなかった。
◇
気がつくと、川べりの、古い洗濯場の前にいた。
はじめて逃げた夜に、かくれた場所。
屋根裏に上がって、ひざをかかえた。
遠くで、予見院の時計塔が、十二時を打った。
あと、二十二時間。
肩かけの下の、五枚の絵を、ぎゅっと、押さえた。
――いい人かどうかは、自分で見て。すみっこまで。
セレスの声が、した。
わたしは、すみっこまで、見ただろうか。
わからなかった。
こわくて、何も、見えなかった。
◇
夜明け前、わたしは、一つだけ、決めた。
お母様に、会いに行こう。
明日の夜が、本当に、あの絵のとおりになるのなら。
その前に、一度だけ、お母様に、会っておきたかった。
屋敷のまわりには、騎士がいるだろう。
それでも、裏の、温室の木戸なら。
セレスと二人で、子どものころ、何度も抜けだした木戸なら。
次回、七日目。
☆何個でもいいので、つけてください!




