幕間 竹森――彼女の笑顔は、すごくいいですよ
困った。
販売職という仕事は、とにかく人が定着しない。
華やかな世界だと思って入ってきても、実際は立ち仕事ばかりだし、土日祝日は休めない。
売上予算もある。
店舗ごとの年間予算を月に割り、さらに日割りにして、最後は個人の目標にまで落とし込まれる。
洋服が好き。
人と話すのが好き。
それだけで続けられるほど、簡単な仕事ではない。
毎年たくさんの新入社員が入ってきて。
そして一年が経つ頃には、そのうち何人かの顔が見えなくなっている。
それを何度も見てきた。
だからこそ、店長を一人決めるだけでも簡単にはいかない。
「あー、どうしようかな」
私は机の上に広げた人員表を見ながら、何度目かわからないため息を吐いた。
「ね、西嶋くん。どう思う?」
近くで資料を確認していた西嶋くんが顔を上げる。
「横浜店の店長、辞めるんですか?」
「そうなのよ」
横浜店。
売上規模だけを見れば、決して小さな店舗ではない。
スタッフ数も多い。
百貨店側とのやり取りもある。
そこへ、誰を置くか。
「渋谷店のサブの田中か、新宿店の中山かなって思ってるんだけど」
経験だけなら、その辺りが妥当だ。
どちらも現場歴は長い。
スタッフをまとめる立場も経験している。
ただ。
決め手に欠ける。
数字だけなら悪くない。
でも店長は、数字だけを見ていればいい仕事じゃない。
スタッフ同士の空気。
売り場の雰囲気。
百貨店との関係。
お客様への接客。
その全部を背負うことになる。
「池袋の、桐谷は」
突然、西嶋くんが言った。
私は顔を上げた。
「桐谷?」
一瞬、誰のことか分からなかった。
頭の中で池袋店のスタッフを順番に思い浮かべる。
「ああ、桐谷さん?」
確か。
入社二年目。
「桐谷はまだ二年目でしょ?」
「そうですね」
「いきなり横浜は、ちょっと早くない?」
横浜店は、若手に経験を積ませるために置くような店舗ではない。
結果を求められる。
失敗すれば、本人にもかなりの負担がかかる。
西嶋くんも、それくらいは分かっているはずだ。
なのに。
「彼女の笑顔は、すごくいいですよ」
思っていたものと違う答えが返ってきた。
私は思わず瞬きをした。
「……笑顔?」
「はい」
そこ?
人事の話をしているのに。
店長経験でもなく。
売上実績でもなく。
最初に出てきた評価が、笑顔。
西嶋くんらしくない。
普段、人の愛嬌なんて興味がなさそうな顔をしているからこそ、その言葉が妙に引っかかった。
「へえ」
私は西嶋くんの顔を見る。
「西嶋くんが、そういうところ見るなんて珍しいわね」
「そうですか?」
「そうよ。もっと数字とか、効率とか言う人だと思ってた」
「数字も悪くないですよ」
さらりと返される。
やっぱり、ちゃんと見ている。
それが余計に気になった。
「まさか、お気に入りなの?」
半分は冗談だった。
けれど。
残り半分は、少しだけ本気。
だって。
あの西嶋くんが。
まだ二年目の販売員の名前を出して。
その子の数字まで把握していて。
さらに、笑顔まで覚えている。
普通なら、少しくらい勘ぐりたくなる。
「俺がですか?」
本人は、心底意外そうな顔をした。
「そうよ」
「ないですよ」
あっさり。
「俺は公私は分けるタイプなんで」
「ああ、そうね。ごめんごめん」
確かに。
西嶋くんは、そういう男だ。
仕事に私情を持ち込むようなタイプには見えない。
むしろ。
誰よりも、それを嫌う人間に見える。
だから私は、それ以上深く聞かなかった。
「桐谷かー」
もう一度、人員表へ目を落とす。
池袋店。
桐谷文香。
入社二年目。
実績だけ見れば、決して悪くない。
接客評価も高い。
クレームも少ない。
スタッフ間のトラブルも聞かない。
でも。
横浜店の店長。
普通なら、候補には入れない。
早すぎる。
そう思う。
それでも。
西嶋くんの、
『彼女の笑顔は、すごくいいですよ』
という言葉だけが、妙に頭に残った。
私は社内恋愛の末、結婚した。
主人は出世街道に乗り、今では常務だ。
だからこそ。
仕事の中で生まれる感情が、人を見る目を曇らせることも知っている。
逆に。
普段よく人を見ている人間が、何気なく口にした一言の方が、意外と核心を突いていることもある。
西嶋くんのことを、主人が以前から高く評価していることも知っていた。
人を見る目がない男ではない。
「……桐谷ね」
私はペンを持ち、候補者の名前の横に小さく印をつけた。
検討してみよう。
それくらいの気持ちだった。
本当に。
それくらい。
けれど。
結果として。
私は彼女を、異例とも言える人事で横浜へ回すことになる。
そして桐谷文香は。
私たちが思っていた以上の速さで。
メキメキと頭角を現していった。




