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第2話:午前二時の徘徊者

 深夜二時。突如出現した魔大陸への恐怖から、夜の闇は文字通り「魔の領域」として人々に恐れられつつあった。

 ネオンの明かりもまばらな無人の裏路地を、不気味な声が這うように響き渡る。


「あー、私はバレンタインに恋破れた悲しい女。繰り返します、私はバレンタインに恋破れた悲しい女……」


 それは、どう見ても正気の沙汰ではない光景だった。

 コートの襟を立てた女——リリー・セヴァライドが、焦点の合わない目を虚空に泳がせながら、壊れたレコードのように呪詛を延々と吐き出している。

 その右手には、近くのスーパーで買ってきた特売品の板チョコレートが握りしめられていた。


(……一体あたしは何が悲しくて、こんな屈辱的な真似をしてるのかしら?)


 口では怨念めいたホラーじみた台詞を吐きながらも、リリーの内心は極度の冷静さと、身をよじるような羞恥心で引き裂かれそうになっていた。

 彼女は天才的な頭脳を持つ魔女であり、卓越した魔術式の構築者だ。いくら囮捜査だとしても、三十代半ばの女が深夜の路地裏で特売品のチョコを握りしめ、「恋に破れた可哀想な私」を演じて徘徊するなど、精神的ダメージが大きすぎる。

 もし知人にでもこの姿を見られたら何度だっていじり倒される未来が容易に想像できる。特にサニーとか。


「……私はバレンタインに恋破れた悲しい女。彼氏だと思っていた男に都合よく使われただけの、悲しい、悲しい女……!」


 とはいえ、引き受けた囮任務である以上、完璧にこなすのが無駄にプロ意識の高いリリーの流儀である。彼女は半ば自暴自棄になりながら演技に熱を入れ、さらなる負のオーラを発散させながら、街灯がチカチカと点滅する暗がりへと足を踏み入れた。


 ——その時だった。


 ピタッと、背後で微かな気配が止まった。

 足音はない。魔力探知の網にも引っかからない。まるで最初からそこにいたかのように、生暖かい夜の空気が首筋に纏わりつく。普通の人間なら気づくことすらできず、命を刈り取られるような完璧な隠密。

 リリーは即座に防御魔法を展開する準備を整えたが、寸前で思いとどまり、震える肩を抱く「悲しい女」の演技を続けた。


「その悲しい願い……私が叶えて差し上げましょうか?」


 背後から耳元に吹き込まれたのは、鼓膜を直接撫で回すような甘く妖艶な声だった。

 リリーがびくっと肩を揺らし、怯えたように振り返る。

 そこに立っていたのは、白と淡いピンクを基調とした、お菓子のように甘ったるいデザインのパティシエ衣装に身を包んだ女。

 だが、その背中からは小さな蝙蝠の羽が、そしてふんわりとしたスカートの隙間からは悪魔の尻尾がペチペチと揺れている。どう見ても淫魔サキュバスだ。


「……コスプレ痴女?」

「失礼な! 愛のキューピッド、もとい、恋の手解きをするパティシエール——」


 芝居がかった仕草で名乗ろうとした淫魔の口が、はたと止まる。

 街灯の明かりに照らされたリリーの顔を見た瞬間、怪しげな淫魔の瞳が、文字通りハート型にひん剥かれた。


「り、リリー先輩!?」

「……シャルロッテ? あんた、こんな人間界の裏路地で何やってるのよ」


 シリアスで不気味なホラーの空気が、ピシッと音を立てて崩れ去った。

 目の前にいるのは、魔界の研究所時代から(頼んでもいないのに)リリーを猛烈に慕い、隙あらば夜這いをかけようとしてきた旧知の後輩淫魔、シャルロッテだった。


「あああっ、偶然とはいえ、よりによって私の愛しきリリー先輩に仕事中の姿を見られるなんて! いえ、それより……さ、先程『恋破れた悲しい女』などと仰っていましたが、まさか、どこの馬の骨とも知れぬ愚か者に手を出され、あまつさえ捨てられたと!? 許せません、私が直々にその男の臓物を引き摺り出し——」

「落ち着きなさい、ただの囮任務よ。……はぁ、本当にあたしの時間は無駄になる運命なのね」


 息を荒げて迫りくるシャルロッテの顔面を、展開した魔力障壁で物理的にストップさせながらリリーは深いため息を吐いた。もはや演技を続ける意味もない。


「あんたの仕業だったのね、最近人間界を騒がせてる『神隠し』は。まあいいわ、どうせまた碌でもないことしてるんでしょ。ちょっと現場アジトを見せなさい」

「えっ!? アジト……つまり私の愛の巣(工房)に、ついに先輩が足を運んでくださると!? やったぁ! 今夜は朝まで寝かせませんからね!」

「……そういう意味じゃないんだけど」


 勝手に都合よく解釈して狂喜乱舞するシャルロッテが、弾むような仕草で指を鳴らす。

 その瞬間、視界がふわりと歪み、空間そのものが転移魔法によって切り替えられた。

 かくして、緊迫感など欠片もないままに、天才魔女リリーは魔族の恐るべき人間牧場——もとい、シャルロッテの甘い工房へと(半ば呆れながら)足を踏み入れるのだった。


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