第二幕 帰還の物語 第三章 夜を渡ると雲の海、そして……
----- 第二幕、第三章 ----- 夜を渡ると雲の海、そして…… -----
……亮圭とマリーが二階から居間に降りると、丁度、スティングレー親子が風呂から出て来た。
場を仕切っている政志は、二人の女の子に声を掛ける。
「次は、幸来ちゃんと幸来が入りな」
幸来が質問した。
「おトイレは、どこですか?」
「トイレは、そこの “ 障子の扉 ” を出てから右に行って、左に曲がった先に在る。『新しくリフォームした場所だ』って言っていたから、昔と違って、怖いことは無いと思うけど……」
「怖い?」
幸来には、その意味が分からなかった。
幸来も幸来に続く。
「私も一緒に行って来る」
「早くしろよ」
「はーい」
二人は、教えられたとおりに、居間を出て行った。
エリーが、台所で御茶を入れている。アーサーは、その香りに覚えがあった。
「カモミール茶……。亮圭君は、良く飲むのか?」
「はい。……アーサー様は苦手ですか?」
「そんなことも無いが……。少し癖があるだろう」
「蜂蜜を入れてあります。飲み易いですよ。……飲まれますか?」
「……ああ。もらおう」
そういった瞬間……。
「キャー!!」
その場の人間、全員が吃驚した。悲鳴は、トイレに行った二人のものだ。
「幸来ちゃん!」
河村家の長男が、叫ぶと同時に先頭を切って飛び出す。
二人は、廊下突き当り右側のトイレの中で、抱き合って震えていた。
「幸来ちゃん、大丈夫?」
「亮圭君……。怖いよぅ……」
幸来は、しくしく泣きながら、亮圭に抱き付いて来た。
政志が、息子越しに、中を覗き込む。
「二人共、大丈夫か?
……リフォームして、いなかったのか……」
その呟きに、幸来が怒る。
「何がリフォームよ! こんな恐ろしいトイレで、『用をしろ』って言うの?!」
幸来と幸来が居る部屋には、男子用の小便器が在る。
そして、その先に在る扉の先には、汲み取り式の “ 全穴式大便器 ” が、ぽっかりと漆黒の口を開けていた。それは金隠し以外、全て穴になっている。……怪談に出て来る、あのトイレだ……。亮圭が呟いた……。
「……まるで、ブラック・ホールだ……。何でも、飲み込んじゃいそう……」
そこへ、樞夫妻を見送りに行って来た洋一郎が、後ろから声を掛けて来た。
「……何やってんだ?」
「いやー……。『トイレ・リフォームしてある』って聞いていたんで、行かせたら……。悲鳴上げられちゃって……」
洋一郎は、政志を睨むと、子供達に苦笑いして言った。
「あーあ……。……御前らの御父ちゃんは、罪深いのぉ……。
政志! だから『リフォームした部分だって言え』って、そう言っただろう!」
「……リフォームって、『トイレを全部壊して作り変えた』と思って……」
「そんな無駄金、有るか!
……こっちだ!」
綿織家の主人は、そこの手前から分かれて続く廊下の1メートル先の右側の扉を開けた。
「ここだ」
確かに、そこには最新の洋式水洗トイレがあった。扉の横に “ トイレ ” と名盤が貼ってある……。
「そんなぁ……。右に行って、左に行って、突き当りの手前を右に行って、右側の壁の扉なんて……。死角になってるぅ……」
幸来が、項垂れる。
横を見ると……。弟は、しがみ付いて来る幸来を、優しく抱き寄せていた。
[幸来ちゃんは、良いなぁ……。私を慰めてくれる人は……]
そんな幸来に、まだ湯気の出ている健斗が、声を掛けて来た。
「……大丈夫ですか?」
「……はい……」
幸来は思わず、そう答えた。父親が、ほぼ瞬間的に反応する。
「ほー……。こいつ、『はい』だとさ……。母さん、どうしようか?」
幸来は、心の底から後悔した。このツッコミは、予想出来ることだ。
しかも……。
「幸来ちゃんが、こっちに来てくれるんなら、幸来が、そっちに行っても良いけど……。今のままでは、健斗君に迷惑が掛かるしねぇ……」
母親まで、ツッこんで来る!
「ちょ、ちょっと待って! 何で、そういう話になるのよ!」
更に……。
「幸来さん。何日か、 “ 逗子 ” の “ 池子 ” に在る、私達の家に御泊りしてみましょうか?」
幸来の母親が、悪戯っぽい顔で迫る!
