第12話「幽霊なんているわけない!」 前編
秘密防衛機構SDF本部。
朝の静かな廊下に、研究区画から響いた大声が突き刺さった。
「白石くぅぅぅぅん!」
資料を抱えて歩いていた白石しおりは、その場でぴたりと足を止めた。
呼ばれた。
しかも、研究所の端から端まで届きそうなほどの大声で。
周囲にいた職員たちが、一斉に白石へ同情の視線を向ける。誰も助けようとはしない。天才寺源一郎博士から名指しで呼ばれた人間を助ければ、次に呼ばれるのは自分かもしれないからだ。
「……はいはい、今行きます」
白石は抱えていた資料を受付の机へ置き、博士の研究室へ向かった。
扉の前まで来ると、中から何かをひっくり返す音がした。
「ない! ここにもないぞ!」
「博士、開けますよ」
返事を待たずに自動扉を開く。
研究室は、いつも以上に散らかっていた。
机の上には分解された変身装置の試作品。床には用途不明のケーブル。壁際には先週まで巨大送風機だったはずの機械が、なぜか炊飯器のような形へ改造されている。
その中央で、天才寺博士は冷蔵庫へ上半身を突っ込んでいた。
「博士、どうしました?」
「白石君!」
博士は勢いよく振り返った。その手には、空になった小皿が握られている。
「大至急、シークレットファイブを招集するんじゃ!」
「何事ですか?」
白石の表情が引き締まる。
「今日は実験も訓練もないと言っていましたよね。まさかギアノクス帝国が大規模侵攻を?」
「ギアノクス帝国どころではない!」
博士は空の小皿を白石の目の前へ突き出した。
「わしのプリンがなくなっておるのじゃ!」
「…………」
白石は小皿を見た。
次に博士を見た。
もう一度、小皿を見た。
「それで、シークレットファイブを?」
「当然じゃ!」
「却下です」
「まだ何も説明しとらんぞ!」
「プリン一個のために、無給で戦っている皆さんを本部へ呼び出すことはできません」
「一個ではない! 高級卵を使った三層仕立ての特製プリンじゃ!」
「なおさら私たちの経費では買えません」
「わしの私物じゃ!」
「でしたら警察へどうぞ」
「この研究所の中で起きた事件を外部へ漏らせというのか!」
博士は机を叩いた。
「あれがなければ糖分補給が妨げられる! 糖分が不足すれば、わしの頭脳の回転速度が三・七パーセント低下する! 研究が滞れば、新兵器の完成が遅れ、ひいては世界の平和が危機にさらされるのじゃ!」
「世界の平和をプリンに背負わせないでください」
「つまりプリン泥棒は、世界征服を企む策謀家ということじゃ!」
「じゃあ、ギアノクス帝国じゃないんですか?」
白石は呆れ顔で尋ねた。
すると博士は、今度は白石がとんでもなく的外れなことを言ったかのように目を丸くした。
「ギアノクス帝国ごときが、わしの研究所へ侵入できるはずがないじゃろう」
「先月、ギギンが換気口から入りましたよ」
「あれは侵入ではない。換気口の強度を確認するための実地試験じゃ」
「敵が勝手にやったんですけど」
「白石君ともあろう者が何を言っとるのじゃ」
「では、幽霊かお化けが盗ったんでしょう」
白石は棒読みで答えた。
「さもなくば精霊とか」
博士は数秒きょとんとしたあと、腹を抱えて笑いだした。
「はっはっはっは!」
「何がそんなにおかしいんですか」
「白石君は夢見る乙女じゃのお!」
「別に夢見ていません」
「幽霊だの精霊だの、なんと非科学的なことを! この科学万能の時代に、そんなものがおるわけがなかろう!」
「そうですよね」
白石は穏やかな笑顔で頷いた。
心の中では、まったく別のことを考えていた。
(はい。私も、少し前まではそう思っていたんですけど)
桃園美咲――シークレットピンクのそばへ、時折現れる小さな光の存在。
白石が目を凝らしても輪郭さえ掴めないのに、美咲だけは自然に話しかけている何か。
そしてブラックが、誰もいない場所へ向かって時々口にする、「そこに立たないでください」とか「今は話しかけないでください」といった言葉。
(ピンクさんのそばにいる、あれとか)
(ブラックさんが見ている、あれとか……)
異せか・・・いやどこかへ行き来するイエローまでいる。
今さら幽霊や精霊だけを非科学的だと切り捨てるには、SDFの現実はあまりにも混沌としていた。
「では、秘密結社が盗んだんじゃないですか?」
「何っ?」
