第二幕 帰還の物語 第四章 ルビコンを越え、悲しみを越え……
------ 第二幕、第四章 ------ ルビコンを越え、悲しみを越え…… ------
バスは、津高橋の隣の国道 “ 津別橋 ” を渡り、電気屋の手前の十字路を左に曲がった。そのまま市街地には入らずに、開成峠越えの道を行く。
やがて、 “ 達媚橋 ” で網走川を渡ると、本格的に山の中へと入って行った。狭い谷の中に、畑と森が続く。そして、たまに家が在る。
気が付くと、霧は晴れていた。だが、雲が厚く垂れ込めている。
マリーの声が、左耳に付けた “ ヘッドセット ” から、聞こえて来た。
『マイスター。聞こえますか? 聞こえたならば、思念で御答え下さい』
[聞こえてるよ]
『出発前、最後のレクチャーです……。
開成峠頂上で、津別町の領域から離脱し、出発となります。北見市の小さな看板が、右側に在りますから、分かるはずです。
私は、そこを通過以降、姿を現すことが出来ません。ですが、思念で指示が可能です。こちらの声も、この形式で、マイスターに聞いて頂けます……』
[うん、分かってる。大丈夫!]
『“ IAUCE ” の一機能である “ 対人・対物アラーム ” の使い方は、理解していますか?』
[色付きの看板が出せるんでしょ?
パーソナルデータが書いてあったり、特記事項が書いてあったり……。
警報のレベルはリアルタイムで変わるんだよね……。黄色の “ 中立 ” や橙色の “ 注意 ” が赤色の “ 危険 ” になったり、中立が緑色の “ 安全 ” や水色の “ 好意 ” になったり……]
『はい、そのとおりです。感覚や音声でも警告を出します』
[うん]
『会話は、先手ですよ!』
[はい、はい……]
今のマリーは、遠足前の母親のようになっている。亮圭は、なだめるように心を込めた。
[心配し過ぎても、しょうがないよ。成功率は、そこそこ、あるんでしょう?]
『はあ……。そうですが……』
[後は、やるだけだよ]
『はい……』
でも、マリーの心労は尽きない。
[それでも、心配なんですよぉ……。マイスター……]
精霊の主は、筆頭精霊長の強い思念を読み取った。特に強い思念を込めて、僕へ返す。
[僕を信じて!]
『……はい……』
マリーの返事には、力が無かった……。少年は、再び強い念を込めて、質問する。
[それと、 “ オホーツク2号 ” への乗り換え時間が、十五分位しか無いけど……。切符を買うことを、事前に指示して良いの?!]
マリーの返答は早かった。
『はい、承りました。切符を買える場所の前に行けば、直ちに実行します』
[指定席には、こだわらなくて良いよ。……買えれば、何でも良いからね]
『はい。どこまで買いますか?』
[“ 新千歳空港 ” ……。それとも、 “ 札幌 ” の駅まで……。でもなぁ、ブロックされたらキツイし……]
亮圭は、あれこれと、考えてから答えた。
[“ 岩見沢 ” 駅までにして]
『はい。御任せ下さい』
やがて左への逆トの字路で、チミケップ湖への道が分かれて行く……。
程なく道は、右に大きく曲がって、急坂になった。バスは、エンジンの唸り声を上げて、一気に高度を上げて行く。右に見える駐車場スペースを超えると、左側に白い十字のコンクリートブロック群に抑えられた法面が現れ、坂の頂上が見えて来た。
バスは、工事中の道路をパイロン規制に従って、右に左に車線を変えながら坂の頂上に迫る。
『いよいよ出発です! “ ルビコン川 ” を越えれば、もう後戻りは出来ません! マイン・マイスターに、天運が共に有りますように!』
[うん!!]
亮圭が、道の右側に在る、北見市の小さな看板に気付く。
[あれか……]
右の席に座っていたマリーの姿が、スーッと消えて行った……。
[……出発した……]
少年は、真っ直ぐに、前を見据え直した。
開成峠を超えると、土地のイメージが津別側とは変わった。道沿いに森が無くなり、広い谷間に畑が続く。
亮圭は、その変化に気付くこと無く、全く別のことを考えていた。
[もし、七時十二分の “ オホーツク2号 ” に間に合わなかったら、九時十二分の “ 快速きたみ ” まで待たなきゃならない……。……二時間も、無駄にしたくない……。
…… “ タクシー作戦 ” 、成功させないと……]
父親のメモによると……。このままバスで北見駅まで行くと、オホーツク2号への接続は十分しかない上に、終点の “ 北見駅バス停 ” は駅から少し離れた場所なので、時間が厳しい。そこで、途中のバス停からショートカットするように、タクシーを使って駅を目指す。 “ 無加川 ” を渡った先で乗り換えれば、計算上では最大六分圧縮出来そうだ。十六分前に駅前ロータリーへ着けば、乗り換えに支障はない。
少年は、父親のメモを確認しながら、肩を竦める。
[早速、『お父さんの “ 裏知恵 ” を使わせてもらう』なんてね……]
バスの運転手は寡黙だった。御陰で、次の行動を落ち着いて考える時間が有る。
やがてバスは、正面に見える高速道路の手前で、十字路を右に曲がり、バス停へ停まる。ここで、バスの運転手が口を開いた。
「御嬢ちゃん。今、 “ 北上 ” のバス停だ。あと五つで、 “ 無加川橋 ” のバス停に着く。降りる準備をしておきな。時間、無いんだろ……」
どうやら運転手は、マリーと会話をしているようだ。でも、亮圭には、マリーの声が聞こえない。まるで運転手は、携帯電話で話しているように見える。途中から乗って来た乗客も、そう思っているようだ。気に留めている様子は全く無い。
道は、徐々に家が多くなり、小さな橋を渡ると本格的な市街地に入って行く……。やがて、大きな川を超えた所で、自動音声のアナウンスが流れた。
『つぎは、無加川橋。無加川橋です。……』
無加川橋のバス停には、定刻の六時四十六分に到着した。亮圭が、用意しておいた¥470‐と整理券を料金箱へ入れると、運転手から声を掛けられる。
「気を付けてな。頑張れよ」
「ありがとう。小父さん」
亮圭がハスから降りると、後ろから “ クラクション ” の音が短く鳴った。見ると、すぐ後ろのガソリンスタンドから、一台のタクシーが出て来た。
少年は、扉が開くと、運転手に声を掛ける。
「オホーツク2号に乗ります。大至急、北見駅に行って下さい」
「……ああ、話は聞いている。二人共、早く乗りな」
タクシーは、まだ地面の濡れている裏道を駆使しつつ、流れるように走って行く。北見駅には、 “ シミュレーション ” どおり、乗り換えを含めて十分で到着した。
「料金は、¥1,210‐ね」
支払いはマリーがする。亮圭からは、宙に浮いた財布から、札と硬貨が勝手に出入りしているようにしか見えない。
やがて財布がフッと消える。精霊の主は、それを合図にして、タクシーを飛び下りた。
「気を付けて行けよー」
運転手の呼び掛けに、少年が走りながら振り向いて答える。
「ありがとー」
男の子と少女は、正面に見える三角屋根の駅舎へ向かって、走り込んで行った。
タクシー運転手は、それを見送りながら、心でエールを送る……。
[『故郷への自力帰還』か……。頑張れよ、ぼうず!]