「小母さんまでぇ! もー!」
幸来が派手に狼狽した。一同、大笑いになる。
でも、亮圭は冷静だった。幸来をエスコートして、トイレへ連れて行く。
「あっちが騒いでいる内に……。トイレ、使っちゃって……」
「うん……。……御姉ちゃん、お先に……」
少女は、縮上がった体で、ようやく用を済ませる。
居間に戻ると、騒動は収まっていた。風呂には、幸来の母親の愛実と “ 京花小母さん ” が一緒に入ったようだ。
「幸来さん……。これを飲んで、少し落ち着いて」
河村家の長女は、スティングレー家の長男が差し出したカモミール茶を口に運ぶ。
「……ありがとう……」
「……母が、失礼なことをしました。許して下さい」
亮圭の姉は、肯いただけだった。でも、たまにチラっチラっと健斗を見ては、視線を外している。幸来の兄は、そんな彼女を、優しい顔で見詰めていた。
幸来には、幸来の態度の意味が、なんとなく分かった。両家の父親は、気が付いているようだが、静観している。
[二人だけに、してあげよう]
そう思ったスティングレー家の長女は、一番邪魔をしそうな河村家の長男に声を掛ける。
「亮圭君。明日から大変なんだから、先に寝て。私達、御風呂の後に行くから」
亮圭は、全てを了解していたので、快諾した。
「うん、分かった……。
……それでさぁ……」
幸来は、婚約者の一寸不服そうな顔に、少しドキリとする。
「なに?」
「わざわざ “ 亮圭君 ” と呼ばなくて良いよ。 “ 亮 ” って呼んでくれれば良いから……」
幸来は、笑って答えた。
「じゃあ、私のことも “ 幸来ちゃん ” じゃなくて、 “ サリー ” って呼んで。同じ意味になるの。それに、サリー方が慣れているから」
「分かったよ。サリー」
「うん。 “ 亮くん ” 」
「“ かっくん ” ねぇ……。まぁ、いいや……。それで良いよ」
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
亮圭は、先に二階へ上がり、一番奥の布団に包まると直ぐに寝てしまった。
筆頭精霊長は、精霊の主が寝付いたのを確認すると廊下の奥に移動して、携帯電話を取り出してコールする。その相手は……。
「……そうか、分かった。報告、御苦労だった……」
防衛大臣 “ 榊 征太郎 ” は、百里基地から自宅に戻ったところで、嬉しい知らせを受けた。
「あなた。秘書の “ 田中 ” さんから?」
妻の質問に静かに答える。
「ああ……。 “ 健吾 ” の奴は、もう大丈夫だ。 “ 澤井 ” ん家の “ 翔太 ” 君もだ……。
まったく、あの二人め……。心配掛けさせやがって……」
義理の娘が、頭を下げた。
「……義父様、申し訳ありません。御迷惑を、御掛けし……」
その声を右手で制す。
「なに、君や俺の息子が悪い訳じゃない。 “ 松野 雄三 ” の末息子が悪いんだ!
奴め……。 “ 国家公安委員長 ” の父親の威光をかさに、与党の政治家の子弟を巻き込んだんじゃないか! “ 麻薬取締法 ” で逮捕されて、自業自得だ……。
……可哀想なのは、松野の長男の息子だ。まだ、目を覚まさないらしい……」
再び、自身の携帯電話が鳴った。
「おっと、電話だ……。ん!!」
榊家の家長は、その番号を見て、一瞬だが目頭が “ うる ” っとする。
「あなた……。大丈夫?」
妻の “ 真美子 ” を右手で制すると、居間を出て行きざまに、こう言った。
「書斎に居る……。
重要な連絡だ。しばらく誰も来るな!」
部屋に早足で入り、ドアの錠を掛けると、徐に “ 通話ボタン ” を押す……。
「榊だ……」
『夜分、失礼いたします。
……榊大臣で、いらっしゃいますね? 筆頭精霊長のマリーです。御約束の報告が遅くなり、申し訳ありません……。
本日の作戦は、滞り無く終わりました。御協力に感謝申し上げます……』
“ 明公党 ” きっての武闘派が、その声に涙声を抑えきれなくなった。
「いいや、こちらこそ感謝する!
先程、連絡が有った。もう、命に別状は無いそうだ……。 “ 澤井 ” の孫もだ……」
電話先の女性は、幾分声を抑え気味に答えて来た。
『はい。御二人には『後遺障害も心配無い』と、こちらにも配下の “ 身 ” より報告が入っております。本当に良う御座いました……。
……ただ、国家公安委員長の御孫様は、植物状態を免れえないかと思われます……』
防衛大臣の声も少し重くなる。
「……そうか……。もう目を覚まさんか……。半日の違いと『麻薬を一度でも、やったか、やらなかったか』でなぁ……。
松野 雄三の家族の不祥事とはいえ……。委員長と長男は、末の弟を一生恨むことになるな……。世間的にも、政界からは、引退せざるを得ないだろう……」
『はい。 “ 民自党 ” のスキャンダルとして、しばらくは騒ぎになるでしょう……』
「……こっちも、『無罪とは行かない』だろうしな……」
マリーは、声を明るい調子に変えて答えた。
『それは、大丈夫です。
榊大臣と澤井大臣は “ 明公党 ” ですし、完全な被害者です。御孫様方、二人から麻薬の反応が出るはずも有りませんし……。問題は、ありません』
「それは、何より……」
榊が、そこまで言った所で、相手が悲鳴を上げた。
『うわっ……。
“ 健斗 ” さんに “ 幸来 ” さん! まだ起きて居たんですか?』
電話口に耳を澄ますと、男の子と女の子の声が聞こえる。
『電話中? まだ掛かりそう?』
『ええ、フロイライン。今日、協力してもらった “ 榊 防衛大臣 ” へ報告をしていますので……。急ぎでなければ、後で御受けします』
『じゃあ、後で御願いします。妹のことで……』
『お兄ちゃんの唐変木!』
『……どこで覚えたんだよ。そんな言葉』
『どこだって良いでしょ! ……』
[……確か、この声は……]
榊大臣は、筆頭精霊長に呼び掛ける。
「なあ、マリーさん。そっちの携帯を “ スピーカー通話 ” に変えてくれないか?その子達の声と名前には覚えが有る」
相手の反応は、幾分遅れた……。
『……分かりました』
携帯から聞こえて来る音に、低い雑音が混じる。それを確認して、榊大臣の方から先に口を開いた。
「……私の記憶が確かなら……。先達て、君達とは米海軍 “ 横須賀基地 ” の懇親会で会っているな……」
『……はい。あの時は失礼しました。
情報部将校、アーサー・スティングレーの息子の健斗です。妹も一緒です』
「ああ、やっぱり、そうか……。小さいのに随分と強者の、 “ とっつぁん坊や ” が居たんで、良く覚えているよ。
……防衛大臣の “ 榊 征太郎 ” だ
それにしても……。何で君が、ここに居るんだ?」
健斗は、さっさと白状した。
『横に居る幸来が、亮圭君の婚約者と成ったからです』
武闘派大臣も、これには驚く。
「何だ! あの子の “ 未来の御嫁さん ” て、妹の幸来ちゃんのことか!
