甘える日
嫌がらせの手紙も贈り物もすっかり届かなくなって、気が付いたら季節はすっかり夏になっていた。
あの夜会でイリヤが下がったあと、ウィスターが何を話したのかは知らない。しかし聞くところによると、たまたま居合わせた関係のない人までも震え上がっていたという。
何にせよ落ち着いたことで、イリヤも恐怖を忘れた生活に戻っていた。
太陽の熱が部屋の気温も上げていて、イリヤは額にじんわりと滲む汗を拭った。
結婚準備はかなり進んだが時間も進み、式までは残り二ヶ月を切っている。ウィスターも政務が忙しい時期であるらしく、イリヤ一人で公爵邸で過ごす機会も増えた。
一人の時は自分の書斎になる部屋の整理をしたり、料理長やハロルドとお喋りをしたり、馬の世話を手伝ってみたりとなかなか楽しい。
「ウィスター、そろそろじゃないかしら」
「ん?そんな時間か」
「客間に降りておきましょう」
執務室の奥で難しい顔をして読み物をしていたウィスターに声をかける。
今日は馴染みの店主が結婚指輪を持ってくる予定となっていたため、ウィスターもあえて公爵邸で執務をこなしていた。
ウィスターが書類を置いて立ち上がったので、イリヤも本を置いた。
「姫様は何読んでたの?」
「アズライト家の歴史の本」
「堅った!もっと面白い本読めばいいのに真面目だな」
「そうよ。真面目なんだからちゃんと褒めてよね」
「……」
「無視!?」
話しながらウィスターがイリヤの座るソファに近寄ってきて、呆れた顔で見下ろしてくる。
最近はウィスターの執務中は、このソファがイリヤの定位置になりつつある。
下から見上げているというのに、端正な顔立ちが崩れないものだから感心してしまう。
無視かと怒ったことが面白かったのか、ウィスターが吹き出してイリヤの手を引っ張って立たせてくれる。
「何か面白いこと書いてあった?」
「初代アズライト公がとても立派に初代国王を支えてたことが分かったわ。誰かさんとは大違い」
「何だよ失礼な。支えてるだろ」
ウィスターは家で話す時は、かなり砕けた話し方になった。それはそうだ、あと二ヶ月も経ったら夫婦になるのだ。いつまでも敬語を使われるのもむず痒い。
けれどその雑な男らしい話し方がイリヤの心臓に刺さってしまう。
男性にそんな扱いをされたことなどない。レオンは気安かったが、それでもまだ壁があった。
いつまでこの人のことを好きになり続けるのか、自分が怖い。イリヤはこっそり胸を押さえた。
片想いしていた時よりも、婚約してからも、もっともっと気持ちが加速していく。
いつまで経っても心を奪っていく狡い男に手を引かれて、イリヤは一緒に執務室を出た。
「……すごい、綺麗ね!」
「ありがとうございます」
やがてやってきた店主に、注文していた結婚指輪を見せられてイリヤは歓声をあげた。
ケースの中に、大きい指輪と小さい指輪が並んで収まっている。
婚約指輪と重ね付けしたいというイリヤの希望と、意匠は揃ったものがいいという二人の希望を合わせて、結婚指輪はシンプルなものとなった。
大貴族同士の結婚だと、お互いの家名の宝石をあしらった豪華なものを作ることも多いらしい。
しかしウィスターが剣を扱うことも考えると、邪魔にならないデザインを自然に選んでいた。
その代わり意匠は凝っていて、あえて指輪本体を削った仕上げで、光に当たると指輪自体が輝いている。
「ウィスター様はいかがですか」
「いいんじゃないか。さすがだな」
「恐れ入ります」
店主もようやく安心したようで、ほっと微笑んだ。
「つけてみられますか。サイズ感などをもう一度ご確認ください」
「ええ、つけてみる」
そう促されて、イリヤは自分の小さい方の指輪に手を伸ばした。指輪に手が届く前に、ウィスターがさっと身を乗り出して指輪のケースを奪い取ってしまう。
「……え」
困惑の声を上げたイリヤを無視して、ウィスターがイリヤの左手を取り上げた。
そして小さな結婚指輪を、婚約指輪と同じ指にするりとはめてくれる。その動作は相変わらずスマートで、悔しいほどに絵になる。
何の抵抗もなくイリヤの指に収まった結婚指輪は、婚約指輪のアズライトと似合っていた。
窓の外の光にかざすと、大きな宝石は一つもないのに輝いて見える。その造形の美しさに、自然と笑顔がこぼれた。店主がお勧めする意匠から選んだが、本当に間違いなかったなと感心する。
「私もはめてあげる」
「ほう、どうぞ」
イリヤもウィスターに向き直って、大きい方の指輪を手に取った。
差し出されたウィスターの手は大きくて、節々がごつりとしている。手をとると温かくて、イリヤの手とは全く違う肌触りに緊張してしまう。
この手が、いつも優しく触れてくれているのだと余計な考えがよぎって、慌てて振り払った。
指輪をはめるのは意外と難しかった。だらりとしたウィスターの指にはめたところまではよかったが、第二関節で止まってしまう。
「……あれ」
自分でつけている時はこんなことなかったのに、と焦る。
店主とウィスターはじっと見つめているのでなんだか緊張してしまう。
力一杯押しこむと怪我をさせてしまいそうだし、とウィスターを見上げると、ウィスターはにやりと口角をあげてこちらを見下ろしていた。
「……できる?」
