街へ出かけましたの。
「お嬢さま、お茶をお入れしました」
「そう。ありがとう、リニ」
香茶の良い香り。
宰相閣下がよく飲んでいらっしゃるこの香茶は、カミツレという薬草から煮出されるもので、きれいな蜂蜜色に透き通った茶です。
なんでも二十年以上前に、まだ沿海王国がいくつかの国に分かれて戦争していた頃のこと。
当時、まだ即位されていない陛下と宰相閣下、それに仲の良いご友人の方々は小隊を組み、国境付近の戦闘で一緒に行動されていました。
あと一息のところまで敵方を押し込みましたが、人数の不利を悟り、援軍を待って籠城を続ける相手にこれ以上の攻撃を続けるかどうか、と議論が紛糾したそうです。
そんなギスギスした空気のなか、野山に多く自生する白い花が薬草であり、よくお茶として飲まれていると隊員に教えられたそうで。
一週間に渡る攻城戦の疲れに効くかもしれない、と試しに作って飲んでみたところ、心地良い香りが疲れた体と頭に染み渡っていくようだった、と語って下さいました。
効果は抜群。落ち着きを取り戻した閣下たちの意見はまとまり、見事に砦を落としたとのこと。
それ以来、遠征や行軍のさなかに見かけるたびに煎じて飲むようになったのだとか。
カミツレから作った茶を飲むと気分が落ち着いて、立てた作戦がとても上手くいくのだそうです。
宰相閣下は「魔法とはまた違うものだ。言うなればある種のお呪い、験担ぎであるな。ブフォフォ」……と仰っていました。
国土を統一し、戦争が終わって平和になった今でも、なにか緊張することや頭を使うことに直面すると、必ずカミツレの花を煎じてお飲みになるのだそうです。
思い返せば、あのとき宰相閣下が淹れて下さった香茶も、このカミツレだったのでしょう。泣きじゃくる私を落ち着かせようと思い至ったのがきっと、この香茶だったのですわ。
閣下の今のお気に入りは、蜂蜜を少しだけ入れて飲む香茶のようです。私はそのまま飲むのが好きですけれど、閣下に勧められて飲んでみたところ、こうして茶にほんのりと甘みを持たせるのもまた、美味しいものであると気づかされました。
他にも美味しく頂ける淹れ方があるそうで、長い間カミツレの香茶を愛飲してきた閣下ならではの知恵には驚かされるばかりです。
閣下のお話を思い出しながら、背もたれに肩を預けます。
はぁ……。
香茶を口にしてリラックスしていると、なんともなしにため息が零れてしまいますの。
パーティに出席されている閣下は、今頃どのようなお心持ちなのでしょうか。
今ここではどうすることも出来ないと知りつつも、考えを巡らせてしまいます。
近頃閣下から任されるようになった書類仕事も、遅々として進みません。
……そう、今日という日は、第一王子殿下とマリアンネ様の婚約披露パーティが開かれている、おめでたい日なのですわ。
招待状が届いたのは宰相閣下だけ。
私宛のものは当然、ありません。
たとえ届いていたとしても欠席していることでしょう。
殿下に言われた言葉が、頭の中を巡ります。
殿下の心を繋ぎ止めておけなかったのは、紛れもなく私の不徳の致すところ。
なにが良くて、なにが悪かったのか。
殿下の悪いところばかり思い返して苛ついたり、だけど良いところもたくさんあったと自分を落ち着かせようとしたり。その繰り返しがぐるぐると回って、ああすればよかった、こう言えばよかったと、同じ言葉ばかりを推敲して、結局最初の言葉に戻ったりしています。
今頃は二人楽しく杯を上げているのでしょう。
マリアンネ様は王立学園でも指折りの秀才でした。天才と言っても過言ではないほどですの。
男性女性問わず誰からも好かれる笑顔に気配り。
私には苦であった王妃教育も、彼女ならきっと難なくこなしてしまいます。
身分の問題を除けば、王太子妃に相応しい人物だったのではないでしょうか。殿下が夢中になったのも、無理はなかったのかもしれませんわね。
……今まさに王太子妃になろうとしているだなんて、まさか夢にも思いませんでしたけれど。
道のりは長く、険しいでしょう。
ですが、あらためて鑑みてみれば、あれだけの強かさまで兼ね備えている彼女なら、今後訪れるはずの苦難も乗り切ってしまいそうです。
沿海王国が長きにわたる統一戦争へ終止符を打ち、取り込んだかつての国々の貴族であった方々を整理し、位を上下させたり取り潰したりする反面、戦争で活躍した家が再興し、あるいは取り立てられている今。貴族制度の再編がゆっくりと進んでいます。