……精霊の主は、一人で疾走しながら、父親の言葉を思い出していた。
[『地方駅の場合。大抵は、改札の隣か近くに “ みどりの窓口 ” が在る』だっけ……]
そのまま、北見駅の駅舎の中へ走り込む。改札の左手前に、それは在った。
[マリー、御願い!]
『ダー。マイン・マイスター』
亮圭の息が落ち着いた頃、右手に何かを掴まされた。
少年は、それを合図にしたように飛び出して、手の中の紙を自動改札機へと差し込む。そして、出て来た紙の内容を特に確認もせずに胸のポケットに仕舞い、ホームへ出た。まだ列車の姿は無い。亮圭は、ベンチに腰を下ろして、特急を待つ。
[南側から駅に着いたから、右側が東。だから、西に行く札幌行は、右から来るはず……]
少年の予想に反して、特急 “ オホーツク ” は左側から入線して来た。
[……えっ、何で西から? まさか、 “ 網走 ” 行き? ……でも、 “ 札幌行き ” って、表示されてるけど……]
精霊の主は、列車の案内板を見て、一応納得する。
[……乗っちゃおう!]
この躊躇いは、ASDが変化と予想外を嫌うことに起因するものだ。亮圭が、強く引き留めようとする本能を振り切って、列車に乗ると直ぐに扉が閉まった。
……列車が走りだす。チャイムが鳴って、アナウンスが流れ始めた。
『北見より御乗車の皆様、御待たせ致しました。本日も、JR北海道を御利用頂きまして、有難うございます。御乗車の列車は、オホーツク2号、札幌行き……』
亮圭は、それを聞いて、ようやく安心した。次に、思わず右手でガッツポーズをする。
[第一関門、突破ぁ]
喜んだところで、切符の中身を確認すると……。
「“ グリーン車 ” ……」
思わず口に出してしまった。慌てて周りを見ると、デッキには誰もいない。
[随分、高いのを買ったんだねぇ……]
筆頭精霊長は、その思念に答えない。精霊の主は不服だったが、 “ 解債条件 ” のことを思い出して、直ぐに考えを改めた。
グリーン車は、亮圭の乗った3号車の中間の扉から見て、後方の部分と成っている。座席は、車掌室側の扉から入って右側一番奥の “ 1C ” 、一人掛けの席だ。
今、列車はトンネルの中を走っている……。
「亮圭君」
グリーン車内に入った少年は、声の不意打ちに、吃驚した。
声のした左前の方を見ると、樞夫妻が “ 1A ” と “ 1B ” に座っている。
「何を、してたんだ? 乗り遅れるところだったじゃないか。問題でもあったのか?」
亮圭の頭には、樞 卿一の質問が入らない。そのまま、自分の質問を、し始めた。
「何で、ここに……」
警視庁の警視正は、精霊の主の発言を、先回りして答える。
「……いるのかって?
君の僕のエリーが、全ての情報をくれたんだ。津別町を出る前にな! ……ホテルに帰る時間が、一時間は遅くなったが……。この左耳のヘッドセットが、何よりの証拠だよ……」
卿一は、亮圭に見えるように “ それ ” を指差してから、話を続ける。
「……ああ、そうだ! 『副官を任命すれば、使えるようになった』んだろう?」
「……そんなことまで、知ってるの?」
「もちろん! 君の、行動上の制約も全部把握している!