「それか、プリンだけ異世界へ転移したんですよ」
「ほっほっほ! 白石君は本当に夢見る乙女じゃのお!」
「そういうことにしておきます」
博士は空になった皿を眺め、腕を組んだ。
「秘密結社……異世界……幽霊……乙女……」
その目が急に輝いた。
白石は嫌な予感を覚えた。
「ひらめいた!」
「何もひらめかなくていいです」
「恋する力を利用した、新たなエネルギー変換機構じゃ!」
「話のどこに恋がありました?」
「名付けて、ラブラブパワーチャージ!」
博士はホワイトボードへ飛びつき、ものすごい勢いで数式とハートマークを書き始めた。
「恋する者同士の心拍を同期させ、感情の高まりをエネルギーへ変換! 二人の愛が深ければ深いほど威力は増大するのじゃ!」
「戦隊の新装備にするつもりですか?」
「もちろんじゃ!」
白石は、シークレットファイブの顔を一人ずつ思い浮かべた。
レッドなら、よく分からないまま「愛の力ってすげえ!」と喜ぶかもしれない。
だが、ブルーは確実に無言になる。
イエローは笑顔のまま遠い目をする。
ブラックは博士を見つめたまま、長い沈黙へ入る。
そしてピンクは、おそらく仕事で使う営業用の笑顔を浮かべながら、「今回は見送る方向で検討しましょう」と言うだろう。
白石は、五人へ博士の「ラブラブパワー理論」を説明させられる自分の姿まで想像した。
(今回ばかりは、失敗してください)
白石は心の底から願った。
それが科学者に対して抱く願いとして正しいものかどうかは、今は考えないことにした。
◇
同じ頃。
地上から遠く離れたギアノクス帝国の作戦区画では、灰色の煙がもうもうと立ち込めていた。
「げほっ、げほっ! 何だこれ、煙くせえな!」
ヴォルガードが大きな手で煙を払いながら叫ぶ。
床には細長い棒が何十本も並べられ、その先端から黄緑色の煙が漂っていた。
「おやおや。試作品へ近づく時は、先に説明を聞いてください」
煙の向こうからメルディアが現れる。
「これが今回の新たな作戦兵器です」
「兵器?」
ヴォルガードは一本をつまみ上げた。
「ただの細い棒じゃねえか」
「人間社会では、こうした棒へ火をつけ、煙を発生させる習慣があるのです」
「街中を煙だらけにするのか?」
「いいえ。主に亡くなった先祖を敬う際に使用するそうです」
「死んだ奴を煙で呼び出すのか?」
「そこまでは確認できていません」
「じゃあ何のために燃やすんだ?」
「文化です」
「便利な言葉だな、それ」
メルディアは細い棒を胸元へ掲げた。
「この煙を嗅いだ者は、ギアノクス帝国へ忠誠を誓うようになります」
「ほう」
「名付けて、ギアノス香」
「そのまんまだな」
「分かりやすさは重要です」
ヴォルガードは煙の立つ棒を眺めた。
「でもよ、こんな煙を街で流したら、SDFの奴らがすぐ来るんじゃねえのか?」
「そこはもちろん、この参謀が考えています」
メルディアは待っていましたとばかりに微笑む。
「この国には、先祖を敬う風習があります」
「さっき聞いた」
「その際に、煙が出るこの棒を燃やす」
「それも聞いた」
「つまり、これを一般の商品へ偽装して流通させれば、人間は自ら進んで火をつけるのです」
「なるほどな」
「先祖を敬う心を持つ人間ほど、先に洗脳される。そして残るのは、先祖を敬う心すら持たない無秩序な人間だけ」
メルディアは両腕を広げた。
「やがてこの国は荒れ果てる。そこへ機皇帝ゼノギア陛下が降臨され、秩序を失った国を完全に統治なさるのです!」
「なるほど!」
ヴォルガードは豪快に笑った。
「よく分からねえが、たくさん煙を出せばいいんだな!」
「理解を諦めるのが早すぎます」
メルディアが振り返る。
そこには、箱を抱えたギギンたちが整列していた。
「さあ、ギギンたち。どんどん製造するのです!」
「ギギン!」
機械兵たちが一斉に作業を始める。
細い棒へ忠誠電波を発する薬剤を染み込ませ、乾燥させ、商品箱へ詰めていく。
箱には人間社会の文字で、大きく商品名が印刷されていた。
『新感覚フレグランス線香 南国の王様』
ヴォルガードが箱を手に取る。
「南国の王様?」
「人間社会では、変わった物が『バズる』という現象によって話題になり、大量に売れるそうです」
「そのために変な匂いにしたのか?」
「はい」
「何の匂いだ、これ」
「ドリアです」
