踏み込む
「………」
「………」
固まってしまったウィスターをじっと見つめる。
(ちがう、こんな空気にしたかったわけじゃない)
心の中で言い訳が浮かんでは消えるけれど、それを言えるはずもなく、イリヤも黙りこくってしまった。
「……見てたんですか」
「……たまたま」
絞り出すような声、辛そうな顔。
ウィスターの言葉は否定ではなかった。
なぜウィスターの方が痛い顔をしているのか分からない。だがその表情を見ていられなくなって、イリヤは顔を背けた。
否定しないということは、何かしらあったということだろう。
ただ辛そうなウィスターの顔を見るとイリヤの心も傷んで、そんな顔をさせてしまったことにまた痛む。
「……すみません」
ウィスターの腕が目の前でゆっくり交差して、気がつくと背後から抱きしめられていた。
顔が見えないが、彼の広い胸に寄りかかる。
「ウィスターって、私のこと本当にすき?」
「好きです」
今まで聞きたくても真正面から聞くことはなかった。返事は分かってはいたけれど、何の迷いもない肯定にじんわりと胸が温かくなるのが分かる。
ただ身体に回される腕の温さと言葉だけが、綱渡りのように二人の関係を揺らしていった。
「いつから?」
「いつ?」
「ウィスターがすごく大事にしてくれてるのはよく分かるわ。けどいつの間にか妹から恋人になって、婚約者になって」
しばらく無言だったウィスターが、背後から肩に顔を寄せる気配がした。
「私は、あなたの心が知りたい。本当に好き?」
腕に力がこもる。
イリヤのために加減されている力が、なぜか縋られているようだった。
「……たぶん。昔から本当に姫様のことは大切でした。それこそ妹みたいな、家族みたいな」
「……」
「あなたの前では俺はただのウィスターになれた。あなたも王女ではなく、一人の人間としてぶつかってきてくれた。いつの間にかそうやって過ごすのが日常になって、恋人よりもずっと深いところにあなたがいた」
ウィスターの言葉は静かに心にしみて、視界では星が滲んだ。
「あなたがレオン王太子と結婚することになって、少し寂しかったけど祝福できました。ただ今思うとあの時は、あなたが本当に俺の前から消えるのがどういうことなのか、まだちゃんと分かってなかった」
「それは私の方が分かってたわね」
「そう、それは完敗です。大切な妹が他国へ行くわけですから多少寂しいだろうことは分かっていましたが、ここまでぽっかり穴が空くとは思ってなかった。そのあとあなたがいなくなって、あなたを失う怖さが分かってしまいました」
「……怖かった?」
「はい」
「ふふっ」
今までにないほどやけに正直で、神妙な声で話すウィスターに思わず笑い声がもれてしまう。「笑いごとじゃなかったんですよ」と不服そうに抗議された。
「診療所で再会できたときはもう離れたくないと思いました」
「そんなこと思ってたの?」
「ええ。……思い返すと、きっとあの時にはもう好きでした。でもあなたには嫌な記憶でしょう、すみません」
無言で首を横に振る。
確かにいい記憶ではないけれど、こんな話で思い返すのは、くすぐったくて嬉しい。
「それまでは幸せになってほしいと本当に思ってました。他の男を好きになって、俺の知らないところで幸せになって、それでよかったはずなんです」
「……」
「けど実際は全然良くなかった。あの時はまだレオン王太子と婚約していましたからフェルディナに帰すべきだと分かってはいたけれど、ずっとそばにいてほしくなった。姫様が泣くのも笑うのも、俺の腕の中がよかった」
「ふふっ……なんか、初めて聞く話」
「そりゃ言わないですよ」
「でも、嬉しいのに」
ウィスターの腕に手を当てる。ふっとウィスターの緊張が解ける気配がした。
「もうここまで言いませんからね、ちゃんと覚えててくださいよ」
「えー、なんでよ。何回でも言えばいいじゃない」
「嫌です」
苦笑したウィスターが、ゆっくりと左肩の後ろの傷跡を撫でた。
薄くなったし、目立たなくなったとはいえ、肩が大きく開いたドレスを着ることは無くなった。
そこに確かにある跡をなぞる指がくすぐったい。
「私はね、五歳くらいだったかな。ウィスターがにらめっこで遊んでくれた時」
「え、早っ」
「ふふ。ウィスターがすっごく笑ってくれて、『この人こんな風に笑ってくれるんだ』って思って。それで好きになったの」
「そっか。……確かに嬉しいですね」
「でしょう?それからずっと、ウィスターと話すのも、一緒に笑うのも、触れられるのも、全部好きだった」
「……うん」
「ケイトと二人でいる時のウィスターを見て落ち込んだけれど、あの時はこれで良かったとも思ったの。もう私はあなたを忘れられると思った」
「……」
「別に責めたいわけじゃないの。私は片想いだったし、そりゃあショックだったけど、今に始まったことでもないし」
「……すみません」
苦々しい低い声がイリヤの耳のすぐ側から聞こえる。
「でも、私はちゃんと特別?」
返事にはずいぶん間があいた。
蹄の音が規則的に聞こえて体を揺らす。後ろから抱きしめたままのウィスターが、小さなため息をついた。
「……ちょっと、外で話しませんか」
なぜウィスターが外を選んだのかは分からなかったが頷いた。
彼の一番深いところに足を踏み入れた気がする。
そこが泥だろうと沼だろうと、一度踏み入れた足を抜くつもりはなかった。