……それに君を、私達の職業倫理上、放ってはおけない。この際、サタンだけでなく、実体的な “ 御目付役 ” が居ても良いと思わないか? 例えば……」
樞夫人が、二人の話しに割って入った。
「“ 檀家さん(警察の協力者) ” を落とすんじゃないんだから、回りくどい言い方していないの!」
冴子は、微笑みながら、少年を見詰めて言った。
「亮圭君、私達を副官にして! きっと、役に立つから……。ね!」
「……はい……」
精霊の主は、思わず、そう答えた。
次の瞬間、二人の胸に “ 副官 ” のプレートが現れる。そして、それは直ぐに透明になって、目立たなくなった。
「それじゃあ、亮圭君、よろしくね! そうしたら……」
子ども・女性安全対策室室長は、自分の亭主に指示を出す。
「……彼と話したいから、あなたは一人掛けに移ってよ」
「おいおい。俺も話しを、したいんだよ……」
「この場は、私に任せて! あなたより私の方が、こと子供に関しては “ 専門職 ” よ」
そう言われてしまえば、たとえ上官でも反論は難しい。樞 卿一は、しぶしぶ席を替わった。
冴子は、亮圭を窓側の “ 1A ” に座らせて、優しく話し掛ける。
「取り敢えず、どこまで行くの?」
「“ 岩見沢駅 ” まで行くよ」
少年が切符を見せた。
「……何で、岩見沢?」
小学生は、怪訝な顔をした婦警さんに、明るい声で答えた。
「札幌だと……。切符を取られた時、『目的地は、札幌か!』なんて言われたら、広い範囲が通れなくなっちゃうから……。
それに、ここで新千歳空港へ行くルートが、二つに分かれるんだ……。札幌経由と “ 落合 ” 経由」
冴子だけではなく、卿一も亮圭の “ 九歳の男児にしては、深い洞察力 ” に感心した。
[まだ詰めが甘いが、とても小学校中学年に成ったばかりとは思えない……。末は、偉大な人物か、はたまた極悪人か……。
人類の為と言っては、大げさだが……。必ず良い方向に持って行くのが、大人の務めだな]
樞 卿一は、この時の思いを、こと有る毎に思い返すことになる……。
冴子は少し興奮した声で言った。
「流石ぁ……。凄いじゃない! この調子なら、岩見沢がダメになっても、大丈夫かな?」
少年は舌を出して応じる。
「ううん。
何となく、逃げ道は、有る気がするけど……。まだ、考えていないんだ」
「まぁ」
樞夫人は、思わず男の子を抱き寄せた。
「貴方、本当に可愛いわ! 君みたいな子が家に居たなら、どんなに良いか……」
亮圭は、何となく感じたことを、素直に答えた。
「……大丈夫だよ。きっと出来るよ」
「有難う」
冴子は、しばらく少年の髪を撫でていた。
列車が、ようやく、トンネルから出る。
亮圭は、進行方向左側の窓から薄光が入って来るのを見て、初めて自分の認識が間違っていることに気が付く。
「……南って左側なの?」
「そうよ。ひょっとして、右側が南だと思っていたんでしょ! ……それで、網走行きと勘違いして、乗るのを躊躇ったのね」
「……でも津別から、一度も線路を越えていないよ」
「……多分、原因は曇り空と先刻のトンネルよ。太陽の方向が分からないし、線路も気が付かないうちに超えていたのね。北見駅の改札は、北側しかないし……」
「えー。そんなぁ……」
少年は、げんなりした。
「まぁ……。そう言うことも有るわよ」
冴子は、黙ってしまった男の子を、しばらくの間そっとしておいた。
「……小母さん」
気が付くと、亮圭が窓の外を気にしている。彼女は、優しく問いかけた。
「何?」
「だったら、あっちが津別だよね?」
「ええ。もう、少し後ろの方だと思うけど……」
少年は、立ち上がって二人越しの左窓の先へ視線を送り、一言呟いた。
「……行ってきます……」
優しい小母さんは、席に座り直した亮圭の表情を見て、ハッとする。
[うわぁ……。精悍な顔になっている!
無理もないか……。霊界の “ 悪魔の国 ” を敵に回しているんだから……。
でも張り詰め続けた弦は、切掛けさえ有れば、簡単に切れてしまうわ……]
樞警視は、傍らの少年に声を掛けた。
「しっかり行動出来るように、眠れる時に寝ておいて……。
私達が付いているから、大丈夫よ」
「うん……。そうする」
まず亮圭は、胸のポケットに切符を仕舞う。次に、リュックサックを抱いて枕の代わりとする。そして、体を冴子に預けると目をつぶる。
“ 留辺蘂 ” を発車する頃には、静かな寝息が聞こえて来た。
卿一が、様子を見て、妻に尋ねる。
「寝たか?」
冴子が肯いた。
大男は、少年の座席のリクライニングを倒して、普通に眠れる姿勢を取らせる。そして、首に “ エアー枕 ” を付けると毛布を掛ける。リュックサックは網棚に上げる。最後に、妻へ “ ラミネートパウチ ” されたカードを手渡しながら言った。
「これ、直接渡すつもりだった身分証だ。彼の左胸のポケットへ……。切符と一緒に、しておいてくれ」
「ええ」
冴子は、要人保護に使うアイテムである “ 偽の身分証明書 ” を夫から受け取る。それを切符と一緒に、亮圭の胸の左ポケットへと納めた。
25‰連続均衝勾配に挑む列車の床下で、 “ キロハ182 ” の “ DML30HSI型、ディーゼルエンジン ” が唸り声を上げていた……。
……亮圭は、余りの腐臭に、鼻を押さえた。
[ここは、霊界だな……。それも、霊位が低い……]
上には、光の点が一つ見える。恐らく、そこから落ちて来たのだろう。
足元は、しっかりしている……。しかし、周りには床も無く、漆黒の闇が広がっていて何も見えない。
[一瞬、何かに……。突き飛ばされたような気がしたけど……。一体全体……]
亮圭は、考えを纏めようと、あれこれと思考を巡らす。
そこへ不意に、何かが覆い被さって来た。ストレートの銀糸が、精霊の主の胸元に流れ落ちる……。亮圭には、その髪に見覚えがあった。
「クオーツ? クオーツなの!?」
意の天使長エリーの直属で近衛隊総長の “ クオーツ ” が、後ろ上方から話し掛けて来た。
「はい。マイン・マイスター、後ろから失礼します!
サタン側の攻撃です! 十数万身は居ます。
近衛の長として、この事態を御詫び申し上げます」
周りには、クオーツ配下の精霊が百数十身。必死の形相で、陣形を立て直している。
近衛隊は、何時もならば三精霊長を立てて、姿を見せることは無い。
亮圭にも、事態が緊急であることは、読み取れた。クオーツは、精霊の主の後ろから、抱き付く姿勢を取りつつ進言する。
「こちら側が体勢を立て直すまで、このままの状態を維持して下さい」
次の瞬間、四方八方から、天使や精霊が使う “ 光の矢 ” が亮圭達を襲う。
「うわ……」
少年は、思わず目をつぶった。……恐る恐る目を開けると、目の前にはクオーツの部下達が立ち塞がり、無数の光の矢を受けている。全員、全身の傷口から血を噴き流し、苦痛に “ のた打つ ” !
正面で亮圭の盾となった近衛隊副総長の “ リーン ” が、 “ ボブヘアー ” の銀糸を真紅に染めながら、精霊の主に問うた。
「……マイスター! 御無事ですか?」
「僕は、大丈夫! ……でも、皆が……」
クオーツは、泣きそうな精霊の主を、近衛隊総長として勇気付けた。
「……御心を、確りと御持ち下さい。……私共には、痛みの記憶しか残りません!」
光の矢は、そうしている間にも、矢継ぎ早に精霊達に突き刺さる!
「……リーン! 最終防衛ライン、 “ 球形防御陣形 ” を死守!
