オニキス邸
オニキス伯爵邸は大きさや豪華さよりも、暮らしやすさを重視したような作りをしていた。
「イリヤ王女殿下、お久しぶりです」
そう礼をしたのはルイの妻、エレナ・オニキス伯爵夫人は金髪をゆるくまとめた、母親らしい落ち着いた立ち居振る舞いの女性だった。
目尻はやや吊り上がっていて、その奥の淡い水色の瞳は冷たささえ感じる。けれどゆったりとした微笑み方は柔らかかった。
話し方は淡々としていて、夫であるルイとは正反対に感じる。
「エレナ、久しぶり」
「久しぶりね。随分と忙しそうだと思っていたけれど、ご婚約おめでとう」
聞くとウィスターとエレナは同じ年で、貴族学校時代から顔見知りだったらしい。
ルイよりもエレナの方が長い付き合いだと聞いて、イリヤは心底驚いたばかりだ。
一緒に過ごすようになって、イリヤの知らないウィスターの暮らしが、ページを捲るように次々と現れてくる。
「ほら、アリシャも挨拶なさい」
「こんにちは、アリシャと申します」
イリヤに挨拶をしてみせたのは、まだ四歳の二人の長女。
エレナの腕には、もうすぐ二歳になるという長男のクリスも抱かれていた。クリスは機嫌が悪いのか、イリヤを睨みつけるように見てぷいと母親の肩にしがみついている。
二人の子どもの辿々しさと緊張しっぷりに、イリヤもつい笑顔がこぼれる。
「挨拶がお上手。アリシャ、クリス、よろしくね」
「……王女殿下、ご機嫌麗しゅう。ルイ・オニキスと申します」
そのやりとりを見ていたルイが、いきなり叩頭して名乗り始めた。
わざわざ言われなくてもルイのことは分かるので、目をぱちくりとさせていると、エレナが非常に面倒くさそうな顔をしてルイの腕を小突いた。
「どさくさに紛れてあなたも褒められようとしないで、みっともない」
「だって二人だけずるいじゃん!」
「……さ、王女殿下。庭でお茶でもいたしませんか」
「ねぇ無視!?俺のことは無視!?」
そのやり取りに今度こそイリヤは大きく笑い声をあげた。
なるほど、仲の良い夫婦らしい距離感である。
エレナに家の奥を促されたので、隣のウィスターの様子を横目で窺った。
「ん?行っておいで」
「うん」
腰に回していた手でそっと押されて、オニキス伯爵邸の奥の方へ足を踏み出した。
広い中庭は子どもが遊べるような遊具が置いてあり、芝生が眩しい。
初夏の日差しを遮るように大きな日よけで日陰が作られていて、その下に敷物が敷いてあった。イリヤとエレナ、子ども二人の四人でそこに座る。
「…ウィスターは?」
「騎士団のことで二人で話したいことがあるようですので、あとで来ると思いますよ」
「そうなのね。……そういうの、ルイが話してくれるの?」
「うちの人は何でも私に報告してきますので、うるさいくらいです」
呆れ混じりに言ったエレナがお茶を注いで、カップをイリヤに渡してくれる。
口ではうるさいと言いながら、彼女の口ぶりからはその困り事も幸せだと思っているのだろう。
確かにルイが「エレナ聞いてー」と何でも話しているのは想像に難くない。ウィスターは自分のことをペラペラと話すタイプではないから、そういうのは少し羨ましいとも思ってしまう。
「なんか良いわね、そういう何でも話せるの」
「殿下もご結婚されて、ずっと一緒に暮らすようになったらそうなりますよ。それが夫婦というもの」
エレナの言葉に目を伏せた。
夫婦という言葉がまだ、近いようで遠い気がする。
やがて、子ども二人はすぐに飽きたようで駆け出していってしまった。
二人にしか分からない言葉とルールで走り回る光景は微笑ましい。
エレナは淡々としていたが、それがむしろ変にへりくだられるよりはやりやすかった。
何より、エレナはウィスターの若い頃を知っているということが、イリヤの好奇心を刺激した。
「ウィスターって、それこそ十八歳の頃とか、どんな感じだったの?」
「私より王女殿下の方がご存知なのでは」
「十歳も離れてるから、あんまり覚えてないのよね。それに大人の話はよく分からなかったし」
「そうですね…」
エレナが昔を思い出すように目を閉じた。
ロマンチックなものというよりも、あまりよくない記憶を無理に掘り起こすような表情になる。
「同世代からは少し、怖がられていたかもしれませんね」
「えっ、そうなの?」
イリヤから見たウィスターは、優しくて少し意地悪な兄様だった。怖がられるというのは、随分と印象が違う。
「公爵家嫡男ということもありますし、本人はかなり物事をはっきり言うでしょう。それが怖いと言っていた友人がいまして」
そうしてエレナが語ってくれた話はこうだ。