……世間は狭いなぁ……」
『ええ。本当に、そうですね……』
「おいおい……。そう言う “ 受け答え ” をする処が “ とっつぁん坊や ” なんだよ……」
『済みません。これも性分で……』
「……だめだ。こりゃ……」
健斗が一頻り笑った。それが終わるのを待たずに、幸来が口を開く。
『小父様は、亮圭君とは、どういう知り合いなんですか?』
「……今日の朝、知り合ったばかりだよ。そこのマリーさんの使いが、たまたま内輪の内覧会で百里の基地司令室に詰めていた俺を訪ねて来たのが縁の始まりだ。
その縁の御陰で、孫の健吾が助かった……」
『え? “ 健吾 ” 兄さん、何かあったの? パーティーの時に、『六月の終わり頃には、大学のサークル活動が大変だ』とか言っていたと思ったけど……』
二人の会話に、筆頭精霊長が割って入る。
『……それは、私から説明します。
幸来さんと健吾さんは、同じ “ ナノ・マシーン ” に感染していたのです。ただ、幸来さんは少量の投与で長期間の慢性症状ですが、健吾さんは大量の投与で急性症状です。後、一時間も遅ければ後遺症が出て、六時間半遅ければ “ 植物状態 ” になる処でした』
少年の声が少し上擦って聞こえて来る……。
『……症状の出方が、全く違うんだ!』
『はい、そうです。
この特徴を生かせば、相手を速やかに殺すことも、時間を掛けて “ 謎の病気 ” として殺すことも出来ます。
……あの国も物騒な物を作ったものです……。が、私共には無力です。御心配無く!』
筆頭精霊長が得意げに話した後、嫌な無音の間が在った。
『……フロイライン?』
マリーの呼び掛けに幸来が口を開く。
『……ねえ、マリー……。私の左腕の痺れた感覚は、死ぬまで治らないんでしょう……』
『そんなことは、ありませんよ。 “ 特別な治療 ” をすれば、完全に治りますが……。今回は、マイスターの負担が大きく成り過ぎますので、また “ 解債条件 ” を積んだ上で改めて対処します……』
『……私の為に、亮圭君が無理をして東久留米の家まで……』
幸来の声は、そこで途絶えた。僅かな嗚咽が、微かに聞き取れる。
榊 征太郎は、政治家の勘で、現在の相手方の状況が『未だに現在進行形である』ことを、ほぼ正確に理解した。
「……まだ、取り込み中のようだな……。俺に出来ることなら、何でも言ってくれ。あの子には、孫の命を助けて貰った大恩が有る。
それに、彼が東京に帰ったら、せめて飯でも奢りたいし……。
……どうだろう? 明日の午後、今回使ったF‐15DJを女満別から “ 新田原 ” まで “ 回航 ” するんだが……。それで “ 入間 ” まで送るってえのはどうだ? その位の礼は、させてくれ」
筆頭精霊長が、慌てた声で断って来た。
『……そこまでするのは危険です。何故、民自党の “ 生え抜き首相候補生 ” ではなく、一時的にでも明公党に防衛大臣のポストが廻って来たのかと言えば……』
「……『ここの所、続いた不祥事の結果だ』って言いたいんだろう?
大丈夫だよ。新田原まで飛ぶのに、燃料補給で入間に降りたとしても、 “ 空路 ” 上だから、誰も怪しまん……。
……それとも、何か別の事情が有るのかい?」
マリーは、少し考えを巡らすと口を開く。
『では、こちらの事情を説明させて頂きます……。実は……』
榊 防衛大臣は、約十五分に要約された説明を熱心に聴き切った。
『……分かった。そういうことなら、こちらも即応態勢を取らせて貰おう。
俺は、明後日までは携帯を持っていれば仕事になるから、理由を付けて百里の司令室に詰めることにする!
神田川君と “ 神田川夫人 ” には、私から話しておくよ。太田君も明後日までは “ オフ ” で百里に居るようだし……。三人共、君の主のことは心配していたから、嫌とは言うまい』
『……話が大きくなると……』
「分かっている。何もなければ、四・五人で地味にやるよ。
それと、こちらでも彼の位置を把握しておきたい。位置とか映像とか、何か情報は送ってくれ……」
ここで子供達が、声を揃えて会話に加わる!
『こっちにも、頂戴!!』
筆頭精霊長の返答は、明らかに遅れた。
『……そう言われましても……。……マイスターに “ ウエラブル カメラ ” を持って頂くのは、行動の負担になりますし……』
健斗が口を開く。
『例えば、『{亮圭君が見たものを、視神経から直接キャプチャーする』とか出来ないの?』
『……まあ……。
……それならば、可能かとは思いますが、マイスターの許可が必要です……。今、寝ていらっしゃいますし……。タイミングを見て聞いてみますから、時間を頂きたいと思います』
その発言に、三人は取り敢えず納得した。
「……了解した。良しなに頼む。
それと、もう一つ……。我々と最初に交渉した精霊の……」
『…… “ ソニア ” ですか?』
「ああ、そうだ。彼女を連絡要員として百里へ派遣してくれ」
『……分かりました。この件は、そうします』
「では、君の主に、くれぐれもよろしくな。何かあれば、この携帯でもソニア君を通してでも良いから、連絡をくれ……」
『……はい。その節は、よろしく御願いします。では、また連絡致します……』
「分かった。また後でな……」
相手が電話を切った……。
榊 防衛大臣は、緊急用携帯ホットラインを使う。コール3回で、明後日までは百里基地司令の “ 神田川 鉄朗 ” 空将補が、電話口に出た。
「おお、神田川君か……。榊だ。昼間は有難う! 御陰で孫は助かった!」
『……そうですか。それは良かった……』
「……実は、その続きで、折り入って頼みが有るんだ……。かつての君の教官の好で、また聞いてもらえないだろうか……」
元、鬼の教官に頼まれては、本当に断りにくい……。
『……はぁ……。今度は何でしょうか……』
……筆頭精霊長は、通話を終えると二人に向き直って言った。
「……さて。今後の為に、榊 大臣を良い方向に巻き込むことには成功しました。御二人の弐心無き、無邪気な “ 赤心 ” の御陰です。有難う御座います」
健斗は、マリーに感謝されても、浮かない顔をしている。
「……これで、『自衛隊を使って亮圭君の工程を邪魔しようとするサタンを妨害する』マリーの計画は成功したと思うけど……。
……こっちが……」
精霊の主の義兄予定者が、自分を食い入るような目で見詰める妹を、諌めようとする。
「……だからぁ! そんなのは、ダメだって! 自分が、やられた時のことを考えろよ!」
そこまで言った健斗のことを、幸来が睨み付ける!