マイスターには、一発も当てさせるな!」
「もう、やっています! ……御任せあれ……」
亮圭達の周りには、クオーツの配下が立体的な十重二十重の球形防御陣形を構築し、油断無くサタンの進行を防いでいる。
隊士全員が、サタン側の光の矢を無数に受けて、全身血塗れだ。でも “ 彼女の身 ” 達は、苦痛に顔を歪めながらも一歩も引かず、光の矢をサタン側に打ち返し続けている。
サタン側は、十数万を超える大群で全方位攻撃を仕掛けているようだ。しかし、精霊の中でも最強クラスである大精霊と権精霊が百三十身で構成する頑強な球形防御陣形に対して、攻め手を欠いていた……。
……不意に、上の光の中から、物凄い密度の光の矢が降り注ぐ! サタン側の上からの攻撃が、一瞬で沈黙した。その部分は、赤い霧が掛かったように見える……。
精霊の主の目にも、ハッキリと見えた。億兆万の精霊達が、球形に包囲陣を如いて攻撃しているサタンの天井部分を蹴散らして、自分の前に降りて来る!。
その中には、サタン側に最も恐れられた精霊の姿もあった。その攻撃の度に、サタン側の攻撃が大規模に沈黙し、赤い霧に置き換わる。
「……ラピスラズリまで……。きっと、お父さんが指示してくれたんだ。これで、勇気百倍!」
近衛隊総長も、精霊の主の意見に同意した。
「ええ。あの乱暴者が来たからには、こちらの勝利は間違いありません。
単騎で、敵の数千身……。いいえ、万身以上に匹敵しますから……」
やがて三精霊長が、精霊の主の前に降り立ち、膝を突いて控えた。
「マイスター、御無事で何よりです!」
亮圭は、マリーの言葉に、ホッとした顔をして質問した。
「何が、どうなってるの?」
「マイスター。申し訳ありません。私の油断です。
不覚にも、 “ ベルゼブ±≦∴′℃*#£◎↓…… ” の配下と思しき一群に、一瞬の虚を突かれました」
「“ キョ ” を突かれた?」
「はい。マイスターを中心とした近衛隊直衛部隊全体が、サタンの大群の組織だった奇襲により、強引に霊位の低い場所へ飛ばされたのです。極めて巧妙な奇襲攻撃を受けたので、近衛隊も対応するのが精一杯でした。
現在、サタン側と交戦中です。マイスター・ファーターの指示で、ラピスラズリも参戦しています」
「分かった。後は、マリーの良いようにして。
それよりも、クオーツ達の手当てを! 早く!」
「ダー、マイン・マイスター」
マリーは、エリーを見て肯く。エリーが、近衛隊に指示を出した。
「後は、私達が引き継ぐから……。彼方達は、傷を癒し、身支度を整えていらっしゃい」
クオーツは、恐縮して、精霊の主へ謝意を表す。
「……御心に、感謝いたします。
本来ならば、御叱責を賜る処であるにも関わらず、過分の御配慮を頂き、恭悦至極です。
……では有り難く、御時間を頂戴致します」
クオーツ達が、医の大精霊 “ エイル ” 配下の精霊達に伴われて、その場を下がる。
マリーが、クオーツの居た位置に立ち、後ろから亮圭の目を塞いだ。
「マイスターは、見ないで下さい。ここからは、とても残酷ですから……」
精霊の主は、一寸不服そうに返答する。
「……分かったよ……」
エリーも、亮圭へ語り掛ける。
「耳と鼻も、全て終わるまで、塞がせて頂きます」
精霊の主は、筆頭精霊長への返答と同じく、答えた。
「……エリーの良いようにして……」
マリーは、主と仰ぐ少年の支度が整うのを確認すると、凛として宣言する。
「マイスターを打つことは、全精霊を敵に回す行為です! 一切の情け容赦なく、全力で敵を殲滅しなさい!!」
全精霊が答える。
「ビブラ、マイスター!」
その声は、耳を塞がれた亮圭にも、かすかに聞き取れる程であった。
……マリーとエリーが手を外すまで、余り時間は掛からなかった。筆頭精霊長が、精霊の主に声を掛ける。
「大丈夫ですか? マイスター」
「うん。僕は大丈夫だよ! 皆、無事?」
「はい。マイン・マイスター」
「……良かった」
精霊の主の返答に、割れんばかりの歓声が起きる。
そこへラピスラズリが、ヘルメットを左脇に抱えて、亮圭の元へと参じた。片膝を折り、控える。
マリーが、最強の精霊に指示をする。
「ラピスラズリ。マイスターに、報告をなさい」
「ハッ!
