第8話(1)
泡のはじけるような、あるいは小鳥のさえずるような音。密やかな喧騒と興奮に満ちた裏カジノへ、ボルゴと私はゆったりと足を踏み入れた。足取りは、そう軽くない。大勝負の前だ、流石に緊張もする。その上今夜は、顔を隠すヴェールやフードどころか帽子すらないのだ。第5大隧道は亜人の少ない地区というわけではないが、それでも私が通ると、大概の客は物珍しげに振り返るか、息を呑んで色を失うかのどちらかだった。
テーブルの間を通り抜け、リライアのテーブルを遠巻きに窺う。今夜も多くの野次馬が取り巻いていて、彼女の顔は見えない。時々野次馬たちがざわついたり、口笛を吹いたりするので、また勝ったのだということが分かるくらいのものだ。
私はふうっと息をつき、くるりと首をめぐらしてバーカウンターの方を見た。音を立てそうなほど折り目の決まった、ダークグレーのスーツの男が一人、やや顔を俯けて水割りを舐めている。男――レフ・ワーグゼンは、私の視線に気づくと、顔をこちらへ向けることなくグラスを持ち上げてみせた。私も、合図を返したりはせずに顔をそむける。組んでいることを悟られないために、勝負の直前までは言葉を交わさぬことに決めてあるのだ。
「さて、いよいよ勝負だが……くれぐれも言っとくが、無様な負け方だけはするんじゃねえぞ」
やたらに威圧的な励ましの言葉と共に、ボルゴの重たい手のひらが私の肩に乗った。なんとも有難い励ましの言葉だ。私は苛立ち、肩を揺すった。
「私だって、何も負けたいとは思っちゃいませんがね。それでもギャンブルってやつは……」
言いかけて、口をつぐむ。ボルゴは既に私を見ておらず、厳しい目で私の後ろを睨みつけていた。振り返ると、身体を猫背勝ちに屈めながら、おどおどとこちらを窺う卑屈な顔――ベルーニだ。
「よう、邪魔してるぜ」
ボルゴがそっけなく声をかける。ベルーニは曖昧に笑い、何事か口の中でもぞもぞと呟いた。
「どうだ、その後……あの女を売りとばす算段は着いたのか? 」
無遠慮な言葉に、流石にベルーニも眉をひそめた。
「人聞きの悪い言い方を、しないでくれ……本人に話はしてみた。条件次第じゃ、ここから出ていってもいいと言っている。後は、交渉の問題だ」
身を守ろうとするかのように腕を組みながらこちらを睨み返すベルーニを、私は白けた思いで見つめた。交渉の問題、か。イカサマという切り札を依然握ったままのリライア相手に交渉――振り回されるのが、オチだというのに。
「あんたがどういうつもりだろうと、もう、俺たちにゃあ関係ない。話自体はあんたが持ち込んだものかもしれないが、今じゃこの一件はもう「俺の仕事」だ。一度乗りかかった仕事には必ずケリを付ける。そうじゃなきゃ、俺のメンツが立たねえ……行くぞ、ベキム」
ボルゴは会話を打ち切って、人の群れへと巨体を進めていった。私も慌てて後を追う。背後のレフが席を立ったのを、横目でしっかりと確認しながら。
観客を押しのけて、リライアのテーブルへと向かう。見ると、間のいいことにプレイヤー席は空だ。ちょうど勝負の合間で、名乗り出る挑戦者のいない凪の時間帯らしい。私の顔を見て、リライアは目を見開き、微笑んだ。その頭には、黒い帽子がちょこんと乗っかっていた。
「じきにいらっしゃるとは思っていたから、こうしてかぶってきたの。なかなか来なかったらどうしようかと思ってたけど。これ、私にはあんまり似合わないもの」
リライアはバカにするように人差し指で帽子のつばを弾いて見せた。私は無言でプレイヤー席に腰を下ろした。観客の間から、息を呑むざわめきが聞こえた。
横合いからボルゴが寄って来て、ケースに収まったチップをテーブルの上に置いた。
「まずは、50万だ……いいか、無様に負けるなとは言ったが、ビビって縮こまった挙句ズルズルとチップを垂れ流すのも、俺は見たくないからな」
「注文の多い人だ……分かってるって、言ってるでしょうに」
私はうんざりしながらケースを開け、中身を確かめた。5千ゾルのチップがぎっしりと詰まっている。前回と同じく他人のカネとは言え、前回のように何も考えず浪費するわけにはいかない。確実に勝てる算段を付けてから、大きく張るのだ。そのためには――
「さあ、始めよう。ポットとダイスをくれ」
