1年後
馬車から手を振ると、子どもたちはあっという間に見えなくなった。見送っていたのはほとんど女の子たちと園長で、男の子は後ろで走り回っているのが印象に残る。
イリヤはふぅ、と息をついてまっすぐ座り直した。
「ウィスター、色々ありがとう」
「俺は何も。殿下もお疲れ様でした」
「でも、何だかんだ面倒見てくれてたじゃない」
「懐かれましたね」
そう言って笑ったウィスターが、馬車の外に目を向けた。ウィスターにすっかり懐いて寝てしまった男の子の顔を思い出して、イリヤはくすくすと笑った。
「でも懐いちゃうの分かるわ。私も小さい頃すぐ懐いた気がするし。口は悪いのに何でかしらね」
「子どもには本当の善人というのが分かるんですよ」
「そういうこと自分で言うのやめた方がいいわよ」
「ははっ、それは失敬。それはそうと殿下」
ウィスターがいきなり真面目なトーンになって、イリヤの方へ向き直った。
手が伸びて、イリヤの背後にある馬車のカーテンをシャッと閉める音がする。
「褒めて差し上げる約束でしたね。よく頑張りました」
「ちょっ…!!」
そのまま両手がわしゃっと頭を掴んでーー、正確には髪の毛を掴んで、ぐしゃぐしゃと両手でかき回される。
先程まで外の風にさらされていたので、お世辞にも綺麗とは言えなかった髪の毛が一気にメチャクチャになり、イリヤは文句の声を上げた。
「やめてよ…!」
「あれ?褒めてほしいんでしょう」
ウィスターの両手を掴んで引き離そうとしてみるが、力では敵わない。その間にも頭を揺さぶるように掻き回されたはちみつ色の髪の毛はボサボサだ。
どこか楽しそうにイリヤの髪の毛を撫で回していたウィスターだが、やがて満足したように手を離した。
「ちょっと、恥ずかしいってば…!」
とんでもなく乱された髪の毛が恥ずかしくて、イリヤは慌てて後ろを向いた。
「こんなの褒められてない!」
「おかしいですね。いっぱい撫でたんですけど」
「そういうことじゃないわよっ!犬じゃないんだから!」
長い髪の毛を手櫛でなおすが、一部はからまってしまった。もう帰るだけなのだが、馬車から降りた時に髪の毛が乱れているなんて恥である。
こんなことをされてもどこか嬉しいと感じる自分が悔しい。
ウィスターはと言えば、いつものニヤニヤ顔でイリヤを見下ろしている。
「でも感心したのは本当ですよ。分かりやすかったです」
「……それを先に言いなさいよ」
「地図や絵も大きく書いてあったから見やすかったですし、子どもたちも興味津々でしたからね。あと、急に俺が教材にされたのはびっくりしましたけど」
「だってたまたまそこにいるんだから使わないと」
「その割にアズライトをちゃんと持ってきてたんですね」
くつくつと笑いながら言われて、しまったと口をつぐむ。
確かに、実際の宝石を何種類か選ぶときにウィスターの顔がちらついたのは事実だ。
「分かりやすかったし、面白かったし、子どもの相手もお上手でしたし、殿下のお気持ちも分かったし、とてもいい公務でしたね。けど、一個だけ惜しい点がありました」
「……何?」
どうせ褒めるんじゃない、とやや照れながら聞き返す。
完璧だったとは思っていないし、何か改善点があるのならば聞こうという気持ちだった。
「最後、園長からまた来年と言われたときに『はい、ぜひ』と即答できなかったですね。あれだけ惜しかった」
「え、そこ?」
予想の斜め上のことを言われて、思わず首をひねる。
「だって、私が勝手に言うのも違うだろうし、期待させてしまうかもしれないし、どうなるかなんて分からないのにっ…」
「分からなくても、即答するんですよ」
そう言うウィスターの声はどこか優しくなかった。何となく叱られている気分になる。
確かにそうかもしれない、とイリヤの気持ちは少しだけ下向いた。
「…確かに、園長先生に失礼なこと言っちゃったかしら。せっかく好意で言ってくださったのに。それもそうね、お礼状を送るときに謝罪しておく」
「…………」
どんな感じで謝ったらいいかな、と文面を考えようとしたイリヤの頭に、デコピンが飛んできた。
「いたっ…!」
「何言ってるんですか、違いますよ」
抗議の声をあげてウィスターを見上げると、ウィスターは心底呆れた顔をしてイリヤを見下ろしていた。
「殿下は来年、どこに行かれるおつもりですか」
「どこって……どうなるかなんて分からないじゃない」
「何も変わらなかったとしても、王宮にいるでしょう」
「まぁ、そうね」
「結婚していたら、うちにいるでしょう」
「……」
うちにいる。
その言葉に何だか生活感を感じて、思わず顔が真っ赤になるのが分かった。
「……説得の話も、俺に任せてくれたんでしょう。それとも、どこか他に行くおつもりですか」
「えっ、ちが……」
「何が違います」
じっと見られて、ほぼ睨まれて、イリヤは赤い顔を伏せた。
本当に動いてくれていたんだ。先ほどはそこまで思い至らなかった。けれど、そんなことで少し不機嫌になっているウィスターが、少し可愛い。
「来年もやりたいと思ったんだったら、そう言っておけばいいんですよ。あとは俺が何とかしますから」
「……ごめんなさい」
「謝ることはありません」
また手が伸びてきて、今度は優しく、ぽんぽんと頭を撫でられる。
