第6話 脱走した駄犬
「大変や。ゴンがおらんようになってしもうた」
一限目が終わってすぐの休み時間に、隣の教室から走り込んで来た坊主頭の山田辰三君は、何の前置きも無く小春ちゃんにそう訴えかけた。
「なんやたっつん、悪いけど、うちはいま他の件で忙しいんや」
「そう言わんと話だけでも聞いてくれよ。こはるんだけが頼りなんや」
去年の夏休み、この坊主頭の少年がウサギ当番をしていた時に、飼育小屋のウサギが穴を掘って脱走するという事件が起こった。
その時この少年は小春ちゃんに助けを求め、結果、彼女の見事な推理で逃げ出したウサギを捕獲したという経緯があった。
多分山田君は今回も小春ちゃんの推理を当てにして、隣の五・六年生の教室からやってきたのだろう。
手を合わせてくる少年に、小春ちゃんもやぶさかではないのか、しばらくしてその申し出を渋々といった様子で了承した。
「ええよ。手短に話してみ」
「おお、こはるん助かるわ。実はゴンがもう三日も戻ってこうへんねん」
「あのなたっつん、あんたのとこのゴンは脱走常習犯や。はっきり言わせてもらうけど、行方不明というより逃亡中と言ったほうがええんちゃうか」
山田君ちのゴン。
私も何度か見かけたことがあるが、茶色っぽいような黒っぽいような中途半端な毛の長さの雑種の中型犬で、話によるとしょっちゅう脱走しては外泊するだらしない奴らしい。
小春ちゃんからゴンに関する噂を聞いていた私は、ちょっと面白い話程度に、二人のやり取りに耳を傾ける。
「いいや、今回は違うんやって」
「そう思ってるんはたっつんだけや。心配せんでもそのうちにひょっこり帰ってくるって」
小春ちゃんの探偵としての食指はゴンに関しては全く動かないようだ。
取り付く島もない感じだが、ゴンは口の周りが黒く、見た目ちょっと泥棒を連想させる犬だったので、私的には探偵が追いかける相手としては適役という印象だった。
「あのなあたっつん、ゴンはほっといても腹が減ったら帰って来るはずや。ドッグフードでも用意して待っといたらええねん」
「今まではそうやったけど、今回は違うんや。よう餌もろうてる柴田のじいちゃんとこにも、ガールフレンドのメリーのとこにも姿見せてないらしいんや。ひょっとして誘拐されたのかも知れん」
あくまでも食い下がる少年に、小春ちゃんは馬鹿馬鹿しいといった感じで手を振った。
「あんな駄犬、誰が誘拐するねん。戦時中やったら連れ去ってスープにする奴もおるかもやけど、それだけはないって断言したるわ。それと柴田のじいちゃんは最近物忘れが激しいみたいやから、ゴンを見かけても忘れてる可能性が高いで。それとメリーはあんな見掛けやけどオス犬や。ガールやないねん」
「ホンマか? 俺はてっきりメスやと思うてた」
私も一度、散歩中のメリーを見たことがあるけれど、スタンダードプードルのメリーは飼い主のおばあちゃんの趣味なのか、おかしな格好にトリミングされており、確かに一見するとメスの様に見える風体だった。
「悪いことは言わん。ゴンに労力をつぎ込むのはエネルギーの無駄使いや。あいつは放置しておくのが一番や」
捜索する価値一切なしという態度を小春ちゃんが貫いた時に、二時限目のチャイムが鳴って節子先生が教室に入って来た。
「山田君、あなたの教室は隣ですよ」
「あ、すみません」
こうして次の授業が始まったことで、結局そのまま行方不明のゴンのことはうやむやになった。
私と小春ちゃんの通う上ノ郷小学校では放課後になると大概、授業を終えた子供たちが自然と集まり、グランドを駆けまわって遊び始める。
節子先生のことで頭がいっぱいだった私と小春ちゃんも、今日は誘われるままグランドに出た。
「それで今日は何するん?」
五年生の米田竜一君、通称リュウちゃんが集まったみんなに意見を募ると、示し合わせたくらいにみんなの口からバラバラな意見が出て来た。
結局、二票を獲得した「影踏み」をみんなですることになり、鬼を決めたあとすぐに、子供たちはグランドのあちこちに散っていった。
夕日に照らされた小学校のグランドで、走り回る子供たちの長い影。
かつて東京にいた頃に通っていた小学校では、放課後にこうして友達と駆け回ったことなど無かった。
雄大な自然の中の小さな小学校で、せわしなく駆け回る長い影と明るい大きな声は、途切れることなく躍動し続け、この村の景色に溶け込んでいく。そしてその中に息を切らして駆け回る私もいるのだ。
今目の前にある躍動する時間が本来とても自然なもので、あのとき私が当たり前のように見ていたものが不自然だったのだと今では分かる。
「さくらちゃんの影ふーんだ!」
今年から二年生になった佐々木この葉ちゃんが声を上げて、私は自分が鬼になったことを知った。
低学年の女の子でも、この時間帯の影踏みならば、容易に上級生の影を踏むことができる。
鬼を引き継いだ私は、グランドに散っている皆の中から六年生の松山泰三君に狙いを付けて駆け出した。
「いけー! さくらちゃん」
グランドの隅にいる小春ちゃんが大きな声援をくれる。
ここへ来る前の私だったら、六年生の男子の影を踏みに走ったりはしなかっただろう。
でも今は違う。小春ちゃんには遠く及ばないものの、彼女といつも一緒にいるお陰で少しは足に自信がついた。
そして泰三君は油断していたのか、向かってくる私に慌てている。
横並びで駆けっこしても勝てないだろうけど、影踏みならこちらに分があった。
「泰三君の影、ふーんだ!」
茜色のグラデーションの空の下、上級生の男子の影を踏んだことで、女の子たちから歓声が上がる。
「ナイスやで! さくらちゃん!」
駆け寄って来た小春ちゃんが私の手を取って走り出す。
さあ今度は逃げる番だ。
それから学校を出て来た節子先生に下校を促されるまで、私たちの明るい声は黄金色のグランドに響き渡った。
西の山の向こうにお日様が隠れ、山里に夜の匂いがほんの少し混ざり始めた頃、私と小春ちゃんはたくさん遊んだみんなに手を振ってバスに乗る。
二人っきりのバスの中、心地よい振動の中で少し私がウトウトしていると、小春ちゃんが不意にポツリと口を開いた。
「たっつん、おらへんかったなあ」
放課後の影踏みに山田君はいなかった。
多分すぐに下校して、今朝話していたゴンの行方を捜しに行ったのだろう。
小春ちゃんはそのことを気に掛けていたようだ。
「あー、節子先生のことで頭がいっぱいやのに、ほんま敵わんわー」
愚痴る小春ちゃんの横顔を眺めながら、私は少しワクワクしてしまう。
そう、たった今、里山の名探偵、畠山小春の事件簿に、行方不明のゴンの捜索が追加されたのだった。




