涙
何となく部屋には戻れなくて、その場から動けなくて、ただ涙が一筋流れただけだった。
ウィスターを信じていないわけではない。
ただ、自分があまりにも小さくて、安っぽい子どもに見えただけ。
もう日付も変わってしまっただろう。渡すのはやめよう。
そう考えながらしばらく経って、急に執務室の扉がガチャリと開いてイリヤは文字通り飛び上がった。
「きゃっ……!!!」
「えっ!?」
入ってきたのはウィスターだった。中に人影があるのに気づいて、反射的にだろう、右手で剣の柄を握り込んでいる。
「で、殿下?」
「……」
驚いたので心臓が飛び出しそうなほど跳ねていた。思わずよろよろとソファーに座り込む。
ウィスターはすぐにイリヤだと気づいたのか剣から手を離した。
「何でここに、さっき石投げたけど出てこなくて、うわ何で泣いてるんですか」
ウィスターも驚いたのか、早口で喋りながら後ろ手に扉を閉め、イリヤの顔を見てまたギョッとした。
イリヤは何も言葉を発せず、ただ胸を押さえてウィスターをぽかんと見上げていた。頬が濡れていたのがバレたらしい。
慌てたようにウィスターがイリヤの目の前にしゃがみ込んだ。
無意識に、持っていたプレゼントをスカートの陰に隠す。
「どうしたんですか?」
「…………びっ、くりした……」
「びっくりしたのは俺の方ですよ、侵入者かと思って叩き切るところでした」
思わず責任をなすりつけてしまう。
絶対勝手に入ったイリヤが百%悪いのだが、ウィスターは怒るそぶりもなく、イリヤが膝の上に置いた手をきゅっと握った。
「鍵は?」
「……開いてた」
「そっか。驚いて泣いたんですか?」
「……うん」
「嘘つけ」
ふっと吹き出したウィスターが雑に親指で頬を拭った。
ソファーに座ったイリヤのすぐ下にしゃがみ込んで、覗き込んでいる。いつも見上げてばかりだった顔が目線の下にあるのは、不思議な感覚だ。
「ごめんなさい、勝手に入って」
「それはいいんです。どうしたんですか」
「…泣いてないもん」
「えっ?」
「泣いてないもん」
「…はいはい、泣いてないですね」
まるで子どもをあやすように、握った手をさすられる。
それが嬉しいけれど、子どもに見られたくないという自分の気持ちとは裏腹に、口から出るのは子どもっぽい言い訳だった。
「じゃあ泣いてないお姫様はここで何してたんですか」
切り口を変えて尋ねたウィスターが、ふと自分の横に目をやった。
ウィスターがしゃがんでいるので、テーブルに置いてあるプレゼントの箱が隣に見える。まじまじとそれらを見たウィスターが、ははぁと訳知り顔で頷いた。
「もういいです、大体分かりました」
「…多分違う」
「へぇ。じゃあ自分の口で言ってみてください」
どこか面白がっているウィスターは本当に不敬だ。イリヤは軽く唇を尖らせた。
「…言っておくけど、あなたを信じていないわけじゃないから」
「それで?」
しゃがみ込んだままのウィスターが膝の上で頬杖をついた。
「お見合い、するんでしょう」
「お見合いというか、まぁ会うだけですよ。会わずに断るわけにもいきませんし」
「断れるの?」
「え、はい。というか何で知ってるんですか」
「マルガレッテ王女から手紙もらったから。明日お茶することになってる」
「あぁ、そうなんですね。道理で」
「もしかしてこの話、父上から言われてない?」
「…なぜですか」
ウィスターの言い方にはどこか含みがあった。何か言いたいことを我慢しているような。
「父上なら、結婚に反対するだけじゃなくて、縁談をウィスターに持ちかけるくらいやりそう。ウィスター断りにくいでしょう」
「…断りますよ」
否定はされなかった。ウィスターは静かに首を振っただけだった。
「私から、父上にお願いしてみようか」
「そんなことしたら逆効果ですから、大丈夫」
「でも…」
「姫様。俺に任せてくれたんでしょう。大丈夫」
なぜイリヤが欲しい言葉がウィスターには分かるのだろう。
イリヤがここ数日ずっと欲しかった言葉を連呼して、ウィスターが微笑んだ。
「…明日マルガレッテ王女と会って、どう話したらいいのかも分からないし」
「普通にしてればいいですよ。彼女には明日俺から話します」
「ウィスター、私のこと、何もできない子どもだと思ってない?」
イリヤが放った言葉は、ウィスターに真正面から刺さった。刺さった顔をしていた。
