赤い顔
「式の準備って……こんなにあるの…!?」
イリヤは分厚い本のようになっている紙の束を読みながら絶句した。
結婚式の準備と、二人で住むための準備。国内や国外への書簡の準備、重要諸侯への挨拶。
結婚するまでにやるべきことを分かりやすくまとめてられているのだが、それだけで膨大な量になっており、イリヤは宙を見上げた。
「二人初めての共同作業と言われておりますわね、結婚準備」
「……確かに」
マーヤの言葉は信憑性がある。鬼気迫る顔でイリヤは頷いた。
プロポーズを受けた後は忙しかった。
家族は皆祝福してくれて、一週間後、婚約披露の夜会が行われる予定となった。
「…私は二回目だもの、恥ずかしいな」
「お前だけならな。アズライト公爵の結婚にそういう場がないという訳にはいかない」
そう国王に言われて、半分ウィスターのためだと思って自分を納得させる。
婚約披露自体は、滞りなく行われた。
なんだか照れたけれど、ウィスターはいつもと変わらない様子だった。
違うのは、二人で控室に入って、一緒に入場して、夜会の間もずっと一緒だったこと。
他の男性と踊らなくてもいい、それはイリヤにとって新鮮な夜会だった。
そして式の日取りは五ヶ月後、十一月に決まった。
五ヶ月かぁ、結構長いなと思っていたけれど、
「……準備期間足りるかな…」
「私もお手伝いしますから。ではお嬢様、行きましょう」
マーヤに促されて立ち上がる。これからしばらくは、アズライト公爵邸に通い詰めることになりそうだ。
そうして到着したアズライト公爵邸は懐かしかった。
子どもの頃は何度も遊びに来たことがある。王宮からは馬車で十分ほどの距離にあり、近いのは実に便利だ。
大きな玄関に広い馬車寄せがある。
重厚な造りの公爵邸は、煌びやかで開放的な造りの王宮とは全く違う存在感がある。
「イリヤ様、お待ちしておりました」
「ありがとう」
公爵邸の執事に出迎えられ、中に入った。広い玄関に、正面に大きな階段が吹き抜けている。
「旦那様がお待ちです。こちらへ」
そうか、ウィスターはこの家では旦那様と呼ばれているんだ、と変にドキドキしてしまう。
子どもの頃は、ウィスターもこの家では坊ちゃんだった。
今やこの大きな家の当主なのだと、改めて圧倒される。
執事が案内した部屋は、客間のようだった。正面に大きな窓がある広い部屋。
中央にはよく整えられたソファーとテーブルが置かれていて、部屋の隅には調度品や本棚がずらりと並んでいる。
「お見えになりました」
執事が扉を開けた音で立ち上がった人影はウィスターだった。
家での気を抜いた格好なのだろう、カフスボタンが不要なシャツ一枚にネクタイも締めず、帯刀もしていない。
そんなプライベートな姿にまた緊張が走る。
(私……この人と一緒に、住むの……?ここで……?)