恥ずかしいのか、嬉しいのか、後悔なのか、そんな複雑な感情の渦が走って、イリヤはいよいよ顔が上げられなかった。
*
「あれ、ウィスター久しぶりだね」
「あぁ」
夜騎士団の事務所に寄ると、友人であるルイ・オニキス伯爵が、中庭のベンチでゆらりと闇に煙をふかしていた。ここのところ忙しく、騎士団としての仕事がほぼできていない。ウィスターは息をついて、ルイの隣に腰かけた。
「いる?」
「もらう」
差し出されたタバコを一本ありがたく受け取り、火をつけた。苦い空気が肺を満たす。
元々あまり好んで吸う方ではないが、今日は苦さが妙に心地いい。
「忙しそうだな。殿下と結婚するんだって?」
「まだ決まってないけどな」
「父が言ってた。ピッタリじゃんって言っておいたよ」
ははっとおかしそうにルイが笑った。
「え、なに?どうなってそうなったの?お前らいつまでもぐだぐだ回りくどいことやってたじゃん」
「殿下はそうかもしれないが、俺を一緒にするな」
「殿下はいいんだよ分かりやすいから。お前だよお前。いきなり結婚だろ?何で急にそんな腹括ったんだよ」
軽く小突かれて、ウィスターはタバコを咥えたまま口をへの字に曲げた。
「……なんで殿下にも言ってないことをお前に先に言わなきゃいけないんだよ」
「なんだよー、友人のよしみだろ。ミグリの山の捜索だって一緒にやったし」
確かに、イリヤがさらわれた時、ルイは先陣切って救助に走ってくれたし、そこは感謝している。ウィスターは諦めて、また煙を吐いた。
「……殿下がいなくなるのも、別に平気だと思ってたんだけどなぁ。意外とダメだった」
「へぇ。それで?」
「大切な、もはや家族みたいなもので、女として見てたつもりはなかった。でもあの子がいないと寂しいし、喜ばせたいし、泣かせるなら俺がいい」
歪んでんなー、とルイが苦笑する気配がする。
「何とでも言え」
「恋人とかすっ飛ばして結婚にいくのはびっくりしたよ。ウィスターは結婚とかあまり興味なかったろ」
「ずっと一緒だったし、今更だろ。今までは結婚する必要性も特になかったし」
「おいそれ普通じゃないからな。跡取り作る必要性はあるだろ公爵なんだから。……ま、でもお前には殿下がいたからなぁ」
だからこの友人に話すのは嫌なんだ、とウィスターは顔をしかめる。
あっけらかんとした友人は、どこかウィスターの隠した本音が見え透いたような言い方をする。
「でもどうすんだ、これから。陛下は納得すんの?」
「事件をきっかけに考えが変わったかと思ったが、やっぱり今のところ反対されてるな。でも前は国のために断固拒否って感じだったが、今はそこまでじゃなさそうだ。さすがにあんなことがあって、陛下も悩まれてると思う」
「ふーん、どうやって認めてもらうの」
「とりあえず」
持て余した足を組んで、空を見上げる。
「……一昨日まで、ちょっと地方を回ってきた。根回し」
「根回し?」
「陛下が一番気にされるのそこだろ。別に俺が嫌なわけじゃないだろうし」
「…何かお前ムカつくな」
「とりあえず北の方の領地に行って、色々話してきたよ。北の方はわりと陛下に否定的な見方をするからな」
「あぁ、なるほどね。で、結果はどうだった?」
「半々だな。反対する奴もいたよ。ただ、今日殿下が公務に行ってただろ。あれを見てて、ちょっと分かった気がする」
「ふぅん、何が?」
「……殿下は求心力がある。子どもも大人も、あの人の前では目を輝かせるんだよな。で、それを受けとめて、驕らずに目線を合わせて対話できる」
「あぁ、確かにそういうところあるな」
「そんな人材みすみす他国にやるなんて惜しいだろ。そっちの切り口でいこうかと」
また煙を吸い込んだ。昼間の、子どもたちに囲まれていたイリヤを思い出す。
明るく笑うその顔からは、あんな事件で婚約破棄になった直後だということは微塵も感じられなかった。微笑ましかったあの光景を思い出すと、ウィスターは心が緩むと同時に、胸を刺されたような気持ちになる。
「でも北は陛下の政敵になるからなー。正直すっげぇ疲れた」
「愛しの姫様に癒してもらえよ」
「もう癒してもらった」
「え」
ルイが慄いたように顔をしかめた。
「お前、まさかもう夜這いを…!?」
「するか馬鹿」
「お前の癒しってそういうことじゃないの?」
「お前本当失礼な奴だな」
「じゃあ癒しって?」
「ちょうど北から帰ったときに……たまたま、殿下と会っただけだ。普通に執務室で話しただけなんだが、妙に救われたな」
「へぇ、あのウィスターがねぇ」
「うるさい」
ニヤニヤと笑うルイの腕を軽く拳で叩く。
「ま、でも頑張れよ。しばらくこっちはいいからさ。無事結婚できたら俺にも結婚祝いくれたらいいから」
「逆だろそれ」
「お前と二人っきりのときの殿下は凶悪なまでに可愛いだろうなぁ」
「…………まぁ」
「ははっ。本当素直じゃないよな。せいぜい嫌われないようにがんばれよ」
タバコを灰皿に押し付けたルイが立ち上がって伸びをした。
夜だというのに風が涼しい程度で、心地よい。
「ありがとな」
とウィスターが言うと、今度はルイが無言でウィスターの腕を拳で叩いた。
煙の匂いが、ゆっくりと漂うように消えていく中、春がいよいよ始まった季節のことだった。