「お兄ちゃんの意地悪! もう知らない!」
幸来は、半べそをかきながら、布団の敷いてある部屋の中へと走り込んで行った。追い駆けようとする健斗を、マリーが止める。
「ここは、私に任せて下さい。……もう少し、 “ 女心 ” を勉強されると良いと思いますよ!」
幸来の兄は、苦笑いした。
「はいはい……。後は御任せします……」
マリーは、健斗が階段を下りて行ったのを確認してから、部屋の中へ入った。幸来は、亮圭の隣の布団を被って、声を殺して泣いている。精霊の長は、荷物の中から何やら取り出すと、布団の前に座わった。
「フロイライン。ちょっと御出まし頂けますか?」
少女は、知の精霊長の呼び掛けに応じない。精霊の長は、亮圭の婚約者の布団を顔の上だけ一寸強引に剥いで、こう言った。
「これ、なーんだ?」
幸来は、涙の筋を幾筋も顔に残したままで、キョトンとしている。マリーが手に持っているものは……。
「……デジタルカメラ?」
筆頭精霊長が笑って答える。
「ええ。
……これでマイスターの寝顔を撮りましょう!」
「……良いの?」
「優しいマイスターのことですから……。一寸嫌な顔をしても、『消して!』とまでは言わないでしょう。
マイスターの作戦が成功したら、パウチして枕の中に入れておきますね。それまでは、御預けですよ」
「……ありがとう……。大好き!」
幸来はマリーに抱き付いた……。
……健斗は、襖の隙間から中の様子を伺っていた……。両手で頭を抱える。
「……最悪の結果だ。 “ ミイラ取り ” が “ ミイラ ” に……。
俺は、亮圭君に何と言って謝れば良いんだよ……。
幸来の奴め! あいつ、 “ 男心 ” というものを、全然、分かっていない!」
後ろに付いて居るルリーとエリーが、声を掛けて来る。
「……まあ、そう言わないで……。
……情の精霊長の私にとっては……。マイスターの寝顔の写真なんて、最高の “ レア・アイテム ” ですわぁ!」
「……意の精霊長の私も……。これは是非、欲しいです!」
「……だめだ、こりゃ……」
健斗は、無意識に “ 防衛大臣 ” の台詞を真似ていた……。
……精霊の主は、意識の奥で感じた。誰かに、体をユッサユッサと揺らされている。
「……誰?」
亮圭が目を開けると、幸来の兄が覗き込んでいる。
「起きた?」
「うん」
「予定より、一寸早く起こしたんだ。これを見て欲しくて……」
妹の婚約者が起き上がると、健斗はデジタルカメラのモニターを見せた。
「ん……ん!!」
亮圭の眠気は、一瞬で吹き飛んだ! デジカメのモニターには、自分の寝顔のアップが写っている!
「……これは……」
健斗は、ようやく質問した亮圭に、要約して説明した。
「……サリーの奴が、『この可愛い寝顔を、枕の中に入れて一緒に寝るんだ』と……」
「えー!!」
幸来の兄は、慌てて妹の婚約者の口を塞ぐ。
「大声出すなよ! 起きちゃうよ!」
……どうやら、他の同室者は起きなかったようだ。
「……本当に申し訳ない……。……そこで、亮圭君……」
健斗は、自分の持っているデジタルカメラを、亮圭に渡しながら言う……。
「……逆襲を許す!」
「逆襲って? ……何?」
「……隣、見てみな……」
「あっ……」
そこには幸来が寝ていた……。そこに在った少女の寝顔は、表の街灯りからの淡い光に照らされて、可愛くも端正な顔立ちで微笑んでいた。
健斗が、思わず見惚れてしまった妹の婚約者を、突っ突く。
「……惚れ直したか?」
「おい……」
「悪い悪い。冗談だよ」
「ったくもう……」
亮圭は、心を落ち着ける間を取った後、幸来の兄に確認の質問をする。
「……それで、これで『何をしろ』って言うの?」
「寝顔、撮ってやれ! 僕が許す!
要は『男の寝込みを襲うなんて不潔よ!』っと言うことだ!」
「……兄貴が、それを言うの?」
「良いの! 亮圭君がやらなきゃ、僕がやる!
本人に断りなく、男の寝顔を撮るなんて! やって良いことと、悪いことがある!」
「僕の写真を、ここを押して『消しちゃえば良い』だけじゃないの?」
「それも後で面倒になるから……。こいつに選ばせるように、もって行くの」
「『これを消さなければ、この恥ずかしい写真を……』って話ね……」
「そう言うこと」
「じゃあ、任せるよ。後で結果を教えて……」
そこへ、マリーが割って入って来た。
「マイスター。 “ 御姿 ” を差し上げても良いじゃないですか。それだけ、フロイラインが心を寄せて下さっている証拠ですよ。右頬の痣は、後で消しておきますので……」
「……その言いっぷりだと……。最終許可は、マリーな訳?」
「うっ……。本当にマイスターは、勘が鋭いから……。
あんまり鋭いと、女の子に嫌われますよ……」
「……やれやれ、分かったよ。許可します!!