「食い物の?」
「食い物のドリアではありません。果物の王様と呼ばれる、ドリアです」
「それ、ドリアンじゃねえか?」
「…………」
「メルディア?」
「名称の細部は作戦の成否に影響しません」
「今、間違えたな?」
「人間は珍しい香りを好むのです」
「めちゃくちゃ臭えぞ」
「印象へ残ることが大切です」
ヴォルガードは鼻を押さえた。
「これを先祖に嗅がせるのか」
「先祖は嗅ぎません」
「じゃあ誰が喜ぶんだ?」
「作戦成功後に考えます」
メルディアは強引に話を打ち切り、ギギンへ命令した。
「第一陣を人間社会へ搬送しなさい!」
「ギギン!」
ギアノス香を詰めた箱が、次々と運び出されていく。
彼らはまだ知らなかった。
その強烈な匂いが、作戦成功の最大の障害になることを。
◇
その日の夕方。
「肝試しをしよう!」
放課後の教室で、クラスメイトの一人がそう言い出した。
夏休みを目前にした金曜日。
部活動のない生徒たちは、帰宅するには少し早く、何か特別なことをするにはちょうどいい気分になっていた。
「肝試し?」
赤城太陽は机へ肘をつきながら聞き返した。
「近所に廃ホテルがあるだろ。昔、火事があって閉鎖されたところ」
「危なくないか?」
「建物の中はまだ残ってるし、動画を上げてる奴もいるって」
「不法侵入じゃないの?」
別の女子生徒が眉をひそめる。
「門は壊れてるらしいし、ちょっと入ってすぐ戻れば大丈夫だって」
「その理屈で大丈夫だった事件、たぶん一個もないぞ」
太陽は笑いながら言った。
「じゃあ赤城は来ないのか?」
「行く!」
「即答かよ!」
「危ないなら、なおさら俺がいた方がいいだろ」
「そういうところだけ妙に頼もしいんだよな、お前」
話はあっという間にまとまった。
参加者は八人。
駅前で軽く食事を済ませ、日が落ちてから廃ホテルへ集合することになった。
太陽は怪談も幽霊も信じていない。
暗い建物の中で、誰かが白い服を着て立っていたとしても、まず人間だと思う。
壁から声が聞こえれば、隠したスピーカーを探す。
写真に知らない顔が写っていれば、撮影時の光や反射を疑う。
「幽霊なんているわけないだろ」
太陽がそう言うと、向かいの席の男子が呆れたように首を振った。
「お前、そう言う奴が一番最初に呪われるんだぞ」
「呪われたら俺が呪いを説得する」
「どうやってだよ」
「悪いことはやめろって」
「呪いに正論を言うな」
教室に笑いが起きる。
その時、太陽のスマートフォンが震えた。
戦隊用ではない普通の端末。
家族からの連絡だった。
『遅くなるなら連絡すること。日向のお土産も忘れないで』
「了解っと」
返事を打ち、太陽は鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ、夜八時に集合な!」
誰かがそう言う。
太陽は明るく手を上げた。
◇
夜八時。
山沿いの旧道から少し外れた場所に、その廃ホテルは建っていた。
かつては温泉街の外れにある観光ホテルとして賑わっていたらしい。
今は窓ガラスの多くが割れ、外壁には蔦が這い、正面玄関の上に掲げられた看板も半分ほど落ちかけている。
月明かりの下で見る建物は、確かに肝試しの舞台として申し分なかった。
「うわ……本当に来ちゃった」
「まだ帰れるぞ」
「ここまで来て帰れるかよ」
「いや、帰るなら今だろ」
クラスメイトたちは口々に言いながら、スマートフォンのライトを点けた。
太陽だけは、建物を見上げながら感心していた。
「思ったより大きいな」
「感想それだけ?」
「昔は立派だったんだろうな」
「怖くないのか?」
「何が?」
「もういいよ」
参加者は二人一組で中へ入ることになった。
一階のロビーを通り、二階の大広間前へ置いた紙へ名前を書き、裏口から戻ってくる。
順番を決めるじゃんけんが始まった。
太陽も当然参加したが、結果が出る前にクラスメイトから待ったがかかる。
「赤城は一人で行って」
「何で!?」
「お前と一緒だと肝試しにならない」
「ちゃんと怖がるぞ」
「絶対嘘だろ」
「さっきから廃墟の構造ばっかり見てるじゃん」
「階段が腐ってないか確認してただけだ」
「ほら、頼もしすぎるんだよ!」
太陽は納得できなかったが、全員から同じ意見を向けられてしまった。
「じゃあ最後に一人で行く」
「決まり!」