敵の殲滅は、終わりました。
十数万余身のサタンに対して、百万身以上の手勢を持って揉み潰しました。
敵、百束長を中心に、五千余身の捕虜を得ております。こちらが拘禁された数は、ゼロです」
また、歓声が上がる。それは、自然に “ 歓呼三声 ” へと収束した。
マリーが手で場を収めると、ラピスラズリが報告を続ける。
「現在、捕虜を尋問しております。程無く、 “ ベルゼブ±≦∴′℃*#£◎↓…… ” が『何を考えて、この攻撃を企画したのか』、その意図も分かるでしょう……」
精霊の主は、呆れた。
「これを仕掛けたのは、 “ ベルゼブル ” だったんだ……。F-15だけじゃ物足りなかったのかな?」
その問いに、筆頭精霊長が答える。
「ん……。色々、考えられますが……。捕虜に聞いてみるのが一番ですね……」
肯いた亮圭は、次に最強の精霊の正面へ進み出た……。
「ありがとう、ラピスラズリ。助かったよ……」
「いいえ。マイスター・ファーターが事前に決済をして下さっていたから、参戦出来たのです」
「……向こうには、誰が残っているの?」
「我友の “ アメジスト ” を長として立て、副長の “ ユミル ” を下に付けております。
御心配には、及びません。あれは、御茶を淹れる腕前は、私よりも遥かに上です。
それに私の部下達は、サタン共を全く信用していませんから、不意打ちに対する対抗策も怠りありません……」
精霊の主は笑って言う。
「ねえ、ラピスラズリ。アメジストは、御茶の道具なんて持って行ってるの?」
「……ええ。『“ SeNeHos ” を使えば、撤収も簡単……』だそうです……。……この点では、敵いません……」
最恐の名を欲しいままにする精霊が笑うと、殺伐とした戦場に、精霊達の笑い声が明るく響く……。その声が収まった所で、精霊の主は臣下へ指示を出した。
「……こっちは大丈夫だから、御父さん達の方へ戻って。
サタンが、あっちを攻撃しないとも限らない。僕の家族を……。皆を守って!」
ラピスラズリは、笑顔で答える。
「はい! 御任せ下さい」
そう言って、立ち上がり敬礼すると、別れの挨拶をする。
「マイスターの武運長久を祈ります。では、これで!」
亮圭が肯くと、最強の精霊は、天井の光へと飛び去って行った……。
……やがて、報告が上がって来た。マリーの目が点になる。
「どうしたの?」
精霊の主の問いに、筆頭精霊長が答えた。
「ベルゼブルの意図が、分かったのですが……。…… “ 彼の身 ” が何を考えているのか、訳が分かりませんね……。
捕虜によると、『ここで横死した霊達を、マイスターに会わせようとした』みたいです」
マリーの発言は、そのまま独白になって行く……。
「……それにしても……。こちらが “ 受ける ” “ 受けない ” と言うことが有るにせよ……。今、そんなことをしなくても……。この作戦終了後、普通に面会の場を設けることが出来るのに……」
「何かの罠?」
「……それも有るとは、思いますが……。
相手側から見て、作戦が成功したとしても、払った犠牲が大きすぎます。…… “ 解債条件 ” の無駄使いです」
「ふーん……」
そこへ、新たな報告が上がって来た。一瞬、マリーの表情が曇る。
「どうしたの?」
精霊の主の再びの問いに、筆頭精霊長が低い声で答えた。
「更に、予定外の事象が起こりました。
ここで横死した霊達が、直接、こちらに申し入れて来ました。マイスターに面会を願っております……」
亮圭は、マリーの言葉に意味不明の部分を感じて、問う。
「ねえ、マリー……。『横死した』って、どう言う意味?」
知の精霊長は、言いにくそうに答えた。
「……『非人間的な扱いを受けて亡くなった』と言うことです。
彼等は、明治時代の “ タコ部屋 ” 労働の犠牲者です……」
「タコ部屋労働?」
「はい。トンネル建設の労働者と言うよりも、 “ 奴隷 ” と言った方が近いです」
マリーは、言葉を続ける。
「ただ、今は重要な作戦の最中です。
直接の申し入れが無ければ……。今回、マイスターには、事後報告のみに止めるつもりでした。
そして本作戦終了後、マイスターが望まれた場合のみ……。後日、ここまで私共が御案内するはずでした……。
しかし、どうも捕虜にした悪魔の指揮官の話では……。ベルゼブルが、この席を企画したみたいです」
「ベルゼブルが?」
「はい、そうです。
つまり、マイスターを先程の戦闘で拉致出来れば、そのまま連れて行く算段だったようです。もちろん、私共の戦力と覚悟を見切る心算も、有ったでしょうが……」
ここで、筆頭精霊長の口調が強くなった。
「それにしても……。マイスターを霊的に直接狙うとは、身の程知らずも甚だしい!
以降の行程では、 “ 彼の身 ” 共の狼藉を “ 解債条件 ” として、一千万身以上の手勢を持って “ ゾーン・ディフェンス ” を成し、サタンの霊的な全ての介入を断固阻止します!!」
……そこへ、近衛隊が身支度を整えて戻って来た。
クオーツは、ちょっと滑稽になっている知の精霊長の横で、吹き出すことなく努めて冷静に一礼した。そこに、近衛隊総長としての自覚と覚悟が滲み出ている。
亮圭は、臣下を思いやって言った。
「傷は大丈夫なの? クオーツ」
クオーツは、意の精霊長に良く似た優しい顔で微笑んで、首を垂れた。ストレートの髪を紙縒りで結び、腰までのポニーテールにした銀糸の束が静かに揺れる。
「はい。御心配を御掛けしました。
御承知の通り……。霊的な戦いでは、傷は直ぐに無くなり、痛みの記憶が残るのみです。
これしきのこと、マイスターの御為ならば、何程のこともありません。
ただ……」
近衛隊総長は、一呼吸置いて、精霊の主に進言した。
「マイスター!
ここでは拘禁、いいえ監禁の恐れがあります。もし監禁されれば、肉体が昏睡状態になる等、大変に危険です。
我等、これより事態収拾まで、最上級の直衛に入らせて頂きます。許可を、御願いします」
亮圭は、周りを見渡した。状況は、近衛隊士達の表情からも、容易に想像出来る。
「うん、分かった。……許可します。ただし、会うのだけは妨害しないで……」
クオーツは、片膝を折り、額ずいて答えた。
「御意のままに……」
「……御会いに、なるのですか?」
筆頭精霊長が、精霊の主に問い直した。少し声が、震えている。
亮圭は、肯いた。