でも、写真は撮るよ……」
精霊の主は、シャッターを一回押した。
「……僕も、この綺麗で可愛い顔は、残す価値があると思うから……」
「『綺麗で可愛い』か……。 “ ブス ” といわれなくて良かったな、サリー。 “ キレ可愛い ” だってさ……。
……亮圭君、モニター見せて」
健斗は、亮圭から手渡された、デジカメのモニターを確認する。
「……完璧な一枚だな……。
設定は全て済ませておいたけど、こうもブレ無く撮るのは、上手な証拠……。
……あれ? 感度設定が低くなっている。良く、このシャッタースピードで止まったなぁ……」
「多分……。マリーが、カメラを “ GVCE ” で空間に固定したからだよ。違う?」
「だからぁ……。あんまり勘が鋭いと、女の子に嫌われますよぉ……」
スティングレー家の長男は、義弟になる予定の少年に質問した。
「“ グヴス ” って、何?」
「平たく言えば、 “ 重力制御装置 ” かな……」
主の発言を受けて、マリーが補足説明をする……。健斗は、簡単な体験込の講義を受けて、納得した。
「随分、便利なんだな……。この後の “ サプライズ・イベント ” で、それを使うの?」
筆頭精霊長が、健斗の質問に答える。
「ええ。これも使います。
ですがメインは、これです」
マリーは、 “ 縁がオレンジ色で平たい帯の輪のような物 ” を二つ取り出した。二つの輪は、連動して形が変わるようで、丸く広げると直径は1m以上あるようだ。
亮圭が呟く。
「“ SeNeHos ” か……」
その発言に、健斗が鋭く食い付く。
「前にも、亮圭君が言っていたね……。その、 “ セネホス ” って、何?」
「日本語では、 “ 空間結節点輪組 ” 。英語では……えーっと……」
知の精霊長でもあるマリーが、主の言葉を継いだ。
「…… “ Space Node Hoops ” になります。頭側の文字と尾文字を使って、 “ SeNeHos ” です」
「ふーん……。サリーを呼ぶ時に使ったってヤツ?」
「はい。これは……」
精霊の主が、一寸拗ねた顔で手を上げて、知の精霊長の説明を止める。
「……たまには、僕にも説明させてよ……」
マリーが笑って答えた。
「すみません、マイスター。どうぞ……」
亮圭は、健斗に説明を始める。
「これは、『空間の二点間を、繋ぐもの』なんだよ……。
横にアルファベットと数字が書いてあるでしょ? 左の輪の “ A側 ” は右側の輪の “ A側 ” に、 “ B側 ” は “ B側 ” に、つながっている。
数字は、丸にすると一度ごとに成るように、 “ 0 ” から “ 359 ” まで振られていて……。左右の輪の位置が、同じ数字同士で合っているんだ。
マリー、セットしてみて」
「はい」
マリーは、二つともA側を上にして床に置いた。
「手を入れてみるよ」
亮圭の手が右の輪の中に入って行くと、左の輪から手がニョキっと出て来た。
「B側でも、同じことが出来るよ……。
理屈は『固定された “ ワープ ” 』だって、エリーは言っていたけど……」
精霊の主は、スティングレー家の長男が涼しい顔で見ていることに驚愕した。
「……でも健斗君、本当に冷静だね。大抵は腰が抜けるのに……」
健斗は、ことも無げに言った。
「ここまでで、十分に驚いたから……。別に何が起こっても、不思議じゃないんだろうし……」
「……流石……」
亮圭は健斗の胆力に感服した……。
マリーが主に話し掛ける。
「……そろそろ良いでしょうか? 片方を、目的地に持って行かなければなりませんので……」
「うん」
マリーは、部屋に入って来たエリーに、片方を渡した。
「では、御願いね」
「はい」
エリーが部屋を出て行く。マリーは明かりを点けた。
「皆さん、起きて下さい。今、二時五十分です。三時二十五分には、現地へ出発しますよ」
もそもそと全員が起きだす。
「マイスターと健斗様は、一足早く下に行って下さい。洗面所、混みますよ」
「分かった」
二人は先頭を切って準備を進める。ルリーに連れられて、綿織夫妻も起きて来る。右に左にと準備を終えると、時計は三時十分を指していた。
「では、表に出て下さい。空間結節点輪組、 “ SeNeHos ” を使って移動します」
亮圭と健斗が表に出ると、冬のような寒さだ。
健斗は、 “ SeNeHos ” を見て、ハタと気が付いた。
「ねえ……亮圭君は、行き先を訊いているの?」
「ううん。敢えて訊いてないよ。サプライズだって言ってたから……」
「ふーん。そうなんだ」
「それと、幸来ちゃん……。……じゃなかった……。 “ サリー ” にも言ったけど、僕のことは “ 亮 ” って呼んでくれて良いからね」
「じゃあ僕も、 “ ケン ” で良いよ。家族からは、そう呼ばれている」
「じゃあ、 “ ケン兄 ” 」
「うん。 “ 亮ちゃん ” 」
やがて、皆が、ゾロゾロと表に出て来た。
「……成る程、東京の真冬の日中と同じ位か……。厚着しないと、もたない訳だ。 “ MA-1(米海軍航空隊に起源をもつジャケット) ” が欲しいな……」
「まあ、六月の夜明け前は、こんなもんなんだ……。東京の人には、寒いんでないか?」
「ええ。逗子は、こんな時間でも、もっと暖かいですね」
「あれ? 表の通りは、道路が濡れているようですね。小雨でも降ったのかな……」
「でも、ここは余り濡れてないから、大したこと無かったんじゃない……」
大人達が、そんなことを話している。マリーが手を上げて、全員に話し掛けた。
「……皆様、よろしいでしょうか!?」
筆頭精霊長の声に、一同が注目する。
「……まず、一人づつ、地面に置かれた “ SeNeHos ” の “ 輪 ” の中に立って下さい。この中の地面は、既に別の土地です」
……この場所は、幹線道から細い路地を入った先で、地面は土だ。だが、この “ 輪 ” の中の地面は、濡れたコンクリートのように見える……。
マリーが、話を続ける。
「次に、目的地にいる私達の仲間が、向こう側の “ 輪 ” を上に持ち上げます。皆さんは、地面に潜るような感覚で、目的地に出ます。向こう側の土地に出たら、横に移動して下さい。向こうのスタッフが、 “ 輪 ” を再び地面に置きます。地面が元の位置に戻ったら、次の人が移動します。
……では、最初にファーターです。御願いします」
政志が “ 輪 ” の中に入ると、マリーがヘッドセット越しに指示を出す。
「上げて」
