嫌な予感
怪我をしたまま山で一晩過ごした時よりも重症になった理由は分からないが、ウィスターがお見舞いに来てくれたあと、体調はゆっくり回復した。
数日経つと食事も普通に食べて、日中は普通に部屋で過ごせるようになった。
その頃、王宮の医者からも外出許可が下りた。
プロポーズから一月近く経ってしまったことになる。
その間、ウィスターはできるところから準備も進めてくれているようで申し訳ない。
イリヤも起き上がれるようになってから、机の上に山積みになっていた手紙に手をつけた。
婚約発表をしてから、祝福の手紙がひっきりなしに届く。レオンとの婚約の時もそうだったが、これに一つ一つ目を通すだけでも大変な作業だ。
そうしている間に、次のアズライト公爵邸への訪問日も決定した。
五ヶ月なんて長いと思っていたのに、あっという間にあと四ヶ月。イリヤがしたことといえば、公爵邸の見学と指輪の打ち合わせくらいだ。
イリヤは本格的に焦りを覚えながら、次の手紙を手に取った。
「…あら?差出人がないわね」
手紙を表裏ひっくり返して見ても、差出人の署名がない。真っ白な封筒は上質とはいえず、庶民の間で普段使いされるような質感だった。
書き忘れたのかしら、と何も考えず封を開けた。
中には真っ白なメッセージカード。ただそれは、祝福の手紙というにはあまりにも異質なものだった。
カードは何の柄もない、本当に真っ白なものだった。
カードの左半分にはウィスターの家名、右半分にはイリヤの家名が書いてある。
そして、イリヤの家名の上にだけ、まるでナイフで突き刺したような穴が無数に開いていた。
「………なにこれ」
まじまじとカードを見つめる。ぱっと見では分からなかったけれど、無数に開いた穴が無造作で、荒い。身体の奥、芯から冷えるような感覚が背筋に染み込んだ。
それは、あからさまな悪意。
「……」
正直、好意的な反応ばかりではない。
半年前はフェルディナの王太子と婚約していたのだ。しかし、ある程度の嫌味であればイリヤも流せる。
カードをよく見ると、家名の書いた文字は少し崩してあった。筆跡からは男女どちらが書いたものかすら分からない。
真正面から悪意をぶつけられたことはあまりない。気味の悪さにイリヤは身震いして、カードを封筒に入れて、引き出しにしまった。
他の手紙と一緒にしておくのも気持ち悪い。
その後他の手紙を読む気分にもならなくて、イリヤは椅子から立ち上がった。
「ごきげんよう、殿下。いらっしゃい」
「こんにちは」
三度目の打ち合わせで公爵邸を訪れたイリヤを、ウィスターが笑顔で出迎えた。
前回までは客間を使っていたが、今回からは部屋が変わって居間に通される。広さは少し狭いが、客間よりも落ち着くようなゆったりとしたソファと調度品で揃えられていた。
ウィスターの隣に腰掛けると、目の前にティーカップが置かれる。
「どうですか、具合は」
「うん、もうすっかり咳も出なくなったわ。ご心配おかけしました」
「それはよかったです」
さぁて今日は、と頭を切り替えようとしていた時、頬に温かいものが触れた。
気がついた時には、顔を傾けたウィスターと唇が重なっていた。ウィスターの息に触れそうなくらいに近い。ふわりと彼の香りがする。
いきなりのことに驚いて、でもやっぱりイリヤの頭は支えられていて逃げられない。
さっきまで公爵邸の居間にいたはずなのに、いつの間にか二人の世界に沈んでいくような感覚がする。イリヤは沈みきる前に、思わずウィスターの腕を掴んだ。
その瞬間にはウィスターがすっ、と離れて、頭の上に口付けを落とした。
「な、なんで」
「婚約者なので」
しれっと言ったウィスターが前に向き直って、足をゆったりと組んだ。
その飄々とした態度とは反対に、イリヤにはまだ照れと恥ずかしさ、経験したことのない艶かしさが残って、どこかまだ背徳感がある。
「…では、失礼いたします」
少し離れた背後からハロルドの声がして、イリヤは飛び上がった。
ーーこの男、執事がいるのに普通に…!!
確かにハロルドは口も堅いだろうし、執事というのは時にいないように扱うものだ。それでも人の目には変わりない。
振り返ることもできず、イリヤの泳いだ視線に気づいたウィスターが隣で吹き出した。
*
二人で改めて話した結果、ウィスターの提案で新しいドレスを仕立てることに加え、前のドレスも店に預けることにした。
生地はいいものなので、別の社交用のドレスに直してくれるという。
イリヤにとっても、今後も使えるものになるということで納得の提案だった。
それからは目まぐるしい忙しさだった。
公爵邸や王宮で、時々時間を合わせて打ち合わせる。
公爵邸で話をするときは、夕食までご馳走になって帰るのが恒例になった。
料理長はイリヤが食べて帰るのが嬉しいようで、毎回趣向を凝らした料理やデザートを用意してくれる。
食後は隅のソファに移動して、二人並んで座ってゆっくりとする。ウィスターは相変わらず揶揄ったり意地悪を言うこともあったが、あまり口を開かずじっとイリヤの話を聞いてくれることもあった。
日はどんどん長くなり、はじめは食後に星空が見えていたのに、夕焼け空へと景色が変わっていた。
太陽の暖かさと、隣に座るウィスターの温もりが心地いい。
イリヤはすっかりその時間が気に入っていた。
その日々がしばらく続いたある日、公爵邸で招待客のことについて二人話し終わって休憩していると、ウィスターが何気なく口を開いた。
「…そういえば、ルイなんですが」
「ルイ?ルイがどうしたの」
オニキス侯爵家の嫡男で、儀礼称号として伯爵位を名乗っているルイ。
ウィスターの友人で騎士団副団長、イリヤも心置きなく話せる程度には仲がいい。
明るく人懐っこい大型犬のような彼の顔を思い浮かべながら、イリヤは聞き返した。
「今度殿下を連れて遊びにきてくれと言ってるんですが、どうです?」
ルイは、今は騎士団の仕事が主なため、オニキス領ではなく王都に邸宅を構えている。
しかし、イリヤも足を踏み入れたことはない。
「へぇ、いいじゃない!行ってみたい!」
「奥方もご紹介したいそうです」
「エレナ夫人ね。実はあまり話したことないのよね。私が社交デビューしたときは産後でらっしゃったし」
「子どもが二人いるので賑やかですよ」
「わぁ、楽しそう」
確か、ルイにはまだ幼い子どもが二人いるはずだ。
ルイは子どもの話になると顔が蕩けてしまう。そんな二人に会えるのも、妻を紹介してくれるというのも嬉しい。
「じゃあ、今度。奥方は俺と同じ年なんで、実は家族ぐるみで付き合いがあります。あなたもいずれよく顔を合わせることになるでしょうから」
「ウィスターもよく家には行くの?」
「最近は全く行ってないですね。前はよく休みに招待されてました」
これもイリヤの知らない、ウィスターの時間の過ごし方だ。
へぇ、と相槌をうちながら、子どもの相手をするウィスターを思い浮かべる。優しいんだか乱暴なんだか分からないけれど、ウィスターはやけに子どもに好かれるところがある。
そんな姿がまた見れると思うと、心の中でだけにやけてしまった。