「『会いたい』と言うのなら、会っても良いんじゃないの? ……たとえ短い時間でも……」
マリーは、頭から否定した。
「ダメです! 精神的にも、良くありません!」
「……でも、無理しても『会いたい』と言っているのに、断るのも悪いんじゃあ……」
「それは……」
筆頭精霊長が言葉に詰まる。それは、九歳の少年の指摘が、的を得ている証拠でもあった。
短い沈黙の後、意の精霊長が口を開いた。
「マリー……。マイスターの安全なら、大丈夫です。
今度の相手は、十数万余のサタン軍に比べて、霊的には取るに足りません。
……それに私の部下は、あの状況に於いても、完璧にマイスターを御守りして見せたでしょう?」
全精霊の長であるマリーも、それを認めることに異存は無い。近衛隊は、一千倍以上の敵を百三十身で、亮圭に傷一つ付けず、防いで見せたのだから……
「確かにね……」
……マリーは、そう呟くと、呆れた顔のままで話をまとめた。
「……では、短時間と言うことで……。マイスター、よろしいですね!」
「……うん……」
「それと、マイスターに続いて、私共も付いて行きます! 『ダメ』と言っても、付いて行きますからね!!」
精霊の主も、筆頭精霊長の迫力には、これを認めざるを得ない。
「……許可します……」
亮圭は、その後ろに今回参戦した全ての精霊を従えて、目の前に現れた単線のトンネルの中へ進んで行くこととなった……。
……近衛隊は、トンネルに合わせた輪陣形を構成して、鉄壁の守りを如いている。最前衛は、近衛隊副総長のリーンが担当している。そして主の直後には、近衛隊総長のクオーツがピタリと張り付いている……。
やがて、トンネルの壁に扉が現れ、中から一人の青年が姿を現す。リーンが、亮圭に合図をした。
「マイスター。御迎えの方が来ました」
精霊の主は、自ら進み出る。
「河村亮圭です。会いたいと言われたので来ました」
相手は肯いて名乗った。
「“ 岡村 権兵衛 ” だ。……御前、良い面構えしてんな。……気に入ったぜ。
オヤジ達は、こっちだ。付いて来な……。
……おっと、御付のアンタ達は、ここまでだ」
岡村が、進み出ようとしたリーンを止めた。近衛隊副長が反論する。
「そうは行かない。主の安全確保は、何よりも優先される」
「……この途轍もない数の、アンタ達からの殺気と精気に晒されたら、やってらんねえんだよ!」
「そうは言ってもだな! こちらにも……」
不意に、亮圭が口を開いた。
「クオーツ。僕の警備に少なくとも何身必要?」
近衛隊総長は、少し考えてから返答する。
「そうですね……。最小で、私とリーンが居れば……。
……ええ、何とか、なります。大丈夫です!」
精霊の主は、岡村に向き直って言った。
「岡村の小父さん。それじゃ、ダメ?」
岡村は、頭を掻きながら言った。
「大したもんだ。小僧とは思えねぇや。
それで良いぜ。ただし、殺気は消してくれよ」
亮圭は肯くと、近衛隊に向き直る。
「じゃあ、クオーツとリーンが直衛。殺気は、殺してね。
後の全隊は、ここで待機。何か遭ったら、そっちの判断でも動いて良いから……。御願いね」
精霊の主の采配に、近衛隊の隊士達も後ろの精霊長達も、渋々承知した。隊士達が、口々に思念を掛けて来る。
[……どうぞ、御気を付けて……]
亮圭は、微笑んで言った。
「皆、ありがとう。……クオーツ、リーン、行こう」
精霊の主は、扉を潜ったとたん、腐臭と血臭と死臭で気が遠くなりそうになる。
「オヤジは、この先だ。付いて来な」
一人と二身は、岡村に続いて奥へと歩いて行く。
暗がりに目が慣れて来ると、凄まじい光景が在った……。
骨と皮は、まだ良い方だ……。ある者は、全身傷まみれ。ある者は、壁に塗り込められている。また、ある者は……。筆舌に尽くしがたい光景に、亮圭の目から、涙が止めど無く流れる……。
岡村が、振り返って言った。
「帰るか?」
精霊の主は、首を横に振ると、涙を拭おうともせず前に進もうとする。
「ちょっと、まった……」
岡村が両手の身振りを交えて、彼等を場に止めた。
「……ここが終点だ。
オヤジ。連れて来やしたよ!」
岡村が、一行の正面から退く。すると、横の灯が点いた……。
正面に鋭い眼光の男が座って居る。痩せているが屈強な体躯には、幾つもの傷が有った。
「良く来たな。
……あの戦いの後で、二人だけ連れて乗り込んで来るとは……。普通なら身が竦んで動けないだろうに……。見上げたもんだ!
……まあ、座ってくれ……」
小さな来客者は、目の前に岡村が置いた丸椅子に座ると、名乗った。
「僕は、河村 亮圭と言います」
「俺は、 “ 大山 五平 ” だ」
大山は、少年を値踏みするように見る。
「……あの男は、御前を『俺達を救ってくれる救世主だ』とか言っていた。だが御前から、そんな力は感じられない。……どうやら、それは嘘だったらしいな……」
亮圭は、ここで少し冷静さを取り戻し、涙を手で拭うと質問した。
「『あの男』って誰?」
「自分のことを “ ベルゼブ…… ” 何とかと言っていたが……。心当たり、有るのか?」
少年は肯いて答える。
「多分、ベルゼブルだと思う……。一番強い、熾悪魔だよ……。直接、会ったことは無いけど……」
大山は、驚いて聞き返した。
「悪魔だって?! あの男が、かぁ?」
「うん。あれ等は、人を騙すのが、とても得意だから……」
「とても身分の高い男に見えたぞ……」
「『そうやって相手の信用を得て、心に侵入して来るんだ』と、御父さんが言ってた。
それに悪魔だって、何時も悪いことばかりをする訳じゃないよ。『もっと悪いことをする為に、今は良いことをすることも有る』って……」
大山は、自嘲気味に笑って言った。
「……つまり、知恵者の御前と御前の親父に、助かる方法を考えて貰えって訳か……。馬鹿馬鹿しい話だな……」
そのまま大山の自虐的独白は、来客を置き去りにして続いて行く……。
亮圭は、しばらく我慢して聞いていたが、それが途切れたタイミングを狙って口を開いた。
「小父さんに、質問したいことが有る」
大山は、ハッとして我に返ると、少年を見据えて言った。
「何だ? 言ってみろ……」
亮圭は、ここで感じた思いを吐き出す。
「教えて!! 何で、小父さん達が、ここに居て、こんなことに成っているのか?!
僕には分からない!」
「知って如何する?」
「助かる道を探す! たとえ時間は掛かっても!
