結
テーブルの上では、桜色のアロマキャンドルが燃えている。その前でジギーは、2つのカクテルグラスとトニックウォーター、そしてシロップ漬けサクランボの大瓶を取り出した。片方のグラスにトニックを、もう片方にはシロップをなみなみと注ぐ。
注ぎ終えるとジギーは、2つのグラスの脚を慎重に持ち、おごそかに持ち上げた。その手に薄青色の光が灯る。水の魔術だ。カクテルグラスの中の液体は、粘性を増し、ゼリーのようにグラスの上で震えている。
その両手が不意にひるがえり、2つのグラスを合わせて液体を1つの球にする。間髪入れず、手首のスナップを使って、2つのグラスの間で水の球を跳ねさせ、お手玉の要領で行き来させる。白くたなびくキャンドルの煙が球の周りにたなびき、幻想的な雰囲気を漂わせる。
あたしは口を開けてその光景を見ていた。傍らのベキムは、訳知り顔にニヤついている。やがて十分に液体が混ざったことを確認したジギーは、両手のグラスを合わせて水の球をつかまえ、2つのグラスに分けてあたしたちの前に差し出した。
仕上げにサクランボを1つずつ落とし、ジギーはあたしたちに微笑みかけた。
「お待たせいたしました。ファントム・レディのノンアルコール版――さしずめ、ファントム・レディ・トムボーイとでも名付けましょうか」
「へぇ、これがねェ……」
あたしは唸りながらカクテルグラスを持ち上げた。サクランボの甘い香りと、キャンドルの煙から移ったサクラの香りが、心地よく調和する。小さな泡が絶え間なく上がる、薄桃色のカクテル。お転婆娘って言葉の響きは、ちょいと気に食わないけれど。
「さて、それでは……ベク=ベキム氏の無罪を祝って、乾杯といこうか? 」
笑いが止まらないといった表情でベキムは言い、あたしにグラスを差し出してきた。あたしは渋い顔になりながらも、自分のグラスを差出し、軽く打ち合わせた。
裁判は終わり、あたしたちはジギーが働く『空に星』亭で祝賀会みたいなことをやっていた。
「しかし、ジギー、あんたもよく、水の魔術を使ってくれたよね。ナイスタイミングだったけど」
「この『ファントム・レディ』のお蔭ですよ」
ジギーは完璧な歯並びを見せつけて笑った。
「ベキム様が、実際にはお飲みにならなかったカクテルの名をおっしゃった時から、気にはなっていたのですがね。マフィ様が血をせき止める話をなさった時、ピンと来ました。ファントム・レディは水の魔術を使って酒を固めて作るカクテルですからね。カクテルの名前で魔術を暗示するっていう手は、以前もベキム様とやったことがありますし」
「ちょっと待った……じゃああんた、あの証言の時から水魔術のことが分かってたのかよ? 」
声を上げるあたしに、ベキムはしれっとした顔で頷いた。
「私は閉じ込められていて、お前さんらは自由だ。それなのにどうやって――と、聞きたいところだろうがね。お前さんたちより私の方が有利だった点が1つだけあるんだよ。それは、私は「私が人を殺さなかった」ということを知っていた、ということだ。
お前さんたちは、こう考えた――傷口から血が流れたから、被害者は長く生きていられなかった。殺された直後には、ベキムしか近くに居なかった。だからベキムが犯人だ、と――だが私は、自分が人を殺さなかったことを知っている。だから、前提の方を疑えた。傷口から血は流れなかったんじゃないか? 何らかの方法で、止血をしていたんじゃないか? とな。
そこへ、お前さんがエデエィオルって容疑者を用意してきてくれた」
「じゃ、ハナからエディオルのことにも気づいてたっての!? 」
ベキムは、胸糞の悪い得意顔でカクテルグラスの中身をすすり、子供に言って聞かせるような口調で語り始めた。
「お前さん、聞かせてくれたよな。エディオルが私のことを『黒ずくめの上帽子までかぶっていた』と言ったって。ところが後から聞くと、目撃者の商人たちは私が『ハデなシャツを着ていた』ことを覚えていた。おかしな話だよ。私はエディオルと直接会ったわけじゃないし、服装の話は証言者からでも聞いたとしか思えない。なのに、随分印象が食い違っている。素晴らしくオシャレなシャツを着ていた人間を、『黒ずくめ』なんて呼ばないよな、普通。
となれば結論はひとつ。エディオルは人殺しの後、偶然通りがかった私の姿を見たんだ。後ろから商人たちが、魔導ランプを持って歩いて来ていたから、エディオルから私の姿は逆光の中で真っ黒に見えた。それが強烈に印象に残ってしまったんだろうな。何しろ、人殺しの直後だったんだから。
傷痕と手すりの血の話も聞いて、ますますよく分かった。ことの次第は、多分こうだ――何らかの不正を見咎められたエディオルは、被害者レギナムとサシで話をつけようと通りに出る。そう言えば、あの辺りには病院があったな。エディオルが働いていた職場も近くにあったんだろう。その場でエディオルは、思い余ってレギナムを刺してしまう。体格的に劣るエディオルだから、おそらく不意討ちに近い形だったのだろうな。