エレナの友人で、とある男性に片想いをしていた女性がいたそうだ。
彼女はあの手この手で振り向かせようとしていたが、その男性はその想いに気づかず、その距離は一進一退を続けていた。
そして彼女は、ウィスターに恋の悩みを相談したそうだ。
どうやっても気づいてもらえない相手に、どうしたら気づいてもらえるか。
当時から責任感が強く、同世代から相談を持ちかけられることの多かったウィスターは、その話を聞くや否やこう言った。
「それそのまま言ってきたら?」
ーーーーーーー
「言いそう………」
ため息をついて眉間に手を当てるイリヤに、エレナも困ったように眉を下げながら笑った。
「これがウィスターには全く悪気がないんですよね。貴族は若いうちは恋愛を楽しむけれど、いつか親に結婚相手を決められて結婚してしまう子が多い。好きな相手と結ばれないのは普通のことなんです。だから、早く動けと。そういう意味だったんだと思います」
「でも言い方がひどいじゃない」
「ええ。友人は後から怒ってましたね」
そのまま言うと簡単に言うけれど、それがどんなに難しいか。
はいそうですかで伝えられるなら最初から悩んでなどいない。
その悩みが痛いほど分かって、イリヤは沈痛な表情で黙りこくった。
「でも大人になってからは段々と物言いも上手くなって、それに伴って社交界での人気も右肩上がり」
「そうだったのね」
「人間ですから、最初から完璧ではありません。本人なりに思うところがあって、努力したのではないですか」
イリヤの前ではいつも飄々と余裕たっぷりのウィスター。
大人で、何でも冷静に対応できるウィスター。
そんな彼にも未熟なところがあったのは当然として、その様子を見てみたかった気もする。
「夫婦って、どんな感じですか。楽しい?」
「……殿下は、不安ですか」
そう言ったエレナの目は、遠くを見ていた。
ルイとエレナは政略結婚だと聞いている。今でこそこの家で安定した暮らしを送っているが、最初の不安はイリヤ以上だったのかもしれない。
「すごく幸せだけど、時々不安。私はウィスターのことずっと好きだったから、今で十分幸せなはずなのに、まだ満たされないところもあって。この幸せはずっと続くのかなとか、ルイみたいに何でも話してくれるの良いなとか、ずっと一緒に暮らしていたらいつか、お互い嫌になっちゃうのかなとか。どんどん欲張りになっちゃって。このまま夫婦になれるのかな」
「ふふ、かわいらしいですね」
イリヤの言葉に、エレナが目を細めて、何かを懐かしむような笑みを浮かべた。
「私は政略結婚なので、お二人とは違うと思いますが…。殿下は今とても幸せなんですね。きっとどんどん幸せになれますよ。まだ婚約中でしょう、これからもっとウィスターのことを知っていくことになります。例えば主人は仕事でイライラすることがあると、必ず辛いものを食べたがるんです」
「か、辛いもの」
「辛いものを食べると落ち着く気がするそうです。だから、私が唐辛子のたっぷり入った料理を作ります」
「えっ?」
「それを食べて、辛い辛いって大騒ぎして、私に文句を言って、夜寝るまで辛いものの文句を言われます。けれど、それで怒りが鎮まるそうです」
「……ふふっ。なんか、面白いわね」
「でしょう。これはうちの人の特殊な例ですが、殿下とウィスターも一緒に暮らし始めたら、こういう夫婦だけの会話と行動を繰り返して、二人にしか分からない関係になっていくんだと思います。夫婦と一口に言っても、夫婦の数だけその在り方は違います」
真っ赤な顔をしてエレナに文句を言うルイと、それを淡々と受け流すエレナが想像できて、可笑しくなる。
しかしその時間すらもエレナが大切にしていることは、その口調からよく分かった。
「今は不安でしょうが、じきに楽しくなりますよ」
「…えへへ、実は今もたのしい」
「まぁ素敵」
二人で顔を見合わせる。エレナは淡々としているように見えるけれど、よく見ると眉が上がったり下がったり、口が微笑んだりと表情も豊かに思えた。
「お待たせー、何話してんの?」
背後からルイの明るい声がして、二人揃って振り返った。二人が並んでこちらへ歩いてくる。
「あなたが辛いものが苦手って話よ」
「えっ!?そんな恥ずかしい話殿下にしたの!?」
ぎゃあぎゃあと揉め出す夫妻(というよりルイ一人)を横目に、ウィスターがイリヤの頭にぽんと手を置いた。
「ただいま」
「おかえり」
イリヤにただいまと言ってくれるのも、婚約者だからだろうか。これからもっと楽しくなるのだとしたら、それは幸せだろうと考えた。