こんなの、酷いよ! 可哀想だよ! 何で、こんなことに成っちゃったの!? どうして……」
少年は、再び涙を流す。そこには、赤心のみが有った……。それを感じた大山の表情には、後悔が浮かぶ。
「……御前は良い奴だな……。ありがとうよ……。その心だけで十分だ……。
その答えは、一言では難しい……。……まあ……人の業って奴だな……。
……呼びつけて、済まなかった……」
ここで、クオーツが口を開いた。
「貴方が、まだ此処に居るのは……。まだ恨みに苦しむ、この人達を見捨てることが出来ないからですね……。
この人達は、 “ 慰霊塔 ” や “ 慰霊祭 ” でも癒しきれなかった人々……。そんな人達の為に『一縷の望みを掛けて、ベルゼブルの話に乗った』と、私は考えたのですが……」
大山は肯いた。
「……まあな……。……今更、嘘をつく必要も無い。その通りだ……。
……俺は、あの慰霊塔建立の法要で救われた。だが、此奴等までは、無理だった……。
……そこの若者は、新婚なのに騙されて送り込また。女房に会うために逃げ出したところを捕まってな……。拷問の挙句に、トンネルの壁へ生きたまま塗り込められた……。 “ 人柱 ” ってやつだ……。
……この娘は、家が貧乏で親に売られ、監督共の女郎として連れてこられた。そして、何回も堕胎した挙句に、気が狂っちまった……。
……こっちの子供は、扱き使われるだけでは無く、娼夫にされた。……尻の穴から膿を流して苦しんで居るのに、何度も容赦無い強姦の果てに『御母さん……』と呼びながら死んでいった。今も……」
ここで大山は、ハッと我に返って言った。
「済まん……。どうにも、此奴等のことを思うと、止まらなくなる……」
しばらく沈黙が在った。
来客者の少年が、ようやく言葉を絞り出す。
「……今、僕には、何の力も無い……。……でも、また来ます……。……その時には、皆を助ける方法を持って……。
……それまで、待っていて下さい……」
大山が、穏やかな口調で言った。
「……その心だけで十分だ……。
ただ……。御前に、その気が有るのなら……。当てにしないで、待つとしよう……」
……その言葉の瞬間。亮圭達は、部屋の入口の扉の前に座っていた。近衛隊の隊士が、一斉に駆け寄って来て、口々に尋ねる。
「マイスター、御無事ですか!」
「御心が、傷つけられませんてしたか?!」
「御無理をされて……」
言葉の出ない精霊の主に代わり、近衛隊総長が受け答えをした。
「マイスターは、大丈夫だ。ただ、悲惨な現実に、御心を痛めておられる。
今回の我記憶を、全精霊に対して制限無く公開し、共有する……」
……やがて、波が引くように喧騒が収まって行く。クオーツは、それを確認して、配下の隊士に指示を出す。
「なお、既に彼等への道は、彼等自身の手で閉じられている。もう、係わって来ることは無いと思われる。
総員、サタンからの介入にのみ備えよ!」
そこへ三精霊長が、全軍を率いて、精霊の主の前に参じた。
「大丈夫ですか? マイスター」
少年は、筆頭精霊長の胸に、自らの顔を埋める。マリーが亮圭を抱き抱えると、クオーツとリーンは後ろに下がり控えた。
「大丈夫ですか? マイン・マイスター……」
「マリー……。僕は……。僕は……」
そのまま亮圭は、マリーの胸の中で、泣き声を殺して泣いた。
[僕は、何も知らなかった……]
筆頭精霊長は、その思念に、思念で答えた。
[仕方ありませんよ……。特別に勉強した訳では、ありませんから]
[……じゃあ、知らなきゃ……]
マリーは、顔を上げた亮圭の目に、ドキリとする。
「ここの、タコ部屋労働の資料を見せて! 今、準備出来るだけで良いから!」
精霊の主が出した指示に、筆頭精霊長は諦め顔で応じる。
「……分かりました。触りだけにしますが、辛いですよ……」
亮圭が肯いた。
「では、始めます。
彼等は、日本各地から言い包められて、送り込まれて来ました。
労働環境は、劣悪かつ苛烈です! 肉体労働を一日、平均十五時間させられていました。食事も、とても粗末な物です……」
主は、目の前に表示された食事内容の立体映像に、吃驚する。
「……これ、おかゆ?」
「ええ。ほとんど、何も入っていないでしょう……。これが毎日、朝と夜の二回です」
「嘘……。力、出ないよ……」
次に立体映像は、服と布団に変わる。それは、現代では考えられない粗末な物だった。
「着る物は、冬でも、このような粗末な木綿の上着です。ボリュームが有りそうですが、実際には防寒の用を成しません。
寝る場所も、ほぼ板の上と同じと考えて良いものです。薄い上掛け数枚で、冬を越したのです。
それに給金なんて、ほとんど出ませんし……」
亮圭が、ボソッと言った。
「……もし、病気になったら……」
マリーの返答は、どこか乾いている。
「病気が無くても……。間違い無く、待っているのは “ 死 ” です。
道内の “ インフラ(Infrastructure:社会基盤) ” や遺構は、こうした地獄の上に作られたものが、とても多いのです」
「……そんな、酷いことを……」
「それを成せるのは、サタンの息子・娘となったアダムとエバの子孫である、現人類だからこそです。
感覚を共有した “ 完成した人類 ” ならば、これを相手に強要すれば自分が苦しむのですから、そんなことは出来ません。
その辺は、教会学校で話が有りましたよね……」
「うん」
精霊の主は、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「……ねぇ、マリー……。……その人達は、今も、そこに居るの?」
「はい。供養されなければ……。今も地縛霊として、そこにいる場合が多いです」
「助けられないかな……」
「教会の組織がサタンの霊的侵入によって自己崩壊し、摂理が失敗した後の時節柄……。私からは何とも申し上げられません。
申し訳有りませんが、御自身で御考え下さい」
「うん……」
ここで、マリーが亮圭の前に立つ。そして、縦膝を付いて言った。
「もう、これ以上の詮索は、この後の行動に少なからず響きます!
もう、御体へと、御戻り下さい」
亮圭も、マリーの態度に、状況を再認識する。
「……分かった」
マリー達の姿が消え、周りが赤く、明るくなって行った……。
……少年の目は、瞼の下から外の明るさを感じた。耳には『ゴーッ』という低い音が響いている。
[……ここは?]
