丘の上
ウィスターが馬車を停めたのは、王都の手前にあるだだっ広い丘の上だった。
御者にこのまま待つように指示を出し、イリヤの手を引いて馬車から降りる。
夜とはいえ真夏の気温に汗ばんだ身体に外の風が心地良く、馬車の中の気温は高かったことを思わせた。
「足、大丈夫ですか」
そう問われてはじめて、自分がヒールの高い靴を履いていることに気がついた。転けてしまわないように「うん」と頷いて靴を脱ぐ。裸足の足の裏に芝生のチクチクとした痛みが走る。
「わんぱく小僧みたい」
「だって涼しくて気持ちいいじゃない」
ウィスターが靴を拾い上げて、片手でさらりと持ってくれる。もう片方の手に引かれて、しばらく芝生の上を歩いているとやがてウィスターが口を開いた。
「姫様はまだ不安ですか」
「不安、なのかな。……今ウィスターが私のことを大切に思ってくれているのは分かるわよ。でもどうしても、あの時見たケイトとの二人がちらついて」
「……そうですか」
「私ね、まだあの時、男の人が好きな人にどうやって触れて、どんな雰囲気を作るのか、分かってなくて」
「それはそうでしょうね」
「だからケイトといるあなたを見て、『あぁ私は全然違うわ』って思った記憶があるの」
「……」
「子どもっぽいけどどんどん欲張りになっちゃって、前はあなたと一緒に過ごせるだけで良かった。今は……やっぱりあなたの今までで一番特別がいい」
立ち止まってウィスターの顔を見上げる。星空に黒髪が光って綺麗だと、素直に思った。
「……俺は別に恋愛に何か夢や希望を持ってたわけじゃありません」
ウィスターが後頭部を掻き、少し考えるように視線を外した。
どこか遠くを見ているウィスターは、昔を思い出しているようだった。
「公爵家の長男として、そりゃ今まで縁談もあれば親しくしてくれる女性もいました。あなたも知っていることでしょうが」
「……うん」
「けど、なんででしょうね。どんなに条件のいい女性と出会っても、例えキスをしても、どんなに親しくなっても……その人と結婚をして、人生を捧げて、共に生きようとは思ったことがなかったです」
「でも好きだったんでしょう?」
「好きでしたよ。好ましく思ってはいましたし、可愛いと思うことだってありました」
「それと結婚とは違うの?」
「違いますね。少なくとも、俺にとっては」
群青色の瞳と目が合った。
夜の闇のような瞳の色に吸い込まれる。
「一緒にいて自然で、遠慮なく笑えて、本気で怒れて、嫌なところも全部見た上でまっすぐ俺を見てくれて、そして俺が守るのが当然と思っていました。そんな人がずっと当たり前のように横にいたら、俺はそれで満足だったんでしょう」
「…私?」
「あなた以外に誰がいるんですか」
苦笑したウィスターが、ポンと頭に手を乗せる。
ちょっと叱るような、呆れたような仕草。
「別に結婚しないと思ってたわけじゃありません。恋愛はそこそこしてきましたし、それなりにいろんな経験もしてきました」
「……ケイトとも?」
「まぁ。どんな関係だったかはご想像にお任せしますが」
「何よ偉そうね」
頬を膨らませてウィスターの腕を小突くと、声を上げずにウィスターが微笑んだ。
「……やっぱり家族になるなら、あなたがいい。好きだと気づいた時には、もうそれが当たり前だったんです。恋人なんて関係じゃ当てはまらなかった。いつか……いつか、終わりが来るかもしれない枠に、あなたを押し込めておけなかった…。結果、結婚が急に進んだ形になって姫様が混乱してしまいましたね」
「……」
想像よりもずっと甘い言葉に赤くなって下を向いた。
きっと本当に今しか言わない。ウィスターの一言一句を忘れないように全て胸にしまう。
今後不安になった時にも、思い出せるように。
「あなたがいなくなることで空いた穴は誰にも埋められなかった。だって姫様じゃないんだから、埋まらない」
「……それは特別?」
「そう、特別。過去は過去として、それを含めて、全部。……まぁ、すぐに信じられなくてもいいですよ。これからゆっくり、分からせますから」
嬉しさが込み上げて、嬉しさと一緒に涙も出そうになって、イリヤはウィスターの胸に抱きついた。
背の高い彼の胸に身体を預けて、イリヤのすべての力で抱きしめると、ウィスターが長くて深い息を吐くのが分かった。