河村家の家長の体は、下に吸い込まれて行った。
「では一寸、この中を覗いてみましょう。危険はありませんので、どうぞ……」
皆が覗くと、地面が約2m下に在り、政志が何事も無く立っている。亮圭の父親が横に移動して姿を消すと、地面が近づいて来て最初の状態に戻った。
「では、どんどん行きますよ。先ずは、子供達から。大人の方々は、その後の順番で……。アーサー様には、殿を御願いします」
マリーが、亮圭を手招く。
「マイン・マイスター、フロイライン、一緒にどうぞ。子供同士ならば、くっ付き合っていれば、二人一緒に移動出来ます」
二人は、まるで地面に潜るエレベーターのように、向こう側の地へ移動した。
亮圭と幸来の目下には、広い駐車場がある。右手には、一段高いテラスがある。
「ここは?」
意の精霊長が、精霊の主の質問に答えた。
「ここは、 “ 津別峠展望台 ” の下の屋上です。こちらへ、おいで下さい」
エリーが、二人を駐車場と反対側へ連れて行く。
亮圭達は、思わず息を呑んだ。
「雲海だ……」
そこには、一面の雲海が広がっていた。その上の空には、雲一つない。
まだ日の出前だ。雲海は、目の覚めるような赤と群青の色に染まり、遥か地平線が真紅の帯と成っていて刻一刻と色を変えて行っている。
「きれい……」
幸来は、亮圭の左腕に抱き付いて来た。
「寒いですから、これをどうぞ」
メイド集団の長である大精霊のアメジストが、二人にホットミルクティーを出して来た。その後ろでは、マリーと亮圭の父親が話しをしている。
「……思わず雲海に見惚れてしまって、気が付くのが遅れたが……。
これだけの雲海が出ているのに、他には誰も居ないんだな……」
「はい。今日は、プライベートな鑑賞会に出来ました……」
「今日は、 “ 全道 ” 的に曇りか雨だろう……。町の空は、小雨交じりの曇りだったし……。町中が晴れてなければ、雲海が出ている訳が無いんだが……。
それに雲海も……。なんか……。滑らか過ぎると言うか……」
政志は、そう言いながら後ろを振り返ると、仰け反った。
「うわ……。後ろは、雲の壁か!? これ、成層圏界面まで達しているだろう……。
本当なら、そっちには “ 雄阿寒岳 ” や “ 雌阿寒岳 ” が見えて当然のはずだ……」
マリーは、笑いながら答えた。
「まあ……。その辺のことは、後で、ゆっくり説明しますので……」
精霊の主の父親の顔が、呆れた表情になる。
「……そういうことか。……成る程ね。……君達の実力と言うことにしておこう……。
……御苦労だった……」
「……有難う御座います……」
「……家の息子と幸来ちゃんは、そんなことを気にしては、いないようだし……」
「……はい……」
マリーは肩を竦めた。
[……本当に親子よねぇ……。私達が何をやったか、大体の見当を付けられているわ……。
本当に、この人達には誤魔化しが効かない……。……怖いこと……]
その間にも、地平線の赤みと輝きが増して来る。エリーが、 “ SeNeHos ” の向こう側へ声を掛ける。
「あと十分で日の出です。皆さん、急いで下さい」
ようやく全員が、本当の津別峠よりも約193mも高い津別峠展望台に揃った。
皆、心を揺さぶられる。そして、或いは歓声を上げ、或いは神々しい様に涙をした。綿織夫妻も大雲海に言葉が無い。
やがて、地平線から太陽が顔を出し、雲海を紅色と群青色のグラデーションに染め上げた。
亮圭は、静かに幸来の手を握る。そして、彼女の耳元で囁いた。
「もう一度、二人で、この峠に来よう。必ず、やってみせるから……」
「うん。待ってる……」
二人は、太陽が雲を金色に染める瞬間まで、飽くことなく雲海を見ていた……。
靄が視界を白く染める朝……。前日夜から降った雨が、津別川を茶色く増水させ、芝生を濡らしている。木々を渡って来る微風は、凛として、なお優しかった。
キャンプ場には、他に誰も居ない……。
亮圭は、バンガローと寝台列車に囲まれた芝生の上に居る。情の精霊長と意の精霊長が変化した一体型の大きな屋根付きデスクセットに座って、東久留米までの工程を検討中だ。
父親は、一人だけオブザーバーとして付いて来た。でも、最初の数問以降することが無いので、バンガローで仮眠している。鼾が煩くて、中では何も出来ない。
他のメンバーとは、津別峠で別れていた……。
「……これで良しっと」
精霊の主の呟きに、筆頭精霊長が話し掛けて来た。
「もう、終わりましたか? マイン・マイスター」
「うん。バッチリ! 4ルートは、考えたよ。
でも全部、 “ 新千歳空港 ” と “ 札幌駅 ” から帰るルートだけだけど……。取り敢えず、良いんじゃない?」
マリーは、明るい声で答えた。
「はい……。マイスターの良いように……」
亮圭も、マリーに問い掛ける。
「それと、最初に頼んでおいた話……。北見のタクシーの準備は、大丈夫?」
「はい! 時間も場所も、こちらの希望も全て伝えました。ほぼ、『大丈夫』と考えて差し支えありません」
「……じゃあ、お腹、空いたから……」
エリーの声が、ヘッドセット越しに、聞こえて来た。
『もう、出来ています! どうぞ、召し上がれ』
机の前の蓋が開いて、モーニング・プレートが出て来た。精霊の主が、パンを頬張り、レモンティーを飲む。
「エリー達が作る食事も、家に着くまでは “ 御預け ” だね……」
『はい……。とても残念ですが……』
「家に着いたら、温かい御茶を御願い……」
『はい。マイン・マイスター』
何かが、寝台車の脇からヒョコっと顔を出した。
「ワー! 子鹿だ! 初めて見た!」
鹿は、声に驚いて、一目散に逃げて行く。
ルリーが、話し掛けて来た。
『……マイスターは、野生の鹿を見るのが初めてでしたっけ?』
「うん。
……そう言えば、僕が見たり感じたりしたことは、記録出来るんだっけ……」
『ええ、出来ますが……。残しておきましょうか?』
「うん。そうしてくれるかな……」
亮圭は、しばらく黙ってしまった。精霊長達は、精霊の主の意向を思念イメージで大体理解していたが、話し始めるまで待った。
「……この旅の、全工程を記録して。 多分、写真を撮っている余裕も無いから……」
ルリーが応じる。
「はい。全てを “ 256MegaPixel、256fps相当の三次元全周映像 ” で記録して於きます。
どのみち……。フロイライン達には、出発を宣言された後のマイスターが見た映像を、リアルタイムで配信しなければ成りませんので……」
「そうだよ!