「私だってもう十八歳なの。確かにあなたにお願いしたけれど、私だってやれることはやる。役に立たないかもしれないけど、でもやってみなきゃ分からないじゃない」
「……」
「私も、大人になりたい」
「…大人ですよ」
「嘘。姫様姫様って、子ども扱いしてるじゃない」
「嘘なもんですか。子どもになんかずっと見えてない」
ウィスターが眉をしかめた。
「見えてないけど、ごめん。せめてちゃんとするまでは、子どもって思わせといて」
「…やだ」
「その方が俺が楽なんだ」
「……」
黙りこくってしまった。そう言われると、何も言えない。
ウィスターに甘えているのも分かってる。子ども扱いは嫌だとむきになっている自分が大人なのかと言われると、自信もなかった。
「今のままで充分、助けてもらってる。こうやって話してくれて、言ったでしょう。俺も癒されるって」
「それだけ?」
「あなたにしかできませんから」
イリヤの手を握ったままの手に力が入った。
「…困らせてごめんなさい」
そう言って、イリヤはウィスターの首に腕を回した。そのまま力をこめて、ウィスターの首元に顔を埋める。
イリヤの体重がかかっても、ウィスターはしゃがんだままよろけることなくイリヤを抱き留めた。
背中に手を回して、はちみつ色の髪の毛をゆっくり撫でる。
「……ところで、私は姫様からプレゼントはもらえないんですか」
「えっ」
爆弾発言に思わず体を離して、ウィスターを見た。
さっきまでは真剣な顔をしていたのにいつの間にか、にやりと口角が上がっている。
「……」
「あれ?おかしいですね。今日は絶対寄るようにと言われたんですけど」
「……はいこれ」
くそ、覚えてやがったと毒付いて、手探りでお菓子の箱だけを引き当てて渡した。
少し雑になってしまったが、まさかウィスターから催促されるとは思わなかった。
「驚かせようと思ったのに」
「バレバレでしたよ。あ、でもここに立ちすくんでいるのは本当に肝が冷えました」
「分かってたの?」
「分かりやすすぎます」
くつくつと笑いながら箱を受け取ったウィスターが、ちらりと箱を見た。
「…お菓子ですか?」
「甘いもの、食べたいかと思って」
「確かに、嬉しいです。ありがとうございます。…これだけ?」
「これだけって何よ!」
「いやぁ、絶対これだけじゃないんだろうなぁと思って。どうせ何か失敗したんでしょう」
「……」
「隠しても無駄ですよ。分かりやすすぎます」
イリヤはため息をついた。本当は子どもっぽくて嫌だと思っていたが、子どもでいて欲しいとのウィスターの言葉もあって、諦めがついた。
渋々もう一つ隠していた箱をウィスターに手渡す。
「…お守り、作ってたらウィスターのも作りたくなって」
「え?あれ作ってくれたんですか?」
ウィスターは意外そうに眉を上げて箱を見た。
「開けてもいいですか」
「……どうぞ」
箱を受け取ったウィスターが立ち上がって、イリヤの隣に座る。
月がまた傾いた気がする。光の当たり方が変わって、ウィスターの顔がよく見えた。
箱から取り出したお守りは、艶やかな生地で作った紺色のお守り。銀色の糸で刺繍がしてある。紺色にしたのは、ウィスターの普段着や騎士団の服でも目立たなさそうな色だったからだ。
「…これ、姫様が縫ったんですか」
「うん」
「へぇ、上手いですね!」
「お裁縫は習うもの。料理は全然だけど」
「この建国祭のお守り、実は俺もらったことないんです。中は?」
「私が小さい頃から持ってる、アレキサンドが入ってる。欠片石だけど」
お守りを取り出してじっくり見るウィスターの横顔をチラッと見た。どこか少年のようだった。
驚いてくれたかもしれない、と心の中でガッツポーズをした。
「ありがとう、大事にします」
「普段使いしてよね」
ウィスターの口真似をして言うと、ぷはっと吹き出された。そのまま面白そうに笑っている。
「何よ!忙しい中頑張って作ったんだから使ってよね!サイドテーブルに飾らないでよ」
「持ち歩きますよ。こんな忙しい時期に大変でしたね」
「全くよ。なんでこんな時期に生まれたのよ」
「ははっ、なんであなたはそんなに面白いんですか」
困ったようにウィスターが笑って、そっと頭のてっぺんに顔を寄せた。
ちゅっと音がして、頬が赤くなる。
ずっと繰り返したら慣れるのだろうか、まだ慣れる気配はない。




