5話 好きじゃない相手と付き合う理由
落ち着かない。
昼間、西嶋先輩に「うち来る?」と言われた。けれど私は別に、「はい、行きます」なんて返事をしたわけじゃない。だから約束なんて成立していない。
そう自分に言い聞かせているのに、終業時間が近づくにつれて、なぜか時計ばかり気になった。あと五分。そんな頃だった。
「このあとさ、営業の飲み会、桐谷も行くだろ?」
綾野君が現れた。
そうだった。各営業所の親睦会を兼ねた飲み会。月例会議の日にはほぼ恒例になっていて、本社勤務の人間は半ば強制的に参加することになっている。
「あー、うん」
「じゃ、帰りな!」
何が『じゃ』なのか。どこまでもマイペースだ。
社内公認の関係とはいえ、こうして職場で当然のように声をかけられるのは、昔からあまり好きじゃない。
「文香ー、行こう」
やがて時間になり、葉山に呼ばれて会社を出た。足取りが重い。
「なんか今日、静かじゃない?」
葉山にそう聞かれても、何と答えればいいのかわからなかった。
「あんた、大丈夫?」
「……うん」
「もしかして、綾野?」
綾野君。その名前を聞いても、なぜかしっくりこない。返事ができずにいると、葉山が不思議そうな顔をした。
「え? 綾野じゃないの?」
「……えっ?」
「『えっ』って。何? 他に何かあったの?」
「……いや。そういうわけじゃ……」
綾野君じゃない? 私自身にも、よくわからない。
でも、そうだ。
ずっと心の中でくすぶっているものは、もっと前からある。もっと、ずっと向こうに。
「ねえ、葉山はさ……」
「うん」
「両想いで、付き合うの?」
「は? 何言ってんの?」
「……いや。だって、ほら。普通はお互い好きになって、それで付き合ったり……そういうんじゃないのかなって」
「ちょっと、あんた大丈夫? 綾野が浮気してるからって、おかしくなっちゃったわけ?」
「そうじゃなくて」
思わず否定した。
「文香、この前は別にいいって言ってたじゃん」
「その『いい』って感情がおかしいのかなって……今さらだけど」
「何言ってんの」
そう。何を言っているんだろう。自分でもわからない。
けれど、こんな気持ちのままずっと一緒にいること。この付き合いの先に未来があるのか。本当はずっと、心のどこかで考えていた。
ただ、仕事が忙しいから。時間がないから。そうやって理由をつけて、後回しにしていただけ。
いないよりは、いた方がいい。
私は確かに、今までずっとそう思っていた。……はずだったのに。
西嶋先輩が近くに引っ越してきてから、私の中で何かが少しずつ変わり始めた。記憶の奥にしまって、見えないふりをして、ずっと誤魔化していたものが、ひとつ、またひとつと鮮明になっていく。
西嶋先輩と関わるたびに。
終わった恋だったはずなのに。
……違う。
そうじゃない。
「そんな悩むなら、引導渡してやれば?」
「……やっぱり、そう思う?」
答えなんて最初からわかっていた。わかっているのに、行動に移せない。
「向こうから言ってくれたら……」
「言わないでしょ。言うなら、とっくに言ってるって」
……だよね。
綾野君にとっても、私はきっと都合がいい。束縛しない。細かいことを聞かない。浮気をしても騒がない。
「……付き合うって、もう面倒」
「あんたねー。いない人間に言ったら反感食らうよ、それ。綾野みたいなのでも、いないよりはいいでしょ」
「……」
そう思ってたんだってば。今までは。
そんな話をしながら歩いているうちに、いつもの店へ到着した。
私と葉山は一通り挨拶を済ませると、騒がしい中心部を避けて端の席へ逃げる。しばらくすると、全席を回り終えた竹森さんもやってきた。
いつものように他愛もない話をして、時間だけがだらだらと過ぎていく。やがて宴はお開きになった。
私は無意識に、綾野君の姿を探した。
遠くから「二次会どうする?」という声が聞こえる。その輪の中に綾野君がいるのを見つけて、――ほっとした。
その瞬間、自分でも嫌になった。
こういうのがもう、ダメなのかもしれない。
彼氏が自分の家に来ないことに安心する。そんな関係。
二次会へ向かう人たちを見送り、私は葉山と駅へ向かった。
『うち来る?』
昼間の西嶋先輩の言葉が、また頭をよぎる。けれど、さっきの飲み会では一度も顔を合わせなかった。駅へ向かう社員の中にも、先輩の姿はない。
なんだ。からかわれただけなのか。
そう思うと、少しだけ拍子抜けした。
表参道の改札で葉山と別れ、地下鉄のホームへ降りる。ちょうど電車が入ってきた。
……混んでる。
はぁ。満員電車、嫌だなぁ。
あと少し。頑張れば乗れ……るかな?