「……本当に辛かったの」
「はい」
「……でも、もういいの」
「……はい」
片手で優しく髪を解くようになでられて目を閉じた。
昔のウィスターの気持ちは、ずっと靄がかかったように、見えるようで見えなかった。
さらけ出された深い場所は、思っていたよりもずっと透き通っていて温かかった。
「……そんなくっついて姫様暑くない?」
「情緒のない男ね」
つんとした匂いが鼻に抜けるのを誤魔化すように怒ると、やっとウィスターが声を上げて笑った。
*
なんとなくそのまま帰るのは惜しくて、そしてそれはウィスターも同じだったようで二人とも芝生の上に座り込んで黙っていた。
ふと、テラスの下にウィスターが来てくれた時を思い出す。
あの時もこうしてとりとめのない話をしながら、夜の時間が過ぎるのを贅沢に過ごしていた。
右手だけはウィスターに繋がれたまま、あれから随分と時が経ったのを風で感じる。
初めて夜二人で話した時はまだ春先だった。ウィスターについて夜中執務室に着いて行ったり、不安になって拗ねてみたり、思い返すとイリヤも少し恥ずかしい。
「……こうして二人で風にあたるのも久しぶりですね」
「最近は夜訪ねてくることもなかったものね」
「婚約したら、そりゃあね。夜あんな距離を置いて話す必要もないですし」
今は堂々とあなたの部屋に行けますしね、とさらりと言ってのけるウィスターの横顔を盗み見る。
さっきまでどこか焦って、真剣だった彼の顔は今は飄々としたいつもの表情に戻ってしまっていた。
「不安の種はとれましたか?」
「……うん。ウィスターが嘘ついたり誤魔化したりしなかったから」
「そりゃ良かった。ちゃんと芽吹く前に言えてえらかったですね」
「…やっぱり女性の扱いに慣れてるところがあるから腹立つけどね」
「それは昔からなので勘弁してください」
苦笑したウィスターの横顔をじっと見つめる。
整った鼻筋、遠くを見つめる瞳、浮いた首筋、笑うと刻まれる目の横の皺。夜の中でぼんやりと浮かぶ彼が愛おしい。
「全く、姫様はやきもち妬きですね」
イリヤの視線に気がついているのかいないのか、ウィスターは笑顔でひたすら遠くを見ていた。
「やきもち、嫌?」
「いいえ。かわいいですよ」
「……へへ」
何度言われても、ウィスターに褒められると頬が緩む。
浮かんだ笑顔を消そうとしておかしな顔になってしまったが、ウィスターがこちらを見ていなくて良かった。
「ウィスターは妬かないわよね」
「んー、まぁそうですかね」
「見せてないだけ?本当は妬いてるの?」
「妬きませんよ、姫様は俺にしか興味ないの、分かってますから」
「何よ、うわ腹立つわね!!何それ!」
「何と言われても、本当のことでしょう」
自信満々な様に腹が立つけれど、ウィスターはどこ吹く風だった。
こんなに胸を張って堂々と言われると悔しくて、妬いたところをどうしても見たくなってしまう。
「……私だって貴族学校で告白が後を絶たなかったんだからね」
「そりゃそうでしょう、姫様みたいな人が学友だったら大人気ですよ」
「踊った男性から誘われることも度々あったし」
「そりゃすごい、姫様モテモテですね」
ムキになって昔のことを持ち出してみるが、ウィスターの表情はどこまでも自然体だった。
何よ、自分ばっかり余裕こいちゃってと心の中でむくれる。
そういえば、とウィスターから視線を下ろすと、繋いだままの二人の手が目に入った。
昨年、海沿い。
うっとり思い出したりしたことはなかったが、レオンの力強さで指が絡めとられたことを思い出す。
「……去年、フェルディナに行った時にね、レオンと海に行ったの」
「はい」
「そこで……こうやって二人で海を見ながら、手を繋がれたわ」
「………………へぇ」
顔を上げると、やっとウィスターがイリヤを見下ろしていた。
何を考えているかは分からない表情のまま、眉を歪めている。
「妬いた!?」
思わず嬉しくなって身を乗り出すと、ウィスターが身体ごとこちらを向いた。足の間に挟まれて背中を掴まえられる。
「まぁ、面白くはないです」
その日は初めて大人のキスだった。
妬かせることには成功したが、しばらくイリヤはまともにウィスターの顔を見られなかった。




