熱
旦那様は、怒ると無言になる。
ハロルドは深い深いため息をついた。
三日前、婚前打ち合わせのため、王女殿下が公爵邸にやってきた。その時に何があったのかは分からないが、ハロルドが仕える主人はその時から機嫌が悪い。
表面上は何も変わらない。何かあれば指示を出し、仕事をし、普段通りに過ごしている。しかし身近な人間には、そのピリついた空気が伝わってくる。
「やっぱり王女殿下とのご結婚、ストレスなのでしょうか…」
隣で料理長が悲しそうにしながら、グラスを磨いている。
アズライト公爵邸は静かな使用人が多いが、この料理長は明るく人懐っこい性格をしていた。それに救われる時もあり、現にハロルドもこうして厨房で立ったまま紅茶を飲んでいる。
王女殿下は先日婚約が破談になったばかり。王宮で育ったお姫様にしては柔らかい人物だが、ウィスターには遠慮なく物を言うところもある。
ウィスターにとって、数少ない気を使う相手であろう人間を妻にするなんて、という料理長の心配も分かるが、ハロルドは眉を下げて嗜めた。
「そういうこと言うもんじゃありませんよ。お二人は小さい頃からの仲ですし」
「今日、王女殿下お見えになりますかね…」
「お見えになるでしょう。あちらも大人ですよ」
ウィスターが怒ったあの日から数日経って、最初の王女殿下の訪問日が今日だった。
どんな雰囲気になるのか、そもそも来るのか。アズライト公爵邸にはどこか緊張が走っていた。
当事者であるウィスターは、今日は王宮に出向かず執務室にこもっている。
「しかし、女性と喧嘩してこのような空気になるのも珍しいですね」
「えー、そうなんですか?」
同席して一緒に休憩していたメイド長が、興味津々といった様子でハロルドに尋ねた。
「あったとしても、屋敷に持ち込むような方ではないでしょう、旦那様は」
「それもそうですね、怒っておられるのも珍しいですし。普段から冷静ですものねー」
「しかしやりにくいですね」
「ハロルドさんもそう思われるのであればよっぽどじゃないですかぁ…。一応夕食はご準備しますけど…」
「あなたはただ殿下に食べてもらいたいたけじゃないですか」
呆れて、しょんぼりと野菜を拾い上げている料理長の背中を見やっていると、別の使用人が厨房に入ってきた。
「ハロルドさん、王宮から使者が来ました」
えっ!?と厨房全体の空気が一気にひりついた。先程までは、何だかんだ王女殿下は来るだろうと楽観視していたが、これは。
「やっぱり〜〜」
と嘆く料理長にため息をついて、ハロルドは振り返り、玄関にいるだろう王宮の使者の元へと向かった。
「……風邪?」
「はい、ですから本日の打ち合わせはまた延期でお願いしたいと」
どうやら王女殿下はお風邪を召したらしい。
先日は雨が降っていて、気温も落ちていた。
王宮からの使者の伝言を伝えたウィスターは、少し考え事をしているような素振りを見せてから、やがて口を開いた。
「殿下の様子は?」
「申し訳ございません。そこまでは聞いておりませんで」
「そうか。…こちらも使者を出して、殿下の加減を聞いてこい。あと、ついでに見舞いの花でも送ってやれ」
「承知いたしました」
おや、優しい。ハロルドは顔に出さないように驚いた。
まぁ、婚約者が体調を崩したとなったのなら、無視するわけにもいかないだろう。
しかし加減を聞いてこいときた。
怒ってはいるけれど、ちゃんと気にはしているらしい。
ハロルドは深く腰を折り曲げた後、使者と花を準備するために急いで執務室を出た。
*
王女殿下の具合は、かなり悪いらしかった。
初日は使者を出したところ、昨夜から高熱により休んでおり、あまり食欲もなく伏せっているという回答だった。
王宮の医者にも診てもらっているようで、詳細はまた明日知らせるという返事に、ウィスターは少し安心したような顔をしていた。
それからしばらくは、夕方頃に王女殿下の体調を知らせる使者が公爵邸に訪れるようになった。
ウィスターは王宮にもよく顔を出すのだから、直接誰かから聞いているのかもしれないが、ハロルドは一日の終わりに、彼女の体調をウィスターに報告するのが日課になった。
しかし、王女殿下の体調はなかなか改善しないようだった。
高熱は何日も続き、食事も消化にいいものを数口。咳がひどく、声もかすれてあまり出ないという。
状態はあまり変わらず、王宮の医者からは「肺炎かもしれない」と言われていた。
そんな日々が続いた後、ハロルドは料理長から相談を受けた。
「…旦那様、最近ワインをあまり飲まれなくなってしまって、何か聞いてませんか?」
「飲まれない?」
ハロルドは驚きつつ、料理長からワインボトルを受け取った。まだ半分ほど中身が残っている。
ウィスターの晩酌は毎日ではないが、飲む日があればかなりの勢いでボトルが無くなってしまう。
見張られて飲むのが嫌いであり、「手酌でいい」と言って静かにワインを傾けるウィスターは、そこだけ切り取ると公爵にはとても見えない光景だった。
「はい、グラス半分も飲まれないことが続いておりまして。お口に合わないとか、ハロルドさんなら聞いているかもしれないと思ったんですが」
「…聞いてないですね」
「そうですかぁ〜…。このワイン、高かったんだけどな」
残念そうな料理長は置いておき、ハロルドはまた深い深いため息をついた。
数日は怒っていたウィスターも、今はすっかり平常運転に戻っていた。公爵邸の雰囲気も、以前と変わらない。
そう思っていたのは自分だけだったようだ。
たっぷり十日は経ってようやく、王宮からの知らせは久しぶりに明るいものとなった。
「王女殿下の熱は下がり、本日は起き上がって水分はとれているようです。声はあまり出ないけれど、咳も落ち着いて、医者の見立てではようやく快方に向かっているとのことでした」
「…そうか」
王宮の使者の言葉をウィスターに伝える。
食堂に座って新聞を広げていたウィスターが、ふと微笑んだ。
「快気祝いの花でもまた送ってやってくれ」
「かしこまりました」
「……長かったな」
「はい。早くお元気になられると良いですね」
「ちょっと雨に降られたくらいで、さすが姫様だ」
そう笑って、また新聞に目を落としたウィスターに、一礼して下がる。
王女殿下が回復に差し掛かった頃、ちょうど雨の季節も終わろうとしていた。




