幕間 晴美ーー鈍感なあの子
好きな人の口から出てくる名前が、自分の名前じゃない。
それが、こんなに腹の立つことだなんて知らなかった。
「なーなー、桐谷ー」
まただ。
教室の少し離れたところから佐藤君の声が聞こえて、私はノートに向けていた視線をほんの少しだけ上げた。
桐谷文香ちゃん。
同じクラスの、よく笑う女の子。
特別派手なわけじゃない。男子に媚びるタイプでもないし、自分から目立とうとするところもない。
なのに、佐藤君はよく文香ちゃんに話しかける。
消しゴムを借りたり、教科書を覗き込んだり、くだらないことで言い合ったり。
二人は同じ中学だったらしい。
だから距離が近いのは仕方ない。
――そう思おうとしていた。
教室の中だけなら、まだ我慢できた。
昔からの友達なんだし、と思えるから。
でも、部活にまでその名前を持ってこられると、さすがに嫌になる。
「佐藤、お前さー。もう桐谷に告っちゃえよ」
練習の合間、男子たちが笑いながら佐藤君をからかう。
私はマネージャーの仕事をしながら、聞いていないふりをした。
「そんなんじゃないんっすよ」
そう言って笑っている。
否定しているくせに、本気で嫌がっているようには見えなかった。
だったら、何。
好きなの?
あの子のこと。
聞けるわけもない。
そもそも私は、佐藤君に好きだと言ったことすらない。
マネージャーと選手。
クラスメイト。
それだけ。
何の約束もしていない相手が誰を好きになったって、私に文句を言う資格なんてない。
そんなことくらい、わかっている。
それでも嫌だった。
文香ちゃんは、たぶん何も気づいていない。
佐藤君を見る目は、他の友達を見る時とほとんど変わらない。呼び方だって雑だし、平気で文句を言う。
だから最初は安心していた。
文香ちゃんは佐藤君を好きじゃない。
だったら大丈夫。
そう思っていたのに。
だんだん、それすら怖くなった。
だって文香ちゃんは、佐藤君が自分を特別扱いしていることにも気づいていない。
気づかないまま笑って、気づかないまま隣にいる。
もし、ある日突然。
佐藤君のことを好きになったら?
その時、私はどうすればいいんだろう。
「別にさ、佐藤じゃなくてもさ」
聞き覚えのある名前に、私は顔を上げた。
文香ちゃんと祐実ちゃんが恋愛の話をしている。
「じゃ、なに? 誰でもいいの? 好きな人いないの?」
「だから、そういうのわかんないってば」
その答えを聞いた瞬間。
今しかない、と思った。
「佐藤君の話?」
私は二人の会話に入った。
できるだけ自然に。
何も企んでいないような顔で。
「あー、そうそう」
祐実ちゃんが笑う。
「あー、けど文香ちゃんにはさ」
一瞬、迷った。
誰でもよかったわけじゃない。
佐藤君から気持ちを逸らせる人。
文香ちゃんが興味を持ちそうな人。
それでいて、佐藤君より目立つ人。
頭の中に浮かんだのが、西嶋先輩だった。
「サッカー部だったら、ひょうきんで兄弟みたいなFWの佐藤君より、寡黙でどっしりしてて落ち着いてるDFの西嶋先輩って感じ」
「西嶋先輩?」
文香ちゃんがきょとんとする。
本当に何も考えていない顔。
「あー。よく渡り廊下にたまってる中にいる人……」
「そう。西嶋先輩、いいと思うな」
言いながら、自分でも嫌なことをしていると思った。
西嶋先輩ならいい。
佐藤君じゃなければ。
そう思っているだけなのに、まるで文香ちゃんの恋愛相談に親身になっているみたいな顔をしている。
「接点ないしね……。よくわかんない」
文香ちゃんは、それだけだった。
西嶋先輩と聞いても、頬を赤くするわけでもない。興味を持ったようにも見えなかった。
普通なら、そこで安心するところなのかもしれない。
でも、私は安心できなかった。