「で、できるわよ!ちょっと力もうちょっと抜いてよ」
「抜いてますよ」
笑いを堪えながら言われてムキになる。
指輪を上下左右にずらすように、傾けて押し込んでいく。するり、とはいかなかったが、少しずつ指輪はウィスターの薬指におさまった。
その辺りで笑いを堪えていたらしいウィスターがぷはっと吹き出す。
「式までには練習しましょうね」
「なによ。何でウィスターはうまいのよ。いつ練習したのよ」
「……さぁ」
人を食ったようにはぐらかされて、仕方ないじゃないと唇を尖らせる。妬いているのはきっとバレている。
それをまた笑うウィスターを、店主が微笑んで見つめていた。
*
夕食後は恒例となった窓際のソファに移動して、冷えたフルーツを口に運ぶ。
イリヤが来る時は料理長が毎回美味しいデザートを用意してくれていて、今日はこの季節にあう、爽やかな味のフルーツだった。
ウィスターも果物は好きなようで、いつもより目を細めて味わっていた。
窓の外、空は夕暮れのピンクと青。
その光にウィスターの黒髪が綺麗に映えて、イリヤは思わずウィスターの肩にもたれかかった。
「ウィスター。すき」
「どうしたの、急に」
「……なんか言いたくなった」
「そりゃどうも」
「ちょっと!他に言うことないの?」
「光栄です」
はぐらかすように笑ったウィスターはやっぱり上手で、イリヤが欲しい言葉はくれない。
「…早く一緒に住みたい」
「はいはい」
「帰りたくない!」
「はいはい、どうしたんですかもう」
諦めたようにウィスターの腕が肩に回って引き寄せられて、それでひとまず満足する。
子どもみたいに甘えると甘やかされるのがたまらなく気持ちいい。今日はどうしようもなく子ども扱いされたい日だった。
ウィスターは欲しい言葉はくれないけれど、欲しい仕草は大抵くれる。
「酔ってます?」
「今日は飲んでないわよ」
「素面でこれなの…」
呆れた声と一緒に手が伸びてきて、唇が触れた。
キスにもかなり慣れてきて、イリヤも目を閉じる。
夏の風がどこかからか入ってきて、髪を撫でて去っていく。
闇の中、最後におでこに軽く唇が触れるのはおしまいの合図。
「ウィスターは何で私のこと姫様って呼ぶの?」
やがて離れたウィスターに、ずっと思っていた疑問をぶつけてみる。
「え?昔から呼んでるから」
「うそよ。だって去年の今頃はずっと殿下だったもの」
「そうだっけ」
「そうよ。ちょうど一年になるでしょ、フェルディナへ行ったの」
「あぁ…もうそんなになるか」
ウィスターが目を細めて、ピンク色の雲が流れる空に目をやった。
初めての外交でウィスターとフェルディナへ行って、そういえば二人でこうして並んで、海を見ていた。あの頃とは距離も想いも全く違うのが懐かしい。
ウィスターも何かを思い出すような顔になっていたが、発した声は困っていた。
「何でと言われてもな…」
「昔は姫様で、いつからか殿下になって、最近はまた姫様になってる。なんで?」
「なんでそんな俺の呼び方に詳しいんだよ」
「当たり前でしょ好きだったんだから」
「そりゃ大人になったからじゃないの。敬意をこめて」
「じゃあなんで今は姫様なのよ」
「……」
押し黙ったウィスターになぜか胸がすくような思いになって、横顔をじっと見ながら答えを待つ。
顎に手を当てて考え込んでいたウィスターが、やがてどこか遠くを見ながら話し始めた。
「姫様ってさ、呼びにくいんだよ」
「え?」
思いもよらない言葉に、ウィスターの真意を掴みかねて素で聞き返す。それは気にしていないように、ウィスターは話を続けた。
「子どもの時は姫様だから姫様だった。でも周りが殿下って呼んでるのに気づいてさ。思ったんだよな、このまま姫様って呼んでたらずっと甘やかしてしまうって」
「……」
「で、殿下呼びに変えたら呼びやすい呼びやすい。それからはずっと殿下。それはなんか記憶にあるなー」
「じゃあ、今は?」
「今は…」
意外としょうもない理由だったな、と拍子抜けしたけれど、ウィスターの昔の話を聞くのは新鮮だった。
言い淀んだウィスターと目が合う。
「今は距離とる必要ないから?分かんねぇな、無意識だもん」
「えー、なにそれ」
「分からないモンは分かりません」
「じゃあ、私が姫様よりもっと呼びやすくて距離が近い呼び方教えてあげる」
「へぇ、なに?」
「イリヤ」
時々何かの蓋が外れたように名前で呼ばれたことはあるが、本当にたまたまだ。きっとウィスターも気にしたことがないくらい。
にや、と笑って教えてあげると、ウィスターが横を向いて吹き出した。
「ははっ……、なるほど。名前で呼んでほしいの?」
「うん」
「女性を呼び捨てで呼ぶ習慣がなくてなぁ」
「嘘。エレナはエレナって呼んでた」
「……バレたか」
「当たり前よ」
つられてイリヤも笑ってしまう。
呼んでもらえるかと期待して、ウィスターの顔を見つめて待っていたらぽんと頭に手が乗った。
「多分、いずれ勝手に呼ぶようになるよ」
「えーっ」
欲しい言葉はやっぱりくれない。
それでもこの時間と二人の距離だけで満足してしまうのは、やっぱりウィスターが狡いせいだ。
見惚れそうになったので目を逸らすと、雲の間から細い月が顔を覗かせているのが見えた。