それに、四時半に百里から電話があるなんて……。結局、神田川司令達にも五分おきに静止画を配信しなきゃならなくなっちゃった。もっとも、こっちは “ ヘッドセット ” の “ 画像機能 ” を使えば良いけど……。
……大事になるのもなぁ……」
マリーが済まなそうに言う。
「まあ……。今後のことを考えれば、邪険にしない方が良い方達です。
防衛大臣の榊さんは、孫の命が助かったことに涙を流して喜ばれ、全面的な協力を申し出ていますし……。多くの関係者が、二日先までの予定を遣り繰りして百里基地の司令官室に泊まり込む程、本気でマイスターを心配して下さっています。
この縁は、 “ 棚から牡丹餅 ” 的ではありますが……。願っても滅多に無いことですので、大切にしたいですね……」
「うん……」
精霊の主は、ハタと気が付いた。
「ねえ……。ひょっとして、五分おきの配信にトイレが当たったら……」
「大丈夫です! 峠でも言いましたが、恥ずかしいことは誰に対しても非公開です!」
筆頭精霊長と一緒に、情と意の精霊長も笑い出す。
「だと良いけど……。
結局……。写真は、あっさりとサリーの思い通りになったんじゃない……。僕は、写真を枕に入れるのは、好きじゃないけどなぁ……」
「まあ、そう言わずに、良いじゃないですか……」
「はい、はい」
「それも、『作戦が成功したら……』ですよ!」
「ん!」
亮圭は、現実に引き戻される!
「……今の時間は?」
「五時四十分です」
「バス停までは、確か十五分位……」
「はい。ゆっくり歩いて、その位でしょうか……」
「そろそろ、早めに出発しよう。……お父さんを、起こしてくれる?」
「ダー、マイン・マイスター」
マリーが、バンガローへ入って行く。
出て来た父親は、ランタンの灯りを点けながら、眠い顔をして言った。
「……靄が出ていて、視界が悪いな……。
……それにしても、ほとんど出番無しか……。……もう質問は、無いのか?」
精霊の主は、父親の問いに、肯いた。
「うん。大丈夫だよ」
「それにしても、良い御身分だな。体に合わせて変形する “ バケットシートのデスクセット ” に、旨い朝食とは……」
「へへへ……」
デスクセットは、亮圭を空中に保持したまま、ルリーとエリーの形を成す。
精霊の主は、二身に左右から抱きかかえられて、そっと地面へ降ろされた。その身に、キタキツネのグレー色ウインドブレーカーを着て、 “ 装置 ” ブランドのカーキ色をした中型リュックサックとウエストポーチを身に着けている。
「出発するよ!」
父親が時計を一瞥した。
「……もう、五時四十八分か……」
「うん」
筆頭精霊長が、許諾を求めて来た。
「位置情報と画像配信を開始します……」
「許可します」
亮圭と父親の政志は、津別キャンプ場を出ると、靄が掛かった森の中を歩いて行く。それは、とても幻想的な空間だった。ランタンが、父親の手の下で揺れて、更に雰囲気を出している。
道の左側の梢で、何か小さい物が動いた。
「おい、亮圭。あそこに “ エゾリス ” が……」
父親は、息子に話し掛けようとして、ギクリとした。九歳の子供が、真っ直ぐ前を向いて、脇目も振らず靄の中を突き進んで行く。
[こいつ、集中してやがる。普通なら、『この雰囲気に感動しきり』だろうに……。
……これなら……。……何とか……]
父親は、これまでで一番、息子を頼もしく思った。
二人と三身は、二車線の道に出ると右に行った。左に大きく曲がって行く “ 御園橋 ” の右側を渡り、少し行くとバス停に出る。
政志が筆頭精霊長に話し掛けた。
「……後は、よろしく頼む」
「はい! 御任せ下さい。マイスターの安全は、最悪の場合でも、100パーセント確保します!
それに、ファーター達の元には意の精霊長を、スティングレー家には情の精霊長を、それぞれの御世話係として残します」
「じゃあ……。エリー、よろしく御願いするよ。ルリーも……」
二身は声を合わせて答えた。
「はい。御任せ下さい」
不意に、亮圭が口を開く。
「お父さん、あれ……」
「何だ?」
父親が息子の指差す方向を見ると……。バスが、ゆっくりと近付いて来るのが見えた。
「……来たか……。
……亮圭、ここから先は、御前の器量次第だ。脇目を振らず、しっかりやれ!