躊躇している間に、ドアが閉まり始めた。
――あ、しまっ……。
「危ない」
突然、身体を後ろへ引かれた。トン、と何かにぶつかる。
振り返って見上げる。
「……西嶋、さん」
「ボーッとしすぎ。怪我したらどうすんだよ」
「……あ。ありがとうございます……」
降車口はちょうど階段付近で、人の流れが私たちの横を次々すり抜けていく。
「混んでるな。今日も」
「そうです……ね」
……やだ。
せっかく会わずに帰れると思っていたのに。
昼間のことを思い出す。でも、冗談だったのかもしれない。
「綾野は二次会?」
「……はい」
「そう。桐谷は行かなくていいの?」
西嶋先輩が少しだけ笑った。
……何。私のこと、馬鹿にしてる?
「二次会は、もう訳がわからなくなるから……」
「そうだな」
「西嶋さんは、行かないんですか?」
社交性がなくても、さすがにああいう場には顔を出しておいた方がいい。……まあ、それは私にも言えるんだけど。
「桐谷を連れて帰るって、言っただろ」
「……え?」
「綾野には悪いけど」
――ええっ?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「今日、うちに来いよ」
「……」
返事ができない。
「えっ……と……」
それって、どういうつもりですか?
そう聞こうとした瞬間、ホームへ電車が滑り込んできた。
さっきよりも混んでいる気さえする。
――この電車に、先輩と一緒に乗るの?
そんなことを考えている間に、先輩が私の手を掴んで、そのまま車内へ引き込んだ。
「ちょ……っ!」
「早く」
先輩は入口から奥へ進み、反対側のドアまでたどり着いた。私をその前へ押し込むように立たせる。
ふと顔を上げると、至近距離で目が合った。
「……酔ってるんですか?」
「酔ってるよ」
「……そうですか……」
視線のやり場がない。私は俯いた。
目の前には、先輩のシャツ。
……近い。
先輩が私の横のドアに腕をつき、人混みから庇うように立っている。そのおかげで、ぎゅうぎゅうの車内でも、私の周りだけほんの少し空間があった。
私も飲み会帰りだし、お酒臭かったら嫌だな。
そんなことまで気になって、ますます顔を上げられない。
電車はすぐに渋谷へ着いた。向かい側のドアが開き、一気に人が押し寄せてくる。
私を庇っていた先輩の身体も、どんどんこちらへ押された。
「……ごめん。無理」
先輩がそう言った次の瞬間、私の顔はその胸にぴたりとくっついた。
「……うっ」
「大丈夫?」
「な、なんとか……」
シャツ越しに、体温が伝わる。
先輩はドアに肘をついたまま、少しでも私が押し潰されないよう身体で空間を作ってくれている。
――なんか。
男の人の匂いがする。
そんなことを意識した瞬間、顔が熱くなった。
やだ。どうして、こんなことでドキドキするの。
早く着いて。
心の中で何度も念じる。
やがて次の駅へ到着し、私が背中を預けていた扉が開いた。
「わっ」
身体が勢いよくホームへ飛び出す。
すぐに先輩の手が伸び、腕を支えられた。
「大丈夫?」
「……はい」
は、恥ずかしい。
「やたら混んでるな」
「はい……」
多少は人が降りても、車内はまだ混雑している。
この状態で、また乗るの?