私はリライアに向かって手を伸ばした。リライアは頷き、黒いポットに2個のダイスを入れてこちらへ差し出す。それを私は掴み――掴み損ねて、テーブルの上に転がしてしまった。ダイスはポットからこぼれ、テーブルを転がって床に落ちた。
「あ……こいつは失礼」
ダイスを追って立ち上がる私に、観客の中から一人の男が進み出て、ダイスを拾い上げた。
「おいおい、そう固くなるなよ。勝てるものも勝てなくなるぜ」
男――レフ・ワーグゼンはそう言い、不敵にニヤリと笑った。私も笑みを返す。当然、今までの流れは全て仕込みだ。私がサイコロを落とし、レフは前もって観客の前に移動しておいて、サイコロを拾い上げる。プレイヤー以外がサイコロに触るには、この手が一番手っ取り早い。
私はレフの手からサイコロを受け取ろうと手を伸ばした。その時だった。
「お客様……ちょっと、よろしいでしょうか? 」
凛と響く、美しい声がテーブルの向こうから飛んできた。リライアは穏やかな、しかし多少の侮蔑が混じった笑顔でこちらを見ていた。
「探偵さんの話を聞いて、もしかしたらとは思っていたけど……やっぱり、あなたが噛んでいたのね。今さら、何をしようというの? そんな手で」
手のことを言われ、レフの目は凶暴な怒りに燃えた。彼は唇を噛み、獣の唸り声を思わせる声でぼそりと低く答えた。
「……誰のせいで、こうなったと思ってやがる」
リライアは答えず、カジノの用心棒に目配せした。レフは用心棒に腕を掴まれ、サイコロを取り上げられたのち、綿密な身体検査を受けた。次第に、用心棒の顔が曇り、怪訝そうな表情になっていく。
「……何も、見つかりませんね。サイコロをスリ替えたのかと思いましたが、元のサイコロも見当たらないし、魔導杖の類も持ってない。取り上げたサイコロにも、異常はなさそうだ」
「……? 」
リライアは立ち上がり、用心棒の手からサイコロを受け取って入念に調べ始めた。『オーソドキシー』を疑って黒い面を爪で擦るが、塗料が剥がれ落ちることもない。ひとしきり調べた後、リライアはため息をつくと、2つのサイコロを私に差し出した。
「どうやら、お仲間さんは何も出来なかったみたいね。拍子抜けだわ……さあ、勝負を始めましょう。最初の予定通り、2人きりの勝負をね。それとも、尻尾を巻いて逃げ帰る? 」
「まさか。トカゲみたいな顔をしてるとはよく言われるがね、尻尾まではついちゃいないんだ、私は」
答えながら私はポットを掴み、2つのサイコロを中に入れ――気づかれぬよう密かに、ポットの内壁へサイコロの面を擦りつけた。黒の面の上に、黒い塗料がなすりつけられていく。
レフの動きが見破られることまで、私たちの仕込みの内だったのだ。彼が周りの注意を惹いている間に、私はあらかじめ用意していた塗料をポットの内側に塗りつけた。糊やタールのようにべとべとした黒の塗料で、放っておくとすぐに乾いてしまうが、内部には粘着力が残っている。手の中に納まるほどの容器からそれを絞り出してポット内に仕込み、サイコロを渡された後にポット内で乾いた表面を剥がし、内部の粘着質を擦りつける。麺に塗った塗料もポットに残った塗料も、空気に触れればすぐに乾いてしまうので、相手に渡す頃にはまったく見分けがつかなくなっていることだろう。
しかもこの塗料には、砂鉄が仕込んである――つまり、磁気に引き寄せられるのだ。
私は両手でゆっくりとポットを持ち上げ、振り始めた。あまり強くは振らない。同時に左手の契約印から魔力を集めなければならないからだ。魔術の光が漏れださないよう、力を加減して、慎重に。やがて頃合いを見計らい、私はポットをテーブルに立てた。サイコロがテーブルに触れる一瞬、魔力を放出し、手袋から磁気を放つ。
黒の面が引き寄せられれば、出る目は赤・緑・青・黄の役なしの目に限定される。役になるのは、色揃いが出た時だけだ。そして役なしは振り直し――つまり、チップが尽きない限り色揃いが出るまで振りつづけられるということだ。これは相当に強力なアドバンテージとなる。
私はそっとポットを傾け、中の目を衆目に晒した。1つは赤、もう1つは――赤。赤・赤の2面揃い、出せる限りで最強の役だ。
「こいつは、幸先がいいな」
私はリライアの顔を見据え、尖った歯を剥きだしてニヤリと笑って見せた。