さて、エディオルは慌てた。必死で治癒魔術を使い、止血を試みたが、長くもたないことは分かり切っていた。さらに間の悪いところに、人通りの少ないはずの枝道へ偶然にも通行人がやってくる。どうするか――そこでエディオルは、通りがかりの罪もない通行人を利用しようと考えたわけだ。彼は、自分より大きなレギナムの体を、手すりを利用して立たせた。傷や痣はその時出来たものだろう。瀕死のまま立ち上がったレギナムを、通行人目がけて突き飛ばす。勢いでフラフラと数歩歩いたレギナムは、向かってきた無実の通行人こと私の腕の中で力尽き、息絶える。そのショッキングなシーンを、後からやってきた商人たちがバッチリ目撃する。
とまあ、こんな具合だったんだろうな、あの晩は」
「……そこまで分かってたんなら、何でまたあたしに教えてくんなかったのさ? 」
あたしが口を尖らすと、ベキムはおどけて肩をすくめた。
「何だい、仲間外れにされてスネてんのか? 」
「いい加減ブッ飛ばすぞ、てめえ! 」
「まあまあ、そう怒るな。しょうがなかったんだよ、あれも作戦のうちさ」
なだめる手つきで両手を差出し、ベキムは弁解した。
「そりゃ、大体の筋書きは読めたけど、全部状況証拠で、相手がしらばっくれたら終わりって代物だ。とても真っ向からぶつかって勝訴できるような材料じゃない。そこで罠を張ったんだ。勝ちが決まったかと思わせておいて、最後の最後で真実を突きつけ、エディオルにショックを与える作戦に出たわけさ。
そのためには、原告側から血の問題に触れてもらう必要があった。こっちからことさら重大そうに言い出したんじゃ、相手を警戒させちまうからな。結構気を使ったんだぜ。まずはデニアを怒らせて、こっちの言う事をとことんまで追及してやろうって気にさせる。そこでお前さんが血について頼りない憶測を言い出したら、まず確実に乗ってくると踏んでたんだ。デニアはあれで法廷には慣れてる男だ。マフィ、お前さんが事実を知ってて、ちょっとでも相手を乗せようって魂胆を見せてたら、確実に気づいて追及の手を引っ込めてたろう。お前さんが何にも知らなかったからこそ、その理屈の穴だらけなところにデニアはまんまと食いついたのさ」
「……お前って、本当に性格悪いよなァ」
あたしはしみじみと呟き、カクテルグラスを口に運んだ。癪に障ることに、かなり美味い。
「そこまではお考え通りだったとしても、だよ。ジギーがこっちの味方につくってのはどうして分かったんだい? あの場で水の魔術を使ってくれたからよかったようなものの、保身のためにだんまりを決め込むってことも十分考えられただろ? 本人の前でこう言うのもなんだけどさあ」
あたしはジギーを横目でに睨みながら聞いた。ベキムの笑いは、微塵も揺らがなかった。
「そりゃ、まったく心配してなかったさ。カクテルの符牒のこともあったし、それに、私はジギーを信頼してたからね」
「信頼、と言いますと……私の善意をですか? 」
意味深な笑顔で聞くジギーに、ベキムも含みのある笑いを浮かべて答える。
「君の悪意を、だよ。状況がどうなるか分からない時ならともかく、安全な立場で公然とザナ・ステラの面目を潰せる機会が訪れたなら、君が乗らないはずはないと思っていた。実際、彼女には相当気まずいことになったんじゃないか? バザールへ恩を売るチャンスだったはずの裁判はあんなザマになり、そのことでジギーを責めようにも出来ない――あの裁判の直後に君を解雇でもしたら、バザールに抱き込まれて偽証まがいのことをやろうとしましたって市場じゅうに宣伝するようなもんだからな」
「今日はまた、バザールの方の寄合に出かけていますよ。今回の不手際をきっかけに、多少ゴネてでもバザールとのつながりを深めようとしてね」
ジギーは皮肉っぽく笑い、契約印に埋め尽くされた手のひらを上向けて見せた。
「転んでもただでは起きぬってか……やれやれ、多少痛い目に遭ったくらいじゃ懲りないんだな、あの手の人種は」
ベキムが言い、ジギーとベキムは顔を見合わせて、くつくつと笑った。陰険な笑いだ。ったく、類は友を呼ぶってやつか。
「多少痛い目に遭ったくらいじゃ懲りねえ奴が、ここにもいるけどな」
あたしはグラスに浮かんだサクランボを齧りながら、吐き捨てるように言った。
「本当によお、2、3度死刑になっといた方が良かったんじゃねえの? 今後のためにもさ」
「そんなこと言いながら、『今後』ってものを認めてくれるんだもの、マフィさんは優しいよ」
機嫌よさげにベキムは答え、空になったカクテルグラスを掲げて見せた。
「まあ、今夜は呑もうじゃないか。本当に、何から何まで世話になったからな。今日は私の奢りだ。パーッとやろうぜ」
「あんたそれ、あたしが呑めないの知ってて言ってるよな? ほんっとに性格の悪い……そりゃ別にいいけど、ちゃんと報酬は払えよな! 日当が5千ゾルで、それから経費に迷惑料も……」
「そういうことについて、私が言うセリフはいつもひとつだ。マフィ」
ベキムは真顔になり、黄色い目であたしの目を覗きこんで、言った。
「ツケにしといてくれ、頼む」
怒りだの文句だのを考えるより先に、拳の方が勝手に動いて、鱗だらけの頬にめりこんでいた。あんまりふざけんなってんだ。