そう思っていると、先輩が先に乗り込んだ。
「ほら」
「……え?」
その瞬間、ビーッ、と発車を知らせる笛がホームに響く。
乗る場所を探している暇はない。
私は慌てて、先輩の胸へ飛び込むようにして車内へ入った。
直後、扉が閉まる。
挟まりそうになった私の身体を、先輩がぎゅっと抱き寄せた。
――やばい。
これは。
「ちょっとだけ、我慢してて」
完全に密着している。
心臓がどんどん速くなる。
……だ、ダメだ。
これは心臓に悪い。
さっきよりも、もっと近い。
身体と身体が、ほとんど隙間なく重なっている。
不思議だった。
もう十年以上も前に付き合っていた人なのに、その感触が、あの頃の記憶を一気に呼び起こす。
先輩の部屋。
あの時の表情。
触れた身体。
笑った顔。
初めて知った男の人の匂い。
初めて触った男の人の、肌。
「桐谷」
突然、頭の上から声が降ってきて、私ははっと我に返った。
「は、はい!」
「痛くない?」
「……へっ?」
ついさっき思い出していたことと、質問が変に繋がってしまう。
「身体」
「かっ……」
「……?」
かっ。
身体。今の話ね。
「なんとか……」
「もう着くから。我慢して」
「……は……い」
ダメだ。クラクラする。
西嶋先輩が近所に現れてから、私はどこかおかしくなった。同じ会社だと知った時は、こんなふうに先輩を意識していなかった。
なのに今は、自分の心がぐらぐら揺れているのがよくわかる。
しかも、こんな時に、どうして『あの時』のことまで思い出すんだろう。ずっと封印したつもりだったのに。
たった数分が、とても長い。
早く着いて。
そう思っているくせに、私を抱き寄せる腕や、密着している身体の感触が気になる。
懐かしい体温。
それが綾野君とは違う温かさのように感じるのは、どうしてなんだろう。
早くこの気まずい状況から抜け出したいはずなのに、もう少しだけこのままでもいいような気もして。
そんな居心地の悪い時間が、ようやく終わった。
駅へ到着する。
「混んで、ましたね」
緊張していたことを悟られたくなくて、無理やり言葉を探した。
「この時間はな」
先輩は何事もなかったように改札を抜けていく。
私だけが、空回りしている。
これから先輩のマンションへ行く。それを意識した途端、ますます話すことがなくなった。
地上へ続く階段を上がり、国道沿いを並んで歩く。半歩前を歩く先輩の顔は見えない。
何を考えているんだろう。
地上へ出て、ほんの数歩進んだ、その時。
「明人」
女性の声がした。
横断歩道の向こう。煙草屋の影から、一人の女性が現れた。
……明人。
それって、先輩の名前。
「茜」
西嶋先輩が答える。
黒くまっすぐな髪。細身で、背の高い女性。
見たことはない。けれど、漂う空気だけで、先輩と親しい人なのだとわかった。
――彼女。
その言葉が、頭に浮かぶ。
「では、お疲れさまです」
私は反射的に営業スマイルを作り、二人へ軽く会釈をして、その場を離れようとした。
「桐谷っ」
呼ばれた。
でも私は聞こえないふりをして、そのまま歩こうとした。
次の瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。
身体がふらつく。
「約束しただろ。先に帰って待ってて。電話するから」
「え……あの……」
「待ってて」
そう言い残し、先輩は彼女のもとへ戻っていった。
……待ってて。
その言葉の意味を理解できず、私は呆然と背中を見つめた。
すると、こちらを見ていた女性と目が合う。
はっとして、私はすぐに踵を返した。
……気まずい。
何だろう。この妙な罪悪感。
……下の名前で呼ぶんだ。
……私は、呼ばれたことない。
そう思った自分に、さらに驚く。
何を卑屈になってるんだろう。
……何故?
関係ない。
そう言い聞かせて歩く速度を上げる。それでも胸のざわつきは消えなかった。
地下鉄の中とは違うざわつき。
面白くなかった。
その時、ようやく気づいた。
私、期待していたんだ。
このまま先輩のマンションへ誘われて、その先に何かがあることを。
ちょっと彼氏とうまくいっていないからって、頼ってはいけない相手に頼ろうとしていた。
うかつだった。
失敗した。
あのまま流されていたら、どうなっていたんだろう。
わからない。
でも、彼女が来てくれて良かった。
先輩にそういうつもりがなかったとしても、これは私の問題だ。
あれこれ考えながら歩いているうちに、自分のマンションへ着いていた。
……そうだった。
綾野君が来るんだった。
でも今は、以前のように浮気を見て見ぬふりなんてできない。
嫉妬とは違う。
諦めとも違う。
ただ、綾野君とこの先ずっと一緒にいる自分が、想像できなくなってしまった。
だから、もう触れられたくない。
綾野君が他の女の子と仲良くしていても、それが浮気でも、嫉妬すらしない。
そんな関係、良いに決まってない。
私は今までずっと、流されてきた。
求められたら受け入れる。
そして最後には、そんな私を『いらない』と捨てていく人ばかりだった。
だから、綾野君みたいに、浮気をしても、それでも私との関係を続けようとする相手は、ある意味心地良かった。
少なくとも、捨てられる不安はなかった。
……じゃあ。
やっぱり、このままでいいのかな。
散々悩んだのに、結局いつもと同じ答えへ戻ってくる。
そうだ。
私はいつも、考えるだけ考えて、最後にはここへ逃げ込む。
自宅へ入ると、簡単に部屋を片付けた。
――先輩のことは、考えない。
そう決めたはずなのに、テーブルの上に置いたスマホを何度も確認している。
……落ち着かない。
西嶋先輩とは、これまで業務連絡で二回ほど電話しただけ。その時は、何も感じなかった。
気づけば私は椅子に座ったまま、スマホを凝視していた。
突然、画面が待ち受けから着信表示へ変わった。
「……」
心臓が跳ねる。
でも表示された名前は、【綾野宏基】。
……どうしよう。
出なきゃ。
わかっている。
なのに、手が伸びない。
迷っているうちに、着信は切れた。
途端に、いてもたってもいられなくなった。
私はマンションを飛び出した。
今日は、綾野君に会いたくない。
行く当てなんてない。
それでも、家にいたくなかった。
とぼとぼ歩く。
そして、この先にあるのは、西嶋先輩のマンション。
「……あー」
近すぎる。
私はマンションを見上げ、それからスマホへ視線を落とした。
電話するって言ってた。
待っててって言ったくせに。
恨めしげに画面を睨んだ、その瞬間。
着信。
画面には【西嶋さん】。
……えっ。
いや、『えっ』も何も。
今、その本人のマンション前にいるのは私なんだけど。
でも、この電話に出ていいの?