この子はきっと、誰かを好きになる時もこんな感じなんだ。
自分の気持ちに気づかないまま、その人の近くにいる。
そして気づいた時には、もう。
――なんて。
そんなことまで考えている自分が嫌になった。
文香ちゃんは何もしていない。
私から佐藤君を取ろうとしたことなんて、一度もない。
むしろ、何もしていないから困る。
悪意がない相手を嫌うと、自分だけが悪者みたいになるから。
その日の部活。
私はいつもより西嶋先輩を目で追っていた。
西嶋先輩はあまり女子と話さない。
告白されたという噂なら何度か聞いたことがあるけれど、誰かと付き合っているという話は聞いたことがなかった。
佐藤君と比べたら口数も少ないし、愛想もない。
でも、顔は整っているし、サッカーもうまい。
きっと文香ちゃんだって、ちゃんと話せば悪い気はしないはず。
――二人が付き合えばいい。
そうしたら全部うまくいく。
文香ちゃんには西嶋先輩がいて。
佐藤君も、文香ちゃんを諦める。
そうしたら。
もしかしたら、私のことを見てくれるかもしれない。
そんな都合のいい未来を考えた。
でも、西嶋先輩と文香ちゃんには接点がない。
何もしなければ、何も起こらない。
だったら。
きっかけくらい、作ってもいいんじゃない?
そう考えた時には、もう自分の中で答えは決まっていた。
部活の合間。
西嶋先輩が一人になったところを見計らって、私は声をかけた。
「西嶋先輩」
「ん?」
呼び止められた先輩が振り返る。
近くで見ると、やっぱり少し話しかけづらい。
それでも私は笑った。
「一年の桐谷文香ちゃんって、知ってます?」
「……桐谷?」
知らないのかな。
一瞬、そう思った。
けれど、先輩は何かを思い出すように視線を上げた。
「佐藤と同じ中学の?」
知ってるんだ。
胸の奥が、少しざわついた。
「そうです。その子」
「それが何?」
ここまで来て、ほんの少しだけ怖くなった。
今から私が言おうとしていることは。
ただの嘘だ。
文香ちゃんは一度もそんなことを言っていない。
西嶋先輩を好きだなんて。
むしろ名前を出した時だって、「よくわかんない」と言っていた。
でも。
「桐谷さんって」
口を開いた。
引き返すなら、今だった。
「西嶋先輩のこと、好きなんですよ」
言ってしまった。
西嶋先輩が黙る。
「……俺を?」
「はい」
自分でも驚くくらい、普通の声が出た。
「本人は恥ずかしくて言えないみたいですけど」
嘘に、さらに嘘を重ねた。
先輩の顔をまっすぐ見ることができなくなって、私は手元のボトルを並べ直すふりをした。
「そうなんだ」
返ってきたのは、それだけだった。
喜んだようにも見えない。
困ったようにも見えない。
やっぱりダメだったのかな、と思った。
西嶋先輩みたいな人なら、女の子に好かれているなんて話は珍しくもないのかもしれない。
「じゃ、私戻りますね」
逃げるようにその場を離れた。
少しだけ罪悪感があった。
文香ちゃんに対して。
西嶋先輩に対して。
でも、それ以上に思っていた。
これで何か変わればいい。
ほんの少しでいいから。
佐藤君と文香ちゃんの間に、隙間ができればいい。
けれど、それからしばらく。
何も起こらなかった。
西嶋先輩が文香ちゃんに話しかけたという噂も聞かないし、文香ちゃんも相変わらずだった。
佐藤君も変わらず「桐谷」と呼んでいる。
なんだ。
全然、意味なかったじゃん。
そう思って。
私は少し安心していた。
自分のついた嘘なんて、このまま誰にも知られないまま消えていく。
そう思っていた。
この時の私はまだ知らなかった。
私が軽い気持ちでついたひとつの嘘が。
二人の「好き」の始まりを、ほんの少しだけ狂わせることを。