ゆっくりと体を起こすと、左側から声を掛けられた。
「あっ、亮圭君、起きた? 随分、魘されていたわよ。大丈夫?」
「……小母さん……。僕は、寝ていたんだ……」
「ええ。一時間と二十分はね……」
「ここは、どこ?」
「先刻、 “ 白滝駅 ” を発車したわ……。このまま山を登って行って、 “ 石北トンネル ” で “ 北海道の屋根 ” を超えるわよ」
「そういえば、列車が後ろに走っている……」
「“ 遠軽駅 ” で “ スイッチバック ” して、進行方向が変わったからね……。
座席を反転させようか?」
「うん」
冴子は、座席を進行方向に回すと、亮圭を再び窓側に座らせる。今までは窓が右側だったが、今度は左側となった。
「ところで、先刻の夢は、どんな内容だったの?」
少年の表情が、一瞬固まる。
[うわぁ……。 “ 地雷 ” を踏んだかしら……]
樞警視は、慌てて前言を修正した。
「無理は、しなくていいからね。話せるようになったら、話してくれれば良い……」
亮圭は、決意の籠った目で、冴子を見詰めて言った。
「ううん。今、話す……。
……小父さんにも聞いて欲しいんだ。
小母さん、僕を真ん中の席にしてくれる?」
冴子は、一瞬、その目に呑まれそうになる。しかし、歴戦の現職警察官は、リカバリーも早い。彼女は短く応じた。
「……ええ」
樞警視正も、短く応じる。
「……聞かせて貰おう」
亮圭は、霊界で体験したことを、二人に話した……。
……話しが終わると、樞 卿一が口を開いた。
「それは、 “ 常紋トンネル ” のことだな……」
「常紋トンネル?」
少年の言葉を受けて、卿一が言葉を続ける。
「ああ……内容から言っても、間違いは無いだろう……。
実際に『人柱がトンネルの壁から出て来た』ことで、その筋では有名だ……」
亮圭は、また、ポツンと言った。
「……僕、何も知らなかった……」
大男は、涙顔の少年を慰めようとした。
「それは、まだ仕方ないことだよ。
……この世界は、とても広い……。
そして、清いものと汚いもの、強いものと弱いもの等々、相反するものが犇めき合っている。
まだ九歳なら知らなくて当然だ……。むしろ知っている方が、不幸なことかもしれん。
そして、ちょっと可哀想なことだが……。知ったことで、以前の自分には戻れない。だから、それを糧に……」
卿一は、そこまで言って、ハッとした。
「いや、まさかとも思ったが……。ひょっとして、 “ 大山の大将 ” が『後悔したようだった』と言うのは、そのことかも知れないな……」
冴子は、呆れた顔で言った。
「あなたは、大人と話しているの? 子供と話しているの?」
「……男同士なら、これで良いんだよ。なあ、亮圭君」
「……うん。僕、これで全然大丈夫だよ」
冴子は、頭が痛くなるような理屈話をアッサリと肯定した、男二人の切り崩しに掛かる。
「ダメよ、亮圭君! こんな “ 似非聖職者 ” の口車に乗せられちゃ! 頭の中が、理屈でゴチャゴチャに成っちゃう! 今は、もっとリラックスして……」
少年は、冴子の言葉に新鮮な響きを見つけて、その言葉の間を捉えて質問した。
「……小母さん。小父さんが “ 似非聖職者 ” って、何で?」
[まあ、 “ 理屈 ” を捏ねて、混沌に落ちるよりは、良いか……]
そう考えた樞 冴子は、少年の質問に答えた。
「それはね……。
彼の名前、 “ 樞 卿一 ” でしょう。 “ 樞 ” と卿一の “ 卿 ” の間に機械の “ 機 ” を入れると、 “ 枢機卿 ” になる。
枢機卿、英語で “ Cardinal ” と言えば、 “ Catholic教会 ” で法王に次ぐ聖職者のことなのよ。……とても、この小父さんは聖職者に見えない! だから、似非聖職者よ!」
早速、夫から苦情が出た。
「酷いな……。それが、亭主に対する言葉かぁ?」
「あなたの “ 理屈 ” に付き合うのに、どれだけ苦労していると思っているの!」
ここで卿一は、ある意味で禁じ手を出した。
「“ 枢機卿 ” としては、迷える子羊をだなぁ……」
冴子も、対応する語録で対抗する。
「救われる前に、頭の中が “ 混沌 ” になる!」
二人の会話は、そのまま軽い痴話喧嘩になってしまった。少年の頭越しに、言葉の砲弾が飛び交う……。
……亮圭は、しばらく我慢していたが、堪忍袋が切れたように決然と立ち上がる。二人の会話の応酬が、ピタリと止まった。冴子は、目の前で仁王立ちになった少年に、息を呑む。
「……どうしたの、亮圭君……」
「小母さん! 席、変わって!
僕、少し、考えごとを、するから!」
子ども・女性安全対策室室長は、再び一瞬の間で、心の体制を立て直す。そして、笑って少年の要求を受け入れた。
「ええ。そうしましょうか……」
亮圭は、 “ 1A ” に座ると、窓の方を向いて動かなくなった。
「……大したものねぇ……。……こっちは、恥ずかしいわ……」
「……ああ、見事だ。全て計算したような動きだな……」
「計算した?」
「私と御前の間に、通路を入れた処なんか……」
「あ……」
短い沈黙の後、亭主が口を開く。
「しばらく、大人二人は韜晦しているとしよう……」
「……賛成……」
二人は、そのまま静かに小さくなる。その時、二人のヘッドセットに、筆頭精霊長マリーの声が聞こえて来た。
『樞様。御二人共、少し御時間よろしいでしょうか?』
二人は、亮圭に気付かれないように応じる。
「何かな、副官殿?」
「どうしましたか?」
『御二人に、 “ 上川 ” 以西の状況と、私共が考えている作戦を御話したいのですが……』
「是非、聞かせて貰おう……」
「どうぞ……」
そのまま二人と一身は、ヘッドセット越しに、ヒソヒソと話し込む。
やがて列車は、長いトンネルへと入って行った……。
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2015.09.12 初版公開[旧、第三章] (Ver 1-01.00)
2016.02.26 改訂第二版公開 (Ver 2-01.00)
2017.08.28 読み易くする為の修正、一部加筆、漢字誤用、誤字、ルビ小修正版公開 (Ver 2-02.00)
2018.01.06 一部の解り難い部分、文章表現、誤字、ルビ修正版公開 (Ver 2-02.01)
2018.08.16 一部の解り難い部分、文章表現、誤字、ルビ修正版公開 (Ver 2-02.02)
2018.08.23 大元のWordファイルとの内容差異が生じたための文章整理、誤字修正、読み易くする為のルビ修正版公開 (Ver 2-02.02.01)




