第3話:シャルロッテとチョコレート工房
視界が晴れると、そこは鬱蒼とした山奥に建つ、無駄に立派で広大な洋館の前だった。
いかにも「魔族のアジト」といった様相を呈する不気味な佇まいに、リリーは油断なく周囲の魔力分布を探る。
「さあっ、ようこそ先輩! 私の愛の巣へ! どうぞ靴を脱いで上がってくださいね!」
そんなリリーの静かな警戒など知る由もないシャルロッテは、一人で思い切り頬を染めながら、弾む足取りで洋館の巨大な扉を開けた。
パティシエ衣装の淫魔に促されるまま、リリーは念のためいつでも術式を展開できるよう身構えながら屋敷に上がる。
(アジトの場所は郊外の山奥……典型的ね。誘拐された何十人もの犠牲者たちは、今頃あの奥で精気を吸い尽くされて干からびているか、それとも邪悪な儀式の生贄に……)
天才魔女の論理的な脳内で、最悪のシチュエーションがシミュレートされる。いつでも極大殲滅魔法を撃ち込めるよう、指先に圧縮した見えない魔力を集めながら、リリーはシャルロッテに案内されるがまま奥の重厚な扉の前に立った。
魔力ではないが、何かただならぬ気配と異様な「熱気」が扉の向こうから漏れ伝わってくる。
「さあ、こちらです先輩。私の秘密の花園です!」
シャルロッテがニコニコしながら勢いよく扉を開け放つ。
血の匂いが漂う凄惨な光景を覚悟していたリリーの鼻腔を突いたのは——むせ返るようなカカオとバターの、極上に甘い香りだった。
「…………は?」
珍しく、間抜けな声がリリーの口から漏れた。
そこは、屋敷の広間を丸ごと改装したような巨大な業務用キッチンだった。
そして、十数人の年頃の女性たちが、血走った目で一心不乱にチョコレートをかき混ぜたり、スポンジケーキを焼いたり、デコレーションの練習に励んだりしている。誰もが汗だくで、尋常ではない熱気に包まれていた。
「……なにこれ?」
「えっと、お菓子作りのお料理教室です」
「誘拐してきた女たちを監禁して?」
「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ! 彼女たちは皆、バレンタインの自作お菓子で彼を射留められず、後悔に泣いていた子たちです。街でスカウトして、この私が直々に『男を堕とす究極のチョコレート』の作り方を指導しているんですよ!」
「はぁ……。じゃあ、あなたは何のためにこんなことを?」
「もちろん慈善事業じゃありません。代わりに、彼女たちからは少しずつ精気を頂いて、私の可愛い『眷属』になってもらってます」
ウィンウィンの関係です! と自慢げに胸を張るシャルロッテ。
つまり、強制的な誘拐でも洗脳でもなく、傷心で自暴自棄になった女たちが自主的に「人間をやめて淫魔の眷属になり、悪魔的な製菓技術を身につけるためのスパルタ合宿」に参加しているだけだった。
ふと、一人の女性が血走った目で巨大なボウルをかき混ぜながらブツブツと呟いているのが聞こえる。
『溶かす……溶かす……あの男の胃袋の原型がなくなるくらい、甘く……絶対に私から逃げられないように……』
『ええ、そうよ。次は夜伽のテクニックもシャルロッテ先生に習わないと……ふふ、ふふふふ……』
(……事件性、全く無し。殺傷も監禁もされていない。むしろ彼女たちにロックオンされた男たちの方がご愁傷様ね。まあ、知ったこっちゃないけど)
リリーは張り詰めていた指先の魔力を完全に霧散させ、深く、深く、深いため息を吐き出した。
これ以上ないほどのしょーもないオチに、深夜二時を回るまで起き回って付き合わされた自分の労働時間が無性に憎くてたまらなくなる。
「あっ、先輩も男を誘惑するテクニックにご興味がおありで!? 大丈夫です、私が手取り足取り、一から百までベッドの上で教えて差し上げますから!」
「興味ないし、ベッドには絶対に行かないわよ」
甘えた声で顔を近づけてくるシャルロッテの顔面を鷲掴みにして押し退けながら、リリーは呆れ果てた目で「狂気のチョコレート工房」を見渡すのだった。