身分の問題があると言えど、男爵令嬢を王室に迎えることへ反対の声が大きいのは、古くから王国に仕える、権力を持った貴族がほとんどでしょう。
陛下は実力主義のお方です。マリアンネ様が実力で王太子妃の地位を手にしたのだとするなら、認められるのはあり得なくないと、私は心のどこかで諦めてしまいましたの。
いいえ、陛下がどうお考えであらせられるか拝察するなどと、今や一介の公爵令嬢でしかない私には、出過ぎたことかもしれません。
考えてみても仕方ないのかもしれませんわね。
ふと手元に目をやれば、ぬるくなった香茶の湯気はいつのまにかに散ってしまっていました。
「お嬢さま……、」
「あっ、ううん、大丈夫よ」
ああ、またやってしまいましたわ。
このところどうしても緊張が緩んで、気を抜くとすぐに魂が抜け出てしまいます。
こんな日に家に閉じこもって仕事なんてしているからいけないのですわね。気分転換にでも、外に出ることにしましょう。
私は香茶を一息に飲み干すと、リニに支度を頼みました。
辻馬車から降りて、煌びやかな商店が立ち並ぶ大通りを歩きます。
書類仕事も楽しいけれど、こうして街をあてどなく歩くのも好きですのよね。
沿海王国の王都は、大きく分けて大洋へほど近い場所に居を構える二つの流通区画、王国の民が暮らす市民街、そしてやや離れた場所に王城を抱く貴族街の四つから構成されています。ここは王侯貴族向けの流通区画で、宰相閣下のお邸は貴族街の中心部にありますから、結構な距離を馬車に乗ってきたことになりますわね。
綺麗に舗装された道を歩けば、鼻をくすぐる僅かな潮の香り、流麗な石造りの静かな街並み、道行く人々で活気に溢れる大通り、それぞれに紋章や旗を掲げる馬車の数々を感じられます。貿易も盛んで、北方や南方からの珍しい品々を取り扱っている店も多くありますの。
そんな異国情緒を感じさせるお店を覗き込んだり、仕立屋で流行の色柄や布飾りを見てみたり、装飾品を取り扱うお店であれがいいこれがいいと、侍女や護衛に連れてきた奴隷と話が盛り上がったり――。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくもので、いつの間にかお昼どきをだいぶ過ぎてしまっていました。
どこかで一息つこう。そう侍女のリニと相談していると、ふと気づけば目の前に背の高い男性が立っていました。その方を見た瞬間に表情の消えたリニが、私を守るように半歩前へと踏み出します。
「……ヒルダ」
落ち着いたトーンの低い声は、随分と久しぶりで。
この後なにを言われるか分からない、という戸惑いから、反射的に体が強張ってしまいます。
私はお兄様を刺激しないようにできる限り平素の表情を保とうと、そっと深呼吸をしました。
「……、お兄様」
戸惑っているのは相手も同じことだったようで、声色は硬く、驚きの色を隠しきれていません。
それどころかお兄様の顔色は悪く、うっすらと汗をかいているようにすら見えます。
ゆっくりと口を開いたお兄様の様子は、妹の心情を測り兼ねているようでした。
「……久しぶり……だな」
「……ええ」
「その、なんだ。息災にしていたか」
おかげさまで。
そう返そうとしましたが、私はこの短いひと月の間に起きたことを思い出し、なんと言ったら良いか分からずに立ち尽くしてしまいました。
固まった私を見て、お兄様が納得したような表情を浮かべます。
「……そうか」
こういう時に、よく利用する喫茶店がある。その様子では食事はまだだろう。
お兄様はなにかを察したのか、それだけ言うとくるりと背を向けて歩きだしてしまいました。
「珍しいことも、あるものですね」
リニがぼそっと、お兄様に聞こえないように呟きました。
この子は充分に素晴らしい侍女ではありますが、主人へ気遣いをするあまり、時折、立場を顧みずに衝動的な言葉を漏らすことがあります。
私は控えなさいという意味を込め、侍女の口元に人差し指を一本立て、軽く当てました。
リニは不満そうでしたが、意味のないことに時間を割いてお兄様を待たせるわけにはいきません。
私はお付きの二人を促し、立ち止まってこちらの様子を遠くから伺っているお兄様のところへと急ぎました。