最初の二人が玄関へ入っていく。
数分後。
「ぎゃああああっ!」
建物の中から悲鳴が響いた。
外で待っていた生徒たちが、一斉に肩を跳ねさせる。
太陽だけが笑った。
「誰か先に入って脅かしてるな」
「まだ誰も中にいないって!」
「ホテルに住んでる人とか」
「それはそれで怖いよ!」
しばらくして、最初の二人が裏口から飛び出してきた。
顔は真っ青だった。
「いた! 本当にいた!」
「何が?」
「廊下の奥に白い女が!」
「鏡じゃないか?」
「動いたんだよ!」
「風でカーテンが揺れたとか」
「何で全部否定するんだよ!」
「だって幽霊はいないだろ」
次の組が入る。
また悲鳴が上がる。
三組目も同じだった。
誰かが仕込んだにしては、全員が同じように怯えている。
だが太陽は、巧妙な演出なのだと感心していた。
「最近の高校生って、演技うまいな」
「お前も高校生だろ!」
最後に太陽の番が来る。
「じゃあ行ってくる」
「本当に一人で平気?」
「平気平気。危なそうな場所には近づかない」
太陽はライトを片手に、正面玄関をくぐった。
その背中を、離れた山道の上から見つめる人影があった。
◇
黒髪の少女――変身前のブラックは、廃ホテルを見下ろしながら細く息を吐いた。
「すさまじい霊気……」
建物全体を、黒い霧のようなものが包んでいる。
普通の人間には見えない。
だが、彼女にははっきり見えていた。
窓という窓から伸びる白い腕。
屋根の上に座る、首のない影。
正面玄関の脇で、生きている人間が入ってくるのを待つ無数の顔。
「先代が張った結界へ、どうやって踏み込んだのかしら」
ブラックの家系は、代々この地域の怪異を監視してきた。
廃ホテルにも、数年前に先代が強力な封印を施している。
本来なら、普通の人間が敷地へ近づくだけで何となく気分が悪くなり、自分から引き返すようになっていた。
だが今夜は、結界の一部が不自然に破られている。
そこから流れ出した霊気へ引き寄せられ、周辺の弱い怪異まで集まり始めていた。
「やれやれ……」
ブラックは額へ手を当てる。
「先代が張った結界へ、どうやって踏み込んだのかと思えば、壊れた門から普通に入ったのね」
人間側が物理的に壊した場所と、霊的な結界の継ぎ目が偶然重なっていたらしい。
「再封印は……難しいでしょうね」
建物の中央にいる怪異は、すでに結界へ縛り直せる段階を越えている。
祓うしかない。
ブラックは肩から下げていた鞄を開き、中身を確認した。
札。
数珠。
清め塩。
小さな鏡。
どれも大学の研究資料に見せかけた、実家の神社から持ち出した本物の道具である。
「それにしても……」
彼女は廃ホテルへ入っていく最後の一人へ目を向けた。
他の若者たちは、建物へ近づいた時点で霊気に飲まれかけていた。
だが最後の一人だけは違う。
少年の周囲だけ、夜の闇が薄く見える。
異常なほど強い陽の気。
本人はまるで気づいていないが、弱い怪異なら近づくだけで弾き飛ばされるほどだった。
「……あの気」
ブラックは目を細める。
「見覚えがある」
戦場で何度も感じてきた、真っ直ぐで、熱く、周囲まで無理やり明るくしてしまう力。
「まさかね」
シークレットファイブは、互いの正体を知らない。
知らないことになっている。
声や体格から推測しようと思えば、できないこともない。
だが、それをしないのが彼らの暗黙の約束だった。
ブラックは一度首を振り、その考えを追い出した。
「今は、あの子たちを助ける方が先」
廃ホテルの中から、短い悲鳴が響く。
先に入った若者たちの気配が、次々と弱くなっていた。
ブラックは鞄を閉じる。
「これはもう、再封印では済まないわね」
そして静かに山道を下り、廃ホテルへ近づいていった。
その頃。
何も知らない赤城太陽は、怪異たちが自分から逃げていることにも気づかず、暗い廊下をずんずん進んでいた。
「みんな、どこまで行ったんだ?」
返事はない。
聞こえるのは、どこか遠くで何かを引きずるような音だけ。
太陽はライトを前へ向けた。
「仕込みなら、そろそろ出てきてもいいぞー!」
その声に反応するように、廊下の奥で何かが動いた。
だが太陽が一歩近づくと、その影は慌てたように壁の中へ逃げ込んだ。
「……今の、誰だ?」
太陽は首を傾げる。
そして、さらにホテルの奥へ進んでいった。




