四話「荻克也」後編
状況はかなり悪い。
だが、この場を切り抜けるだけならこの状況はむしろ結城に味方しているとも言える。
「そうか…。」
力なく荻に言葉をこぼす。
その声は静寂に包まれた灰色の廊下に響きもせず、ただ荻の心にだけささくれとなって小さく刺さった。
「すまない…。任務を全う出来なかったのも、お前がこんな事になってしまったのも、全ては俺に力が足りていなかったからだ…。」
真っ直ぐな荻の眼差しからは誠実さ以外の何かを読み取る事は叶わなかったが、頬の筋肉はわずかに後方に盛り上がり後悔と後ろめたさの相が出ていた。
良し!ここだ!
結城は内心で邪悪に微笑む。
この男はお人好しで責任感が強く一人で抱え込みがちだ。
いつもそうだ。
墜とすならココからだ。
「状況は未だ分からない。がこの任務の失敗の重責を負わされるのがお前だけにならずに済みそうで、何よりだ。」
悪戯っぽく笑って見せる結城に対して荻は力なく攻める様に反論した。
「いいや、良くない…。お前が生きていても二人して中部送りにでもなってしまったら、出世の道から外れてしまえば、お前の家はどうなる。御両親は?佳乃は?」
掛かった!
笑顔を崩さずに返す。
「おいおい、他人事みたいに言ってくれるな。それは責めを負うお前の御両親も同じだ。お互い様じゃないか。」
「うちは良いんだよ。元々は平民の家系。親父もお袋も俺が生きさえいれば酷く悲しんだりはせん。」
ぶっきらぼうに言うが、その言葉尻から罰の悪さが覗いていた。
「ま、失望はさせてしまうかもしれんがな…。」
言うと天井に笑顔を向けるが、その有様は荻の細く大きな体躯を幾分小さく感じさせた。
二人の間に沈黙が流れた。
完全に食い付いたな。
結城の瞳に暗い光が宿る。
「俺を襲ったのは田無中将をやった一派と関係あるのか?」
不意の質問に荻は戸惑いを見せた。
「い、いや、分からない。ただ田無中将が亡くなられた事はまだ公にはなっていない。命を狙うのならば俺たちではなく中将の命を狙うのが自然だろうからな。連中はまだ知らないのかもしれん。」
「なるほど。まだ俺達は諦めるのは早いかも知れない。」
「なんだと?」
「この力があれば連中を鎮圧し捕える事も出来るかもしれん。」
「バカな事を!そんな得体の知れないものを使えばお前の身に何が起こるか分かったものでは無いぞ!それにお前はさっきまでは死んでたのだ!これ以上の無理は許さん!師団の制圧部隊がやって来るはずだ!表には憲兵隊の包囲もある!今は無事にココから出ることに専念すべきだ!」
「お前はそれで良いのか?」
「決まっているだろ!命より価値のあるものない!」
「いや、そうではない。師団が到着するまでの間生き延びる事はそれ程難しい事では無いだろう。だがこのまま自分達の行く末を他人に預けて、お前はそれで良いのか?」
「結城。何が言いたい?」
立ち上がり荻の瞳の奥を覗き込む。
「お前には守らねばならないものがあるはずだ。増援を待ち生きて帰ったあかつきには、晴れて俺達は上層部にとってすれば体の良いとかげの尻尾だ。無理のある視察に付き合わされた挙げ句、弁明を許される事も無く左遷。そうなれば、荻、お前の望みは叶わなくなる。」
「俺の望み?」
いつもは力強く動じない荻の瞳が、確かに揺れたのを見た。
「御両親の生活だけではない。お前こそ佳乃はどうする?」
「な…」
結城佳乃。結城正興の妹である。
幼馴染の荻とも知り合いで荻は佳乃に恋慕の情を抱いていた。
結城としては特別に干渉するつもりはなかった。
荻は別段、悪い男では無い。愚直で誠実な人間だ。妹の夫として申し分無い。とまでは言わないが。特段恋路を邪魔するつもりも無い。佳乃さえ良ければ、後は時間が二人の関係を取り持つだろう。
問題があるとすれば結城家の現状がそれを許さない可能性があるという事だ。
東西に日本が分断されてから、軍部で良家とされていた結城家の立場は弱まっていた。
今後も繁栄を望むなら、正興自身が軍内部で出世するか、優秀な軍人の下に佳乃が嫁ぐかだ。
それを言われるまでも無く察している荻はいまひとつ佳乃に対し踏み込めずにいた。そして他に良い女性が居ても踏み切れずにいる始末であった。
「俺もお前同様に妹の幸せを願っている。俺達の進退はこの際捨て置け。佳乃の気持ちを確かめる事もせず、お前はその機会をみすみす捨てるのか。佳乃の幸せが独り身で居続ける事だとしても、お前と添い遂げる事だとしても、ここで戦う事を辞めれば何れも潰えるだろうな。」
動揺を隠せなくなり震える荻の口からは、返す言葉は帰って来なかった。
「荻よ。戦え。惚れた女性の幸福を守って見せろ。」
「俺達の…残された道は…」
「敵を制圧し、囚われている者がいれば無傷で救う。今度こそ。完璧に。」