迷う。
このまま切れちゃえばいいのに。
そう思っていたら、本当に切れた。
「あっ……」
思わず声が出る。
すると。
「出ろよ。かけてるんだからさ」
突然、近くから声がした。
ばっと顔を上げる。
少し先に、スマホを片手にした西嶋先輩が立っていた。
笑っている。
「……い、居たんですか」
「歩いてたら見えたから」
「みっ……見えてたのに電話したんですか?」
「電話するって言ったから」
……なんだ、この人。
私が知っている先輩じゃない。
――いや。
先輩は、昔から優しかった。
「いいんですか? さっきの人」
そう聞くと。
「いーよ。どうせうちには来ないから」
意味ありげに返された。
……うちには来ない?
それって、どういう意味?
「綾野は?」
まるではぐらかすように聞かれ、私は小さく答えた。
「……さぁ」
「まだ帰ってこないか」
「……たぶん」
「じゃあ、行こうか」
先輩はそう言うと、また私の手を掴んだ。
指が絡む。
「あっ、あの」
「まだ、酔ってるよ」
毎回それを言うけど、だから何なんだ。
「でもっ」
私は繋がれた手を振りほどいた。
すると、西嶋先輩が足を止めた。
「じゃあ、酔ってるんじゃなくて、俺が桐谷に来て欲しいって言ったら?」
――へ?
「あー……ちょっと待って」
何、今の。
刺激が強すぎる。
そんな言葉を突然投げておいて、本人はあっさり視線を逸らした。
絶対この人、私で遊んでる。
「小腹、減ってない?」
「……え?」
「さっき、あんまり食べてなかっただろ」
「……あー」
ここ最近あまり食欲がない。さっきの店でも、ほとんど食べていなかった。
……見てたんだ。
「大丈夫です」
「大丈夫、大丈夫って。それ口癖だよな」
「……へ?」
「俺もあんまり食べてなかったから。じゃあ付き合って」
「あのっ……」
「裏手の道に、気になってた店があるんだよな」
先輩はいつもの調子で歩き始めた。
私はその後ろ姿を、ぽかんと眺めていた。
すると少し離れたところから。
「部屋に戻りたくないんだろ?」
声が届いた。
国道を走る車の音にも消されず、まっすぐ私のところまで。
「……はい」
私は小さく答え、一歩前へ進んだ。
足早に先輩へ追いつき、隣へ並ぶ。
顔を上げる。
「……ありがとうございます」
「何に?」
……何に?
「いえ。私は……」
続けようとした時。
「桐谷ってさ、好きそうには見えない相手と、いつも付き合ってるけど。どういうつもり?」
……え?
「好きじゃない……って」
言葉に詰まる私へ、先輩は静かに続けた。
「俺の時も、そうだっただろ?」
胸の奥が、鋭く痛んだ。
『俺の時も、そうだっただろ』
違う。
そう言いたかった。
でも、言いたいことがありすぎて、何一つ言葉にならなかった。
思い出したくなかった過去が、一気に脳裏へ蘇る。
私が西嶋先輩と付き合って、そして、どうして別れたのか。
……あの時から。
私は、何も成長できていなかったんだろうか。
ずっと思い出したくなくて、心の奥に封じ込めていた記憶。
私はとうとう、その蓋を開けた。