それは全く現実味がなかった。
五歳の頃から片思いをして、やっと結婚を認めてもらって、嬉しいはずなのに。
胸にあるのは不安と、困惑。夢の中のような心許なさ。
「わざわざすみません。どうぞ」
「…ええ」
固くなってしまうのは許してほしい。
イリヤと反対に、リラックスした様子のウィスターに促されて、端っこの椅子に腰掛けた。
広い客間が居心地が悪い。
「…何もそんな緊張しなくても。何でそんな端っこに」
ウィスターが苦笑して、自分が座っている真ん中の大きなソファーに手招きをした。
彼の目の前のテーブルには、イリヤが見ていたのと同じ書類が散らばっている。
イリヤの後ろからやってきた使用人が、ウィスターの目の前と、その隣に紅茶のカップを置いて行った。
どんな教育を受けたら無人のテーブルに紅茶を置く使用人が出来上がるのか、もう意味が分からない。
「…そりゃあなたは緊張しないでしょうけど」
「殿下はするんですもんね」
渋々立ち上がって、ウィスターの隣へと歩く。
婚約披露の夜会は二日前だ。各地に書簡ももう出した。正式な婚約者として会うのは、これが初めて。イリヤは左手にウィスターにもらった指輪を嵌めている。
なんでウィスターはそんなにリラックスできるのか、イリヤは憮然とした面持ちでソファーに座り直した。
絶対私の方が好きじゃん、こんなの。婚約者になっただけでまた緊張するなんて。
そんな大人しいイリヤを面白がるように、ウィスターが口を開いた。
「ここでまた照れるとは、本当に難しい人ですね」
「仕方ないじゃない…」
今ばかりは揶揄われても仕方ない。イリヤは赤くなった頬を隠すように少し反対側を向いて、紅茶のカップを手に取った。
*
しばらくは執事や使用人たちが出入りして、何やら色々とウィスターにお伺いを立てていた。
その会話の内容はイリヤにはまだ全く分からない。この家の話をして、端的にウィスターが指示を出していた。
「ハロルドと申します。イリヤ様、今後ともよろしくお願い申し上げます。何かご不備がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
最後に執事がイリヤに挨拶をして、部屋を出ていった。
バタンと扉が閉まる音がして、気づけば誰もいない。
恐る恐るウィスターの方を見ると、ウィスターはソファーの背もたれに肘をついてじっとこちらを見ていた。
「……」
「……」
しばらく目が合う。ほとんど黒に見える群青色の瞳が、じっとイリヤを捉えていた。
「……何よ」
「いえ。とりあえず」
ウィスターが向き直って、正面のテーブルに散らばった書類を何枚か手に取る。
それからは早かった。
やるべきことを、イリヤが一人でやるもの、ウィスターが一人でやるもの、二人でやるもの、その他の人にふるものにテキパキと分ける。
急ぎのものからゆっくりでいいもの、打ち合わせが必要なものは期限も確認。
準備期間から逆算して、順序を決めていく。
ある程度見て分けていたらしいウィスターだが、流れるような説明が終わる頃には紅茶もすっかり冷めていた。
「……こんな感じで進めるんだろうと思っていたのですが、どうでしょう」
「え、すごいわね」
まとめて目を通して絶句していたイリヤとは大違いである。すでにある程度道筋が立っていたことに、イリヤは素直に感動していた。
その頃には緊張が少し和らいで、少しだけ思考が回るようになる。
「私は全然そこまで考えきれてなかったから、助かるわ」
「じゃあこんな感じで。予定というのは狂うものなので、とりあえずさっきのは目安です」
「分かった」
「他に、殿下が何か気になることとか、希望はありますか」
そう問われて、うーんと腕を組んで考える。
希望と言われても、特に今決まった流れで不満はなかった。まだ具体的にイメージできていないのが強い。
「今のところないかしら」
「よし、じゃあ今日のところはこれで終わりです」
「えっ、もう!?」
慌ててウィスターの方を見る。
今日は一日中今後の段取りの打ち合わせの予定だったから、こんなにあっさり決まってしまうとは思わなかった。
もしかしてウィスターは忙しくて時間がとれないのかもしれない。
書類を手に持って眺めていたウィスターが、「はい」と言いながらニヤリと笑った。
「まずは姫様に、この家に慣れてもらわないと」
「う……ごめんなさい」
「何を謝ってるんですか。元よりその予定です」
ウィスターが立ち上がって、イリヤの頭をぽんぽんと撫でた。
「おいで、中を案内しましょう」
右手を差し出される。その立ち振る舞いは相変わらず隙がなく滑らかだ。
どこまでも普段通りのウィスターが悔しい。
ウィスターの手に自分の手を乗せて立ちあがると、きゅっと手が少し強く握られた。
安心させる時の、彼の癖。それすらも変わらなかった。