作戦の成功を祈る!」
「うん」
精霊の主は、筆頭精霊長と共に、振り返らず真っ直ぐに乗車する。運転手は、マリーと少し長く話をした後、小学生が左の先頭座席に一人で着席することを許可した。
亮圭が窓を開けて外を見ると、父親が敬礼で見送っている。息子は、左胸に右の掌を当てて、答礼した。それは、亮圭が結果として定めた、精霊界の正式な敬礼であった。
バスは、六時十五分、二分遅れで静かに出発した。そして、 “ 御園橋 ” を右に曲がりながら渡って行き、見えなくなった。
「行ったな……」
政志の呟きに、ルリーが答える。
「御心配なく。安全だけは、近衛隊総長 “ クオーツ ” を中心に、120パーセント確保しています。
最悪でも、サタンがマイスターに、危害を加えることは出来ません。 御心配なく!」
「ああ。君達が、警護をやるんだ。それは、間違いない……。
……ただ、心の黒雲が取れないだけだ……」
[マイスター・ファーター……]
精霊長達には、思い当たる節があった。だが、敢えて話題には出さなかった。
靄が濃霧になる。周りがミルク色に染まり、少し暗くなった。それは、津別峠側から流れて来ている……。
河村家の家長は、精霊達が何をやったのか、察しが付いていた。だが、一応確認のために、意の精霊長へ質問をする。
「なあ、エリー……。俺には、雲海が出ていたのに、これだけの濃霧が津別峠側から流れて来るのは考えられないんだよ……。雲海が滝霧になるのは、標高の低い “ 美幌峠 ” の辺りだしね……。
今日、本当なら……。津別峠は、雲の中か雨だったんじゃないか?」
エリーは、肩を竦めて、精霊の主の父親の問いに答えた。
「……そのとおりです。
“ 屈斜路カルデラ ” から東側を中心に標高800m以上の雲を強引に排除したので、雲を元に戻そうとすると、あちらこちらに干渉が及んで……。自然な形で収めるには、一寸ばかり大変なことになってしまいました。ですが、何とか成りましたので御心配には及びません。
ただ、そのような訳で……。今回は、 “ 美幌峠 ” の雄大なパノラマを御容赦頂きたいのですが……」
「まあ、それは仕方が無い……」
政志は、苦笑をもって、それを了承した。でも、直ぐに真顔に戻る。そして、ランタンの灯を確認しながら、心の中で呟いた。
[……勝てよ、亮圭……。……アドバンテージ付の、この勝負……。……負けると余りにも悲惨だぞ……]
[! やっぱり、ファーターは気が付いていた……]
情と意の精霊長は、精霊の主の父親が全てを理解していることを悟る。二身は、政志が動くまで傍で静かに控えた。
やがて一人と二身は、バスの来た方向へと歩き始める。
政志には直接感じられなかったが、情と意の精霊長の配下を中心に、夥しい数の精霊達が後ろに随行している。
情の精霊長が、精霊界の次席として、またスティングレー家担当として精霊の主の父親へ質問した。
「……ファーター。今日の予定なのですが……。
一日で、車を使って巡ろうとすると、 “ 屈斜路湖 ” ・ “ 硫黄山 ” ・ “ 摩周湖 ” ・ “ 阿寒湖 ” と、その周辺となります。それで、よろしいですか?」
「ああ……。北海道ビギナー達には、それで十分満足してもらえるだろう……。
……後は、良しなに……。な……」
「心得ました」
河村家の家長は、しばらく精霊長達と共に、寡黙に歩いた。小学校へと向かう坂道は、しっとりと濡れている……。
エリーは、坂を上りながら、精霊の主の父親へ確認の質問をする。
「ファーター……。何時から、気付いていましたか?」
「……それは、『亮圭の “ サタンに差し出すべき解債条件 ” が、楽になっていた』ことか?」
「はい……」
「……樞さんに、引き合わせてもらった時だ。
君から『津別町で “ 解債条件 ” が緩和された』と聞いて、ピンと来た。F‐15の件が、絡んでいるんだろう?」
「……そのとおりです。
本来ならば、何の守りも追加の予備情報も無く、旅をしなければなりませんでした」
「やっぱり、 “ 敵失 ” か……。
俺は……。いや、過去に俺達は、逆の立場になったことがある……。……知っているだろう……」
意の精霊長は、言葉に詰まる。
「……はい……。……とても……。……残念なこと……。……でした……」
「サタンは、そんなに甘くない。当時の俺達が『失ったものを、挽回しようとした』と同じく、必ず仕掛けて来る。
……あいつには、俺と同じ思いをして欲しくないからな……
…… “ ラピスラズリ ” も、ここに居ると思うが……。いざと言う時は、貴君も亮圭の方を優先してくれ……」
「……ファーター……」
ルリーが泣きそうになっている。エリーも次の言葉が見つからない。そして直接には実体世界に声を掛けられない精霊達も、 “ 集団 ” のリーダーを中心に首を垂れて敬礼をしている……。
ゆっくりと、朝霧が晴れて来た……。もう灯りは必要ない……。
------- 更新履歴 -------
2015.07.17 初版公開[旧、第三章として] (Ver 1-01.00)
2016.02.26 改訂第二版公開 [第四章として] (Ver 2-01.00)
2017.08.28 読み易くする為の修正、一部加筆、レイアウト、漢字誤用、誤字、ルビ小修正版公開 (Ver 2-02.00)
2018.08.16 文章整理、誤字修正版公開 (Ver 2-02.01)
2018.08.23 大元のWordファイルとの内容差異が生じたための文章整理、誤字修正、読み易くする為のルビ修正版公開 (Ver 2-02.01.01)